2025年8月30日土曜日

ホンノ一言: 日本社会の保守性は何度書いてもどうにもならないか・・・

プロ野球の国際的祭典として定着した(かに見える)《WBC》が来春に開催される予定だが、その全試合の独占放送権をNetflixが獲得した、つまり日本の地上波でWBCの試合中継が流れることはない、と。これでもって、日本国内はちょっとした大騒動になっている  ―  おそらく大騒動になっているのは、この事態に陥った直接関係者である日本だけではないかと推量するのだが。

状況はどう変化していくのか、小生にはよく分からない。視聴したければ、開催期間中だけ、Netflixのアカウントを約千円で買えばすむ。たとえ広告付きスタンダードでも地上波より画質は良いし、生中継、録画を含めて全試合をいつでも(何度でも?)視れると思えば、大して高い買い物ではない  ―  ブルーレイへのダビングは出来ないと思われるが。

しかし、CMが流れないアカウントで視るとすると、日本企業が広告宣伝費を支出する動機はそれだけ弱まる。スポンサーとなる日本企業が減れば、主催者であるMLBにとっては損失だろう。今後は、日本企業が広告を出すモチベーションをいかにして維持するかがポイントになる。

どちらにしても、アメリカが儲ける話である、WBCは。

***

こんな騒動を見ながら思うのだが、ネット配信ビジネスが日本で立ち上がっていれば、何もNetflixに日本で開催される試合の独占放送権まで奪われる羽目にはならなかったはずである。Netflixの競合企業が日本でも生まれ、グローバル企業に育っていれば、高騰する放送権料も払えたであろう。

これが出来なかったのは、日本のメディア業界の閉鎖性、つまりは保守的体質のためである。

話しは変わるが、成田空港、羽田空港では、いま来日するインバウンド観光客を客待ちする外国人の《白タク業》が増えていて、その違法運転者をいかにして取り締まるかが大問題だと、よくTVのワイドショーでとりあげられている。

これを見ると、何だか外国人による犯罪が増えているという印象が拡散しそうなのだが、しかし「白タク」という言葉自体が、タクシー業界の独占的利権を肯定した上での言語表現であって、日本でもUberやLyft、Grabなどの現代的な配車サービス企業が既に立ち上がっていれば、何の問題も発生していないはずである  ―  もちろん、その時はその時で、新しいタイプの問題は生じる。要は、『まず、やってみなセエ』、ということなのだ。

これも日本国内の運送業界がひきずっている保守的体質がもたらした混乱だと言える。

明日は、上の愚息の誕生日で、祝ってやるような年齢ではないが、エスコンフィールドでファイターズ対イーグルスを観戦する予定だ。そのエスコンフィールド、今でこそ大人気だが、2023年の開業を控えた22年の秋だったか、記憶によればバックネットまでの距離が短すぎて規則に違反しているとの指摘があったよし。造りなおすかという極論もあったそうだが、野球の発祥国・アメリカのスタジアム設計の実態調査でもしたのだろうか、結局、ファイターズが罰金を支払うことで手打ちとなり、改造なしでOKになった(ようだ)。そして、蓋をあけてみれば、客席とグラウンドとの距離が短いというのが観客に高く評価される一因になっている。

この騒動も、日本のプロスポーツ界の保守的体質がもたらしたと言える。

***

アメリカ人は変えるのが好きである。にわかなポット出のバラク・オバマ大統領候補が、"Change!"を標語にしつつ、"Yes, We Can"と連呼して大統領に当選した国である。

他方、日本は《変えない》姿勢こそ《ブレない》と評価されるお国柄である。"We Can"ではなく《リスク》を先ず心配する国民性である。

少し以前はいまほど酷くはなかったが、ごく最近の日本では「変える」イコール「先輩を貶めている」と解釈されたり、「何様のつもりだ」と非難されたり・・・そんな「リスク」がある。また、「リスクを引き受ける」イコール「独裁者だ」と攻撃されたり、「自分独りでやれ」と罵られる、そんな心配がある。

1980年代末に日本経済は世界に追いつき、追い越そうとしていたが、その後の30年余ですっかり遅れてしまったのは、「海図なき航海」を日本のお国柄と国民性で乗り切ろうとした基本姿勢がその根底にあった。

経済戦略は、お国柄や国民性に寄り添って選択するものではない。ときに為すべき事は、(その時代の)お国柄や国民性に逆らうものである。

客観的に必要な政策の必要性を、政治家が国民の感性に逆らってでも説得しようと努力するその在り方そのものが、民主主義社会が正に民主的である証拠である。君主制社会であれば、政治家が国民の理解を得ようと最後まで努力する義務はない。究極的には武断的に措置することも可能である  ―  もちろん理屈としては逆のパターンもあるから、先験的にどちらが良いとは言えない。

戦後日本の諸改革が見事に成功したのは最高権力が占領軍にあったからだ。この事実を忘れるべきではない。

歴史を通して、日本で起きる変革には、多くは流血や内戦を伴っている。漸進的な路線変更を試行するのが、日本人は極めて苦手である。保守性はムベなるかな、である。

それにしても、日本社会の保守性、閉鎖性について何度投稿すればいいのだろう?ネットには、多数の同趣旨の記事を見かける。しかし、現代日本社会の大勢は変わらないだろう。

日本のお国柄と国民性が変わらないとすれば、戦後日本の民主主義のままで、世界の潮流に遅れることなく変化し、成長し、進化していくのは、もう難しいのじゃあないか、と。何だか、先祖から継承した老舗が屋号もろとも倒れていくような危惧を感じるのであります。「経済大国」に一度なったことが、その後の衰退への始まりであったとすれば、これまた現代日本を舞台にした『平家物語』とでも言うべきでありましょう。

0 件のコメント: