2026年6月24日水曜日

ホンの一言: 権力という刀を抜くときの心構えという話になるか

話題としては旭川ローカルな事件だったが、同市で起きた女子高生殺人事件は結構な全国ニュースであったらしく、今週前半は主犯に懲役27年と言う「意外に軽い判決?」が出たというので、又々、喧々諤々の論議になった。

大変だろうなあ、と。判決を出す側の判事(それから裁判員)も求刑をした検事も、その気になればどんな重罰も申し渡せる立場にいる。いわば公権力という誰も抵抗できない《刀》を抜いて人を裁くという仕事をしているわけだ。

小生はずっと昔に小役人をやっていたが、とてもじゃないが、他人の人生を己が裁量で決めるという仕事を選ぼうとは思わない。

とはいえ、学生の人生を決めたり、裁いたりして来たではないかと言われれば、その通りであって、その時々にした自らの裁量をいまこの時点で非難されるとしたら釈明はしない。

落花不語空辭樹

流水無情自入池

落花ものいわずして、空しく樹を辞し、

流水こころのうして自ずから池に入る。

白楽天の『過元家履信宅』にある一句であるが、高校在籍時に使っていた漢文の参考書で見つけて以来、小生はこの心境を好んできた。

流水無心

道理無我

は、大勢の人間と触れ合いながら仕事をせざるを得なかった役人時代に心を支えていた《座右の銘》、それも自作の標語であった。

母方の祖父は職業裁判官であったが、晩年になって

法廷で 死刑を宣し 勲〇等

という川柳を作ったそうだ。

裁判官は己の心象によって判決を下す権限、つまり自由心象主義が憲法で認められている。が、当の判事も刑を求める検事も自分の(文字通りの)意志と裁量で被告人に死刑を宣すると自分で考えれば、行為としてそれは殺人である。

いくら給料を貰っても良心があればそんな職務に耐えられるはずはない。

求刑や判決は《法の道理》を映すもので、そこに《我》はない。道理無我である。

そう考えなければ、いくら世間で《悪人》と呼ばれようが、意のままに人を刑務所に送ったり、命を奪ったりできるはずはない。我意によって人を害すれば、その行為はそれ自体として悪に決まっている。

司法官の職務は、法の論理に寄り添うことであり、被害者遺族に寄り添うことではない。その意味では、その職は非人間的で非人情の境地にある。

・・・別の話になるが、上の事件の被告人であった女性。幼少の頃から陽気で、人を仕切れるだけの才質があったということだ。ところが仕事についてもうまく行かず、反社組織の人物と交際するようになってから悪の道に入ったよし。


いま親の躾を非難する声が世間にはあるという。

まあ、世間とはそんなモノだ。無責任ぶりには呆れると言うしかあるまい。

実際には、親が子に体罰を課して折檻すれば暴行となる。子の嫌がる説教をすればハラスメントとなる。《コンプライアンス》はこんな状況を国民に強制するのである。

この10年程の世相の下では、悪の道に入りかけた子を親が激しく叱責して、真っ当な道に引き戻す努力をするとしても、もはやそれは非難の対象であり、決して称賛されることではなくなった。色々な問題で苦しむ家族に世間は寄り添わないのが現実だ。


思うに、成人前後の被告人は、浅はかな「非暴力主義」が蔓延る現代日本が(逆説的に)生み出したものであり、その意味では社会的産物である(と思っている)。

それでなくとも、日本文化は様式美を重んじるという特徴がある(と思っている)。現代日本人も美に対しては繊細な感覚をもつ(と思っている)。しかし、そうした特徴は反面で外観、形式に偏るルッキズムに堕しやすい。

外観をみて本質には目を向けない風潮になりやすい。外面を気にして本質を考えないという無思慮につながりやすい。現代日本社会の「体罰=暴行」という潔癖な非暴力主義は、無思慮の典型だと思って観ている。「被告人を死刑にしろ」と法廷内で騒いだ暴漢の声と「体罰は厳禁です」という世間の声と、同じ現代日本の世間の声である。もはや現代日本の世間に真っ当な思考を期待しても無理である。


社会理念の欠陥は、特に10代から20代にかけての、いわば「大人になりかけの世代」の行動様式にしわ寄せされて現れるものだ。

刑の軽重などを論議するよりは、社会的価値観のバランスが失われている点に目を向けるのが先決だと思うがいかに?

放っておけば、今後も別の形で理念的な偏り(とその反作用)が現象化するものと予想する。太平洋戦争中、「八紘一宇」などと夢想のような国家目標を日本人は(何も考えずに?)是としていた。神風特攻隊を賛美する日常行動もそこから発していた(と思う)。それと同じ時代相をみている感じがする。

 

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