2026年5月28日木曜日

まとめ? 事件、正義、民主主義、司法の辺り

阿部慎之助・元監督と家族を襲った突然の不幸は多くの人の感情を刺激したのだろうか?その後も相当の論議が続いている。

とはいえ、綸言汗の如しというか、覆水盆に帰らずというか、監督復帰はもう無理な話だと思う。「あれは家庭内暴力であった」という価値判断か、事実判断か、いずれかは自明ではないとおもうが、どちらにせよ社会的判断がもう「確定」していると観られるからだ。


それにしても警察、というより公権力は民事不介入とされていた時代は、もう過ぎ去った過去なんだネエ、と。

前稿でも述べたように、小生はいくら有名人であっても、ある一人の家庭内で起きた一場の争いを公的機関が一方的に刑事事件とするのは、公権力の暴力だと考える立場にいる。

家族と他人は質的に異なる人間関係だと感じる人は多い。これは事実認識の問題だ。であれば、家族と一般的他人を同一視して発生する事象を等しく扱う近年の潮流は道理に合わないと思っている。

かつてあった「尊属殺人」という概念の廃止以降、嫡出子と庶子の均等な処遇など、日本社会は家族と他人を分けず平等な個人からなる空間としてとらえる潮流が一層明瞭になってきている。しかし、日本社会は平等な個人からなる単純な集合ではない。家族、血縁、親類などで関係づけられた構造を持った集合だ。暴行や詐取など広く社会で適用される犯罪概念を何も考えず機械的に家族に当てはめるのは知的怠慢であるばかりでなく、粗暴かつ不適切だと考える立場に小生はいる。

「家族」と「ご近所」、「世間」を区別する生活感覚は日常生活のベースであって現に機能している感覚だ。法律と法に従う公務員がその基盤をことさらに否定するのは非条理でもある。

個人的には、怖かったオヤジより公権力の横暴の方がよほど怖い。法の暴力を警戒しない根拠なき政府への信頼が現代日本になぜありうるのか、ちょっと不思議である。


最近の投稿を振り返ると、ある日は非・民主主義的なことを書く、エリートの役割を強調する、そうかと思うと別の日には小さい政府を主張する、国民の常識を優先させることを書く、一体どちらが本音なんだいと、ここらで整理しておきたくなった。

箇条書きにしておこう。

  • 公共機関が担当するほとんどの問題は、学問的に解決可能だ。そんな問題に専門知識を持たない素人が納得するまで時間をかけると、こうした手続きを必要としない国に競争劣位するのは当然だ。故に、ほとんどの問題解決については民主的介入を最小限にする方式が好きである。・・・・若い頃は100%こう考えておりました。最近、益々思いを強くしつつあります。
  • 正義というか、善悪と言うか、いわゆる価値判断については、普通の国民の常識が政府や専門家の結論より優越するべきだ。
  • その意味でも、裁判に英米的な陪審員制度を採用するのは最低限の望みだ。検察の起訴、弁護人の論述の双方を聞いたうえで、そもそも刑を課するべきか否かを専門家抜きで庶民の感覚で判断する権限を、国民は手放すべきではない。陪審員で有罪の決定をなすには全員一致、もしくはそれに準ずる多数を必要とするべきだ。
  • 地裁による一審では、例えば都道府県の選挙で選ばれた法曹資格者が検事の職務を担当し、地検は検察事務だけを行うべきだ。そもそも捜査は道警(いわゆる自治体警察)が行う。刑罰を求めるのも「地方検事」が担当する方がバランスがよい。
  • というより、検察庁は法務省と共に事務官のみとし、検察官は法曹資格者から任期制の下で広く選出するべきだ。職業検察官が検察庁内部で昇進していくという制度は廃止する。判事も(法の統一性を担保するため)職業裁判官は地裁にのみ配置する。上級裁判官は法曹界全体から任期を付けて選出する。こうなると英国的な司法制度に近くなる。

行政は道理と専門的知見に基づいてロジカルかつスピーディに進め、価値や正義に関することは司法において、ということか?

であれば、余計のこと《司法の民主化》を小生は願望している、ということか?

まあ、こんな風にリストアップすると、自分がどんな事をポイントだと考えているか、どんな国、どんな社会に住みたいと思っているのか、我ながら自分でも分かるような気がしてくる。

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