「高市解散」は極めて世評が悪いが、それでも一部の(熱狂的右翼の?)支持層を基礎に今でも高い支持率を誇っている様だ。
国債増発まで選択肢に入れて、積極的な財政出動、軍事拡大路線を進み、中国と戦おうという高市首相ご本人の統治スタイルが若者たちには受けているのだろうと観ている。
しかしながら、それによって金融市場、特に国債市場では先行き財政破綻懸念から国債相場暴落、長期金利急騰が続いている。
今日あたりは日銀の国債買い入れ増額方針が効いたのだろうか、相場暴落は一休みしているが、もしもこれが総理‐財務省による要請なり、プレッシャによるものであったなら、インフレ下の国債買い入れ増加イコール貨幣供給増加であるから、必然的に物価を上げる方向に作用する。
純経済学的に考えれば、「高市路線」は詰んでいるのであり、
ここは一歩後退。守りを固め、時機を待ってから反撃するべきです。
と。総理に諫言するべきタイミングなのだろうが、そうすれば「ぶれた」と批判され、そのまま失脚するのが怖いのだろうと勝手に憶測している。
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ただ、どれほど一歩後退しようが、高市総理という政治家は《国家主義者》である事実は永遠に変わるまい。
思うのだが、人は何かを信じて生きるものである。成人するまでは親、もしくは身近な保護者を信じるものである。
やがて人は独立して、自分で考えて自分の人生を歩み始める。そうなってからも、親のいうとおりという御仁もいるが、大方は何かを信じて生きているものだ。
それは友情であったり、家族であったり、人間関係であったりする。他の人間によって自分は生かされていると思えば、《社会》を信じる。社会に恩返しをしたいという心境になるものだ。逆に、社会に居場所を得られないと感覚すれば、社会に敵意をもち、時に暴発する。社会は一定の確率で、この種の不適応者を生むもので、そんな人物に対して社会は責任を感じるべきだと考えている。
社会を信じる人は、社会を支える現実の力として《国家》を求めるのも必然的な結果である。国家主義者が10人いれば10人とも社会的価値の重要性を説きたがるものだ。
日本国の尊厳を主張する保守的若者は、内面においては日本社会を守りたい、そこに生きている家族や友人、知人たちを守りたい。こんな心情があるのだろうが、この辺の国民心理(?)は、太平洋戦争に大敗した以降も日本人の心情としては、何も揺らいではいないはずである。
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これとは正反対の極にいるのは《科学》を信じるというリベラル的思考である。最もラディカルであるのは、マルクス的な科学的社会主義であって、一切の人間存在は物理学的な素粒子に還元される。人間は、要するに高分子炭素化合物なのであるから、精神的な概念や価値は単なる主観的錯誤、幻想であって、実在するものではない。社会にも実体はなく、国家にも実体はない。実在するのは、生きている生物、その中の人類という種であるから、重要なのは「食うこと」、「住むこと」、「寝ること」である。そのための「生産活動」である。こんな思考になるので、国家のためにという議論は意味がなくなる。
小生は、経済学とデータ解析で食ってきたので、唯物史観的な世界観にはずっと親近感をもっていた。が、数年前から疑問を感じ始め、いまでは完全に転向した次第は本ブログにも投稿してきた。
とはいえ、この≪科学主義≫というか「合理的リベラル思想」というべきか、こうした立場の良いところは、極めて普遍的である点である。
もしも日本政府が完全リベラルな世界観をもって統治をおこなうならば、あらゆる非科学的な偏見や先入観を排して、民族、国籍、日本人、性別、出自などを問わず、人はみな平等とみなして、全員が「食って」、「寝て」、「暮らす」ことを最高の統治目標とするはずだ。
これがいまの日本人にとって悪いはずがない。
とはいうものの、
人はパンのみにて生くるにあらず
である。『新約聖書』の中のイエスの言葉として有名だが、実は『旧約聖書』でも
それは主である神が、あなたに、人はパンだけでなく主である神の口から出る全ての言葉によって生きているということを知らせるためであった
こんな一文がある(Wikipedia)。
人間は、食べるもので自分の身体を養うが、物質的身体は「魂」や「知性」の入れ物であって、人間存在の本質は身体ではなく、精神である。
「精神」すなわち「言葉」である。個々の人間存在は、身体ではなく、言葉を使って、考えることによって実在する真理を認識している。
どうしてもそうとしか考えられない段階がやってくる。
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「国家」でも「科学」でもないが、信じるに足る対象。それが「哲学」であったり「論理学」であったり、「数学」であったりするわけだが、理性を超えたところに「宗教」がある、というのがロジックである。
社会で生きていく上で、となると第3の選択肢は「哲学」ないし「信仰」という言葉になる。
物質的身体を動かしている非物質的な実在を漢字では「精神」と書いたり「魂」とか「霊」とか「法身」と書いて理解しているが、その理解はちょうど数学者が「無限集合の濃度」や複素関数の微分可能性を理解したり、はたまたヘーゲル的な「世界精神」を理解するのと、ほゞほゞ同じ種類の知的行為である。
そんな意味合いで、観察可能な科学的真理を認めつつも、観察不能で非物質的な実在も、理解可能な範囲、議論可能な対象として信じるのが第三の立場になる。
但し、宗教や信仰は観察可能なデータで(原理的に)検証されえないため、学理としても信仰対象としても宗教対立を招きやすいのが欠点である。
