2026年5月2日土曜日

前稿の補足: 社会は人生ゲームの競技場ではない

前の投稿でこんな下りを書いた:

要は、人は色々、故に《棲み分け》が大事である。これに尽きるのではあるまいか?棲み分けとは自己組織化現象だ。いわば自然であって、自然を抑え、別の状態を法で強制しても失敗する。人の世はどんな権力をもってしても、思惑通りにはならない。

このブログで何度も書いているが、小生は折り紙付きの偏屈者だ。智慧もない凡夫だ。一口に言うと、だから、扱いにくい唯のヒトである。なので、小生にとって現代日本の世間は決して「生きやすい空間」ではなかったし、今もそうではない。書きたいことを書いて、それでも治安当局の任意聴取の対象にならないのは、「違法行為」、「要注意人物」としてマークされていないからだろう。

今更だが

アメリカでは原則自由、例外禁止。日本では原則禁止、例外自由。

こう言われることが多い。昨年の夏に亡くなった旧友・O君なら

世界の常識は日本では非常識。日本の常識は世界では非常識。

これまた今でも耳にすることが多い。日本は島国であるせいか、自分たちの美的感覚、社会的常識を頑なに守っても、それで困ることはなかったし、外国と軋轢を生じさせることも少なかった。

小生はというと、自由に行動する時も、常に周囲の目、合法か違法か、規則に違反していないか、こんな事ばかりを意識してきた。いやあ、よくもまあ懲戒処分もされず、無事にやって来れたことよと、改めて我が身の幸運に感謝している。友人の一人は、「学内不正経理」とやらで六カ月停職の憂き目にあった。尊敬する我が先輩は「セクハラ」を理由に譴責を蒙ってしまった。

近年の日本は誠に剣呑な世になっている。

リアルな体感はないが、活発だった田沼時代の後の寛政期、華やかな文化文政時代の後の天保の改革期も、同じような雰囲気だったのだろうと想像する。というか、大正から昭和にかけての急激な世の空気の変化も、今と同じようだったのだろう。

しかし意外なことに、今では単なる"Japanese"が"Japanesque"と評価されることもあるから、小生の田舎でいう「キョロマ」とは正反対の「頑固」なお国柄が功を奏することもある。

ただごく最近感じるのは、いわゆる「日本風」が世界的観光の有力地として台頭するのに刺激されたか、日本人が過剰に保守的になって、外面は優しくて寛容だが、内面は(その実)器が小さくて神経質。こんな世相を痛感することママあり。

他人は自分の鏡ではない。他人の心に自分を見るのではなく、自分の姿は自己自身のみが知る。これを徹底したいものであります。


ネットによれば、暴力団組長の葬儀に出席して取材をした新聞記者が世間で非難されている由。何も会社から指示されたのではなく、香典も自費で払ったとのこと。

どうやら「反社」とは一切の接触を断てという「お上のご条例」があるそうで。

これなどは《棲み分け》を容認しない現代日本の世相、価値観を象徴している。

棲み分け否定、同化絶対、異分子排除を貫く《イスラエル主義》を日本人は批判できんナア

そう感じる次第。


現代人は世の中を何か人生ゲームの《競技場》とでも思っているのではないかしらン・・・ゲームや競技なら統一ルールが要るのは確かだ。ルールに違反するとファウルになり、繰り返せば《退場》となる。度を越せば《永久追放》と相なる。

しかし、日本は競技場ではないし、人生はゲームでもない。勝敗を争っているわけでもない。全ての日本人は意志によってこの国に生まれたのではない。人生ゲームに参加しようと考えたわけじゃあない。居場所があればいい。価値観が合わない人とは棲み分けして、感性が一致する人と楽しくやれれば満足なのだ。人に迷惑をかけなければ好きな事をやって生きたいと願うのは凡夫の性だろう。あれはダメ、これは禁止というのも程合いがある。


全ての人には生まれた国で居場所を得る生得の権利がある。法を犯せば刑罰が伴うが、接触、会話までを絶てという権限など、最初からお上にあるはずはない。犯罪を手伝えば共犯だが、「食事をともにしたから処罰しろ」という社会は、小生の目には《暗黒社会》にみえる。どちらが暴力団か分からなくなる。

事実を虚心に観察すれば、いまのアメリカは暴力団的である。同じように我々の社会が組織暴力団的になる可能性は常にある。そう思われますがネエ…

【加筆修正:2026-5-3】

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