2025年10月18日土曜日

断想: 不確実な混乱の時代にどう生きて行けばいいのかという問いかけ

年内には新政権の骨格が決まるかネエ、と期待(?)していたのだが、維新の会が立民・国民、更には公明(?)など野党各党のまとまりの無さに嫌気がさしたか、敵対する自民側に抜け駆け(?)をしたようで、どうやら来週には高市首相が首班指名で選ばれそうな状況になって来た。

「抜け駆け」と上では書いてしまったが、維新の会の立場から言えば

立民と国民と、二党が合意できるようであれば、維新の会も合流する

基本方針はそもそもこうだと語っていたわけで、二党合意が覚束ないとなれば、思い切った譲歩を提案してきた自民側を助太刀するとしても、何も不義理をしたわけじゃあない……自らを高く売るのは当たり前の「合理的行為」である。


この位の理屈は誰でも理解していると思うが、日本ではこれを

洞ヶ峠を決めこむ

と言う。秀吉と光秀が戦った山崎の合戦で洞ヶ峠まで出陣したもののそのまま様子見を決め込んだ筒井順慶を諷していうのだが、賢いようでいて、それ以後は信用を失い、常に疑惑の目で見られたことの犠牲は大きかった。順慶は苦労の多い戦後の人生を生きた果てに若くして死に、家はゴタゴタが相次ぎ、豊臣派と徳川派に分かれ、結局、大坂夏の陣を待たずに断絶してしまった・・・と思ったが、確認すると夏の陣が5月、順慶の養嗣子・定次の切腹と筒井家断絶が3月であった。豊臣と徳川の間で曖昧な態度をとる筒井家に疑惑をもった幕府が、夏の陣を前に禍根を断ったのであろう。

山崎の合戦を前にした順慶の小賢しい行動が、筒井家の印象を決定づけ、それがずっと後になって支配者の疑惑を招き、御家断絶へと至ったわけである。

混乱の時代には、単勝ではなく複勝で賭けたい、保険をかけておくのが賢い作戦ではあるはずなのだが、競馬では通用しても現実世界の修羅の道では

定石、必ずしも正解ならず

である。慎重に両賭けすることで、かえって墓穴を掘る結果になる例は史上に多い。


カネが資産ならいわゆる「合理的行動」で正解だが、それはカネがヒトではないからだ。ヒトの心に育てる信頼が資産なら、自分の「合理的行動」が資産喪失の原因になることがある。

敗北の原因は色々とあるのである。

それは自らの行動が合理的だと判断したその思考回路が、そのときの状況(=ゲームのルール)を支配している戦略的ロジックに当てはまっていないという、その事実を見過ごすこと、ここに敗北の原因があるわけだ。

とはいえ、

いずれが勝つかを見極めるのは非常に困難だ

混乱期とはこんな時代のことを言う。つまり見通しには不確実性がある。今もそうなのだろう。


不確実性の下で(定石であるはずの)二股を賭けると、これまたリスクとなりうる。困ってしまう……。そうであるならリスクから身を遠ざけるしかない。つまり

そもそもリスクを回避したいなら、勝負の場には身をおかず、何もせず傍観に徹し、事後的に勝者への忠誠を誓う。

これが《ハト戦略》であって、混迷の時代で身を全うするなら唯一の選択肢であるかもしれない。「長いものには巻かれる」戦略でもある。よく言えば「明哲保身の道」にもなる。

才能はあっても(あるいはホドホドでも)安全な人物は、使える人物でもあり、平和な時代には必ず需要される。ほとんどの人は、こんな方針で人生を送っているはずだ。単に才能がないだけなら人目を引かず警戒もされないので安心してよい。身を滅ぼす危険があるのは、才能がなくて、欲がある人物だ。目標のある人物、野心(≒向上心)がある人物も危険である。そんな人物は自ら修羅の道を選ぶ。同レベルの人物と結託しているうちは大した結果も出ないのでまだよい。しかし、才能あるリーダーと競うときがやってくる。その時になって協調の意志を示しても遅いのである。才能あるリーダーは才能ある配下を見分ける。故に、危険だけがある才能不十分な人材は排除されるのである。


自分の鑑識眼に自信があるなら

自分の眼を信じる

これも可である。そうすれば、リスクへの恐怖、リスク回避願望が、自らの心の中で高まることはないのである。自信をもってオールインを敢えてとることが出来るはずだ。

今回の維新の会の選択が、上に述べたどのケースに該当するかは、追々、分かって来るだろう。


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