2025年8月4日月曜日

断想: 戦争ではなく平和を続けるためのエートスとは

和辻哲郎と言えば、戦前期・日本での評価は実感として分かるはずもないが、少なとも戦後日本社会からは大いに愛されてきた学者・随筆家で、かつては高校入試、大学入試でも 頻出作家として受験生からはマークされていたものだ。特に『面とペルソナ』や『古寺巡礼』あたりは、誰もが一度は目を通しておくべき作品として名前を耳にした10代 の若者は、その当時、多かったはずである。その『古寺巡礼』をいま枕元において、パラパラとめくっては、拾い読みをしている。何だか懐かしい文章がそこにはある。

久しぶりに帰省して親兄弟の中で一夜を過ごした・・・昨夜父は言った。お前のやっていることは道のためにどれだけ役にたつのか。頽廃した世道人心を救うのにどれだけ 貢献することができるのか。この問いには返事ができなかった。五六年前ならイキナリ反発したかも知れない。しかし今は、父がこの問いを発する心持ちに対して、頭を下 げないではいられなかった。・・・父の言葉はひどくこたえた。
現代国語の入試問題を作成しているなら、
  1. なぜ父の言葉がひどくこたえたのか、著者の思いを100字以内でまとめなさい。
  2. 著者の父が使っている「道」とはどんな事を指していると思うか。文中で使用されている言葉を使って10字以内で答えなさい。
まあ、この位の設問は是非入れたいところだ。

それにしても、父が息子に対して「ひどくこたえる」文句を口にする情景は、昔も今も変わらないとつくづく思う。小生も父からは散々に《低評価》されたものである ― 本気で息子を低評価したいと願う父親などいないに決まっているが。

確認すると、『古寺巡礼』が岩波書店から刊行されたのは、大正8年(1919年)であったと巻末の解説には書かれている。父のいう「頽廃した世道人心」が無視できない ような現実があったのだろうかと考えると、確かに混迷した世界がそこにはあったわけだ。大正3年から続いていた第一次世界大戦は前年の大正7年にドイツの内部崩壊で終わり、 翌8年にはベルサイユ講和会議が始まっていた。日本は連合国側であったため敗戦の苦渋は免れたが、戦時中のインフレとバブル景気から食料品価格が暴騰して、全国 で《米騒動》が起こっていた。和辻哲郎の父が

頽廃した世道人心を救う
ことこそ、まずお前が為すべき事だろう、と。明治の世代であれば、確かにそう考えたはずであろう。その位は、約100年後の令和・日本に生きる小生であっても、何となく想像はできるのだ、な。《公私の公》こそ明治の精神、というより武士の精神として重んじるべき規範であったのだから。

公私の公。臣より君、人より神、欲より大義、下より上、と言ってもイイかもしれない。

加えて(と言うべきか)、日本という国には衆生済度を旨とする大乗仏教の伝統がしっかりと根付いている、というより、いた。この理念と公私の公が結合すると、それはそれは強烈に人を縛っていたことであろうと想像している・・・
そんなの親世代の押し付けだろ!おれには関係ないよ!
こんなやりとりこそ「公より私をとる町人国家」として歩む戦後日本には相応しい。が、この種のエートスでは公の公たる国は守れない。故に、世界の公たるアメリカを(尊敬して?)頼る、というより頼って来た。アメリカはアメリカを(命をかけて)守ろうとしているし、親アメリカ勢力をも(可能な限り)守って来た。

それでも心配だ。栄光ある古代アテネの民主主義も最後には反民主主義陣営に敗北したのだ。後には専制的なヘレニズム世界に拡大、吸収されていった。

情けないナアと思う日本人が(少なからず?)いることは知っている。

なおそれでも、戦争ではなく、(曲がりなりにもでも)平和を続けるには、世道人心を救うことになど関心をもたず、衆生済度などには無関心を決め込み、ひたすら自分自身の願望と欲望を追求することが、正しい道なのである・・・マ、確かにこれがロジックであると考える自分がいる。

合理性と情けなさは往々にして同居するのである。非合理性と立派さが両立するケースが意外と多い事実と同じである。

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