とはいえ、知的行為が人類共通の行為であるという意味で、この立場も普遍的であって、特に共通の信仰の下では日本人と外国人の差別はもちろん、男女差別、人種差別等々、一切の差別を否定するところが2番目の「科学主義」、「唯物主義」と共通している ― キリスト教やイスラム教の女性観は十分な知識をもっていない。法の前の平等という多分に作為的な平等観ではなく、もっと原理的に「神の前に」あるいは「仏の前で」、「阿弥陀如来の前で」人間はすべて平等であるとみなされる。
思うのだが、この第三の立場の利点は、精神的価値と知的活動を肯定し、文化を積極的に支援することが統治上の原理になることだ。
平等施一切 同発菩提心
という句は、小生が毎朝読経している総回向文にある。「平等」という言葉は(物理ではなく)仏理に由来しているのを意外に思う人も多いかもしれない。
イノベーションは、人間の精神的活動が人間を支えるものと認識し、学問的自由を保障するところから生まれる。
だから21世紀の統治原理としては、この第三の立場しかあり得ないというのが、小生の勝手な個人的見解だ。
宗教と政治の関係性については、相当以前に一度投稿したことがある。そこで
民主政治を支える一人一人の有権者の心に宗教感情があれば、政治と宗教を完全分離するのは、そもそも不可能なことである。
こんなことを書いた。そもそも広い意味での「宗教感情」が日本人に広くもたれているのは、正月の初詣で、お盆の精霊流しなどの行事をみれば明白である ― 日本固有の神道における平等観は勉強したことがない。
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そんな意味では例えばリベラル派経済学者として著名なKrugmanが次のように発信しているのは、見解の自由、意見の自由、表現の自由を保障する在り方として羨ましく思っている。
I had never heard the term “sundowning” before it happened to my own father, yet it’s a fairly common syndrome. In his last few months my father remained lucid and rational — remained himself — during daylight hours. Once the sun went down he deteriorated, becoming confused, paranoid and aggressive.
It’s terrible to watch sundowning in someone you love. But that’s a personal tragedy – not a national or global one. It’s an entirely different matter when the president of the United States is sundowning — a president surrounded by malign sycophants who tell him whatever he wants to hear and indulge his every whim, no matter how destructive.
「サンダウニング」という言葉は、父が実際に経験するまで聞いたことがありませんでしたが、実はかなり一般的な症候群です。父は最期の数ヶ月、日中は正気で理性的な、つまり本来の自分らしさを保っていました。しかし、日が沈むと容態は悪化し、混乱し、偏執的になり、攻撃的になりました。
愛する人がサンダウニングに陥るのを見るのは辛いものです。しかし、これは個人的な悲劇であり、国家や世界規模の悲劇ではありません。アメリカ合衆国大統領がサンダウニングに陥るとなると、全く別の話です。大統領の周りには、どんなに破壊的なことであろうと、聞きたいことを何でも言い、どんな気まぐれでも甘やかす、悪意のある追従者たちがいます。
Source: substack.com
URL: https://paulkrugman.substack.com/p/its-sundowning-in-america
Date: Jan 20, 2026
Author: Paul Krugman
自国の現職・大統領を「病気」だと言っているに等しく、こんな発信が自由にできるなど、日本国の現状と比べて、その寛大さは比較を絶している。
少し前までは、日本社会は自由で大らかで、品がなくハラスメントは横行していたかもしれないが、面白く生きられる社会であった(と記憶している)。
あらゆる人が、あらゆる人に「寄り添う」とき、「国家主義」は単なる「もたれあいの社会」を作るだけである。できあがる社会は動きのとれない、非寛容な管理社会だ。もたれあい・・・かつて「酷電」と呼ばれた朝の通勤電車は文字通りの「もたれあい空間」であった。立ったまま寝ても周囲の人にもたれて倒れずにすんだ。しかし、そんな残酷な空間からは誰しも逃れたいと一人残らず思っていたのである。社会を「酷電」にして支えあうなどは知恵と創造力の欠如を象徴している。まさに「貧すれば鈍す」だ。国家主義が堕落するとこうなる。
人が人に具体的な何かを期待し、求め始め、それが自己愛と結びつくことで、人は限りなく堕落すると確信している。人が人を救えると考えるのは科学主義者であろうが、科学主義の世界に精神の自由が尊重される空間はないはずだ。
現代日本社会の若者世代に高市的統治スタイルが善いとされているのなら、今後、日本が歩んでいく道は、かなりな程度「国家主義的」で「管理国家的」な色あいを強めることになるのだろう。
弱者を救済するのは「国家」の責任であると思えば思うほど国家は権力を堂々と行使する。
やはり日本は、「国家総動員」という社会体制を一度は選択した国民なのだナアと思う。そして同じ入り口から入れば同じ出口から出て瓦解するであろう・・・そんな事態は本当に一度だけ、"Das gibt's nur einmal"であってほしいものだ。
今回の投稿は覚書だ。ちょっと舌足らずだったかな?ま、もっと書き込むのは別の機会に。