2026年6月18日木曜日

覚書き: 念仏修行の現在地点

 一昨年の2024年10月に寺で五重相伝をうけたとき毎日三百遍の称名念仏を誓った。それから1年半が経ったが、最近は毎朝6時に始め千遍の念仏を称えられるようになった。今年初めはまだ毎朝三百ないし五百遍であったが、何かの拍子で吐く息が尽きるまで十念で止めずずっと念仏を続ける仕方を「発見」した。それがヒントになり、今では腹式呼吸で息を吸ったあと、吐く息が尽きるまで南無阿弥陀仏を称える。そうすると一息で二十遍を称えられることに偶然気がついたのだ。

このやり方がいいのか悪いのか分からない。ただ、このやり方が効果的であったのか、集中心が途切れることなく、30分で1000遍、というより数珠の1コマごとに20遍。1周が27コマ、これを3周するから$20 \times 27 \times 3 \,=\, 1620$、いまの自分には十分な気がする。実際には、1息で20遍にはならない時もあり、3周目は1コマ10遍にすることも多いので、この場合は$18 \times 27 \times 2 + 10 \times 27 \,=\, 1242$になって概ね1000遍になる。

時間的にも線香が一本燃え尽きるまでになるから丁度よい。

法然は一念と多念に意義の違いはないとしているが、自らには三万遍を課し、一念派の幸西を破門している。回数を決めておくのは懈怠(=怠け心)を抑えるコツであるとも応えている。小生ももっとやれるかもしれない。が、しばらくは今の状態で落ちつきそうだ。

この30分の間、心を散らすのは本来はダメなのだが、色々な事を考える。

阿弥陀仏なる宗教的観念は当然のことインド発祥のものだが、当のインドでは日本の神仏習合とは逆に土俗的なヒンズー教が仏教を吸収してしまい、いま現在のインドに古代から残る仏教寺院はない。

大乗仏典をどう位置付けるかと言う学問上の論点はあるが、阿弥陀仏をいわゆる《浄土三部経》の文章からイメージ化すると「無限の光明」ということばで表される。だから、例えば『観無量寿経」では称名念仏の前に観想念仏の意義を釈迦如来が王妃・ヴァイデーヒーと弟子・アーナンダに語っているのだが、そこで第一に挙げられているのは《日想観》である。

心をしっかりと据え、観想を集中して動揺しないようにし、まさに沈もうとする太陽の形が天空にかかった太鼓のようであるのを観るのだ。

岩波文庫『浄土三部経』ではそう訳されている。

また阿弥陀仏については

かの仏の円光は百億の三千大千世界のようである・・・一々の光明はあまねく十方の世界を照らして、仏を念ずる生ける者どもをおさめ取って捨てられることがない。

こんな風に表現している。いわゆる9番目の《身心観文》だが、これをみても阿弥陀仏のイメージは陰りのない光であって、だからこそ阿弥陀仏は「無量寿仏」とも「無量光仏」、「無辺光仏」とも呼ぶわけであろう。

思うのだが、インド発祥のオリジナル阿弥陀仏のイメージは、法然が専修念仏の道を啓いた時の阿弥陀仏とかなり大きな違いがあると感じる。

前の投稿でも書いているが、

夜さしふけて見人もなく、聞人もなからむ時、しのびやかに起居て、百反(=百遍)にても千反(=千遍)にても、多少こころにまかせて申さむ念仏のみぞ、かざる心もなければ仏意に相応して決定往生はとぐべき。

(現代文訳:同)

深夜になり自分を見る人も聞く人もいない時、こっそり起きていて、百遍でも千遍でも、数の多少は思いのままにして称える念仏だけが、外見を飾る心がないので、仏の意志に適って間違いなく往生を遂げるでしょう。

念仏は(小生の宗派では)修行の一つの形であるが、人に見せて評価してもらう行為ではない。つまりパフォーマンスではない。だから、上に引用したように、皆が寝静まった深夜に起きて、自分だけに聞こえる声の大きさで称える念仏こそ、念仏としての意義がある、と。そう述べられている。というより、夜更けてから独り念仏を称える情景は、やはり極めて日本的であり、全くインド的でない。

法然の和歌のうち下の一首は有名である:

月影の いたらぬ里は なけれども

     ながむる人の 心にぞすむ 

 阿弥陀如来からさす光は月の光のようである、と。陰り無き光明というより、夜空に浮かぶ月のイメージをもって阿弥陀仏を観念化していることが伝わる。インド・オリジナルの阿弥陀仏とそれが中国経由で日本に伝わり鎌倉時代初めになって法然が表現した阿弥陀仏には大きな違いがある。

もともとは太陽のようであった阿弥陀仏が日本では月のイメージで理解されるようになった・・・

その違いは自らを「凡夫」であると思う心から生まれる(と勝手に理解している)。

「凡夫