小生が暮らしている北海道の海辺の小都市でも熊の目撃が市役所のホームページで公開されている。昨日は歩いて行ける程の地点で熊が複数回確認された。こんな状況では散歩するのも心配だ。カミさんは今は外出しないでと言っている。
こんな年は当地に移住してから初めてだ。
「まだ高すぎる」と世間で騒ぎがおさまらないコメは、Costcoで米国産カルローズ米が3000円/5Kgほどで買えるので心配はないが、熊にはホトホトまいっている。
思うのだが、「昨秋来の米価高騰」と「今秋の熊被害急増」。この二つは明らかに《行政ミス》であろう。地震は予知困難な天災だが、米価や熊被害は近年の構造変化、トレンド変化から予測可能であった(はずだ)。
一口に言えば、不作為の責めを負う。不作為とまでは言えなくとも、行政判断に見落としがあったことは否定できない。
判断ミスといえば、東日本大震災と福一原発事故ではどうであったかという議論はまだあるようだ。要約すると、大震災自体は事前予測困難。また津波による福一原発事故は、確かに社内の一部から注意喚起があったものの、大多数の情報は防災の十分性を示唆していた(と聞いている)ので、経営判断ミスがあったかどうかは断定が難しかろうと(小生も)思う。
コロナ禍への対応はどうであったか?防疫措置は十分であったのだろうか、自粛は効果的であった(のだろう)が、その反面で学童・学生へのしわ寄せが非常に過酷なものになった。「行政ミス」はなかったのか?
更なる検証が望ましいと思うのだが、必要性を指摘する意見は(少なくともメディアでは)ほとんど聞かない ― もし詳細に検証すると、メディアの報道ミス、解説ミスもまた検討の俎上にのぼるのは確実であるから、この辺を心配しての姿勢かもしれない。
もっと遡れば、1990年代のバブル抑制と不良債権への対応が適切であったかどうか、これもまた検証が不十分なまま残されていると思う。そこに行政判断ミスはなかったか?報道ミスはなかったか?国民の側の誤解はなかったか?
このように"further analysis"が必要であるにも関わらず、今は過ぎ去った過去の出来事だと忘れられている"disaster"は多い。
そのうち、誰か関心を持った人がゼロから調べて、本か何かにまとめるのだろうか?誰かが書評を書いて、何千部か売れるのだろうか?ひょっとすると、何かで受賞するかもしれない。しかし、社会的レベルでは小石が1個、池に投げられる時に出来る波紋のようなものであろう。
そのうち、そんな事は覚えていない世代が成長して、日本社会はリセットされ、リアルな大事件も歴史の中の一コマとなる・・・
日本という国は、そうやって大災害や大事件をやり過ごしてきた。しかし、自分が判断ミスをしたかどうかは、責任者当人は感じているはずである。自分の判断が適切であれば防止できていた(かもしれない)犠牲者の生命、犠牲者の遺族たちに、ずっと後年になってから痛切に思いをはせるのは、その人にとってとても辛い(はずだ)。
ただ「熊」にしても、「米価」にしても、関係機関、関係部署、関係者の数が多く、分担する責任も蜘蛛の巣のように絡み合っているため、実際には「自分の責任ではない」と。そう思う人が実は大半を占めているに違いない。
総理大臣もその権限は法で規定されていて万能ではない。多分、アメリカのトランプ大統領の10分の1ほどの権限もあるまい。県知事や市町村長に命令を下すことは不可。せいぜい「要請」だ。任命権者ですらないのである。
いま日本国に最高の統治者は存在していない ― この点は、日本だけではなく、アメリカ、欧州など全ての民主主義国でも同じで、権力は分立されている。三権分立はその一例だ。
なので、統治ミス、行政ミスがあるとしても、全てを引き受ける「統治者」がいない以上、ミスの責任を明確化できる理屈はない。
民主主義国は、全て《有限責任国家》である。一人の人間が権限として分担する責任は、実は小さなものなのだ。乗客の命を預かる航空機の機長の方が(機上では)万能だ。戦後日本では兵役の義務もなく、総理大臣は、理屈として日本人の命を預かっているわけではないのだ。
熊被害にあった人々には気の毒だが、地震や水害による死とどれほどの違いがあるだろうと思うと、暗澹とした気分になる。
日本とアメリカの大きな違いは、「自分たちを守るのは自分たちである」と、覚悟を決めて行動する当事者たちの意志を尊重する社会の気風にある。明治以後の日本は、「地方自治」が全くないか、もしくは不徹底で、全国一律の法で統治されるのが基本だ。そして日本人はそんな「国のあり方」にプライドを感じているはずだ ― 小生はもっとも辟易するところだが。
そもそも熊もいない地域と大半の熊が生息している地域で、全国統一的な動物保護精神など運用されるはずもないわけである。
残念ながら、戦前、戦中だけではなく、個人の権利が重視されるはずの戦後においても、日本という国は日本人一人一人の生命をそれほど大切にする国ではない。自らを守る権利や、行動や選択の自由を社会全体でリスペクトする気風、感情がある国とは言えない。
尊いのは「国」であり、(日本人の?)「社会」である。尊重するべきは(日本人の?)「社会の意思」であって「当事者の意思」ではない。これが小生の日本観である。
だから、大切なのは、《国の法》であって、《社会の掟》であり、《地域》ではなく、まして、そこにいる《日本人》の命ではない。
建て前はともかく、現実はそうでありませんか?
【加筆修正:2025-11-06、11-10】
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