2025年10月25日土曜日

断想: 社会が深みをなくし浅くなる感覚?

ずっと以前、「新聞は世相を映す鏡」とまでは言えなかった。週刊誌もまた「世間の似顔絵」とは言えなかった。

今日のネットはどうだろう?

ネットは「世間を映し出す鏡」になっているのだろうか?

今日、何気なくネットを眺めていると、

暴力団関係者、半グレは世間の敵。根絶するように国に頑張ってもらいたいです。

こんな主旨のコメントが目に入った。

同様のコメントは星の数ほど寄せられているはずだ。


思ったのだが、作用には反作用がある。

世間に対して敵対的行為をとる人物がいる。反社会的組織がある。しかし、二つの側が対立しているなら、反社から眺めれば世間は反・反社という存在に見えるだろう。

世間に敵対する側が反社会的だと判断されるのは法律は絶対的に正しいという大前提に立つからだ。しかし、その法律は世間が決めている。世間が決めた判断を善として、それに従わない側を悪として、故に反社会的だと呼ぶ。これが人間社会の永遠の、というより現代社会のルールである   ―   法の論理を貫徹すればこれ以外の立場をとりようがない。

社会的な側は反社会的な側を「根絶」しようとする。根絶やしにしようとする。しかし、作用には反作用がある。根絶される側は、自らを根絶しようとする側を根絶しようとするだろう。互いにそれは正しいと認識するだろう。存在を認めないとはそういうことだ。

しかし、観察するに反社会的人間/組織は、世間を攻撃はするが、根絶しようとはしていない。敵対者を根絶しようと考えているのは世間の側である。部屋の清掃が行き届けば行き届くほど、わずかな塵も気に入らない。蚊一匹いても許せない。同じ心理である。

ここに非対称的な不毛を感じる。

今日は、北村薫『空飛ぶ馬』を読んだ。初めの『織部の霊』にこんな下りがあった:

手放しの愛情、己をむなしゅうするようなそれは、渇仰かつぎょうされるべき一つの境地のような気がする。

己が空しくなっていない状態で考える事には必ず《自我》に由来する煩悩が混じる。これは何回となく投稿してきたところだ。 

唯識論で想定する人間存在では、考える根拠である末那識そのものに《我》という仮想的存在が前提される。実在しない存在を実在するかのように考える。故に、煩悩から免れ得ないものとして、人間を描写する。

しかし「手放しの愛情」、己が混じらない愛は、確かにあるような気がする。西田幾多郎の《主客未分の純粋経験》を連想してしまった。

「我を忘れて」という境地で下す判断は、というよりそんな時の判断だけが、普遍性をもつ真の判断である。あとは個々の人間の考える判断で、自我に汚れている思考によるものだ。

「正しい自分たち」と「悪い反社会的人間」という分別にも、世間で共有される我執、我愛が染みついている。

随分以前にこんな投稿をしたことがある:

左衛門: あなたがたは善いことしかなさらないそうだでな。わしは悪いことしかしませんでな。どうも肌が合いませんよ。 

親鸞: いいえ悪いことしかしないのは私の事です。 

左衛門: どうせのがれられぬ悪人なら、ほかの悪人どもに侮辱されるのはいやですからね。また自分を善い人間らしく思いたくありませんからね。私は悪人だと言って名乗って世間を荒れ回りたいような気がするのです。・・・ 

親鸞: 私は地獄がなければならないと思います。その時に、同時に必ずその地獄から免れる道が無くてはならぬと思うのです。それでなくてはこの世界がうそだという気がするのです。この存在が成り立たないという気がするのです。私たちは生まれている。そしてこの世界は存在している。それならこの世界は調和したものでなくてはならない。どこかで救われているものでなくてはならない。という気がするのです・・・ 

倉田百三『出家とその弟子』の中の一節である。

どうも戦後民主主義に染まった現代日本からは、《深み》というのが消えてしまったような感じがする。 いま生きている世の中はどこか調和していない感じがする。だから《閉塞感》なる社会心理に覆われているのではないか?もし調和しているなら、成長率は低くとも、自足、満足、幸福感に支配されているはずだ。

こんな風に思ったりする最近です。


マア、河には泥や砂がたまって浅くなる。人間社会も油断をしていると、あるタイプの人間集団だけが生息可能で、非正規で非標準的な人間は棲めなくなってしまうのだろう。

「彼らは根絶するべき人たちだ」と発言する人が堂々としていて、世間に忖度しているのかわからないが、異論も反論も出てこない。それが正しいと思い込んでいるのでありましょう。それこそ仏教でいう煩悩三毒の筆頭である《痴》。即ち、無知である故の迷いであります。迷いの自覚がない凡夫の信念ほど始末のおえない厄介者はない。

多くの人が、そんな風である時、社会は四分五裂するのだと思う。「戦国時代」とはそんな時代の(一つの現象的な)帰結であったに違いない。


近世の英国人・哲学者ホッブズが洞察したように

本来、人間社会は万人の万人に対する戦いである。

敵と味方の二つに分ける態度は愚かさを映す鏡である。二つには分けられない。味方と思う世間の人々もまた《私》にとっては敵であることを知る。人間社会に敵と味方はない。敵といい、味方と言い、そんな観念自体が一つの虚妄である。これを《遍計所執》と言うことは最近勉強した。

【加筆修正:2025-10-26】

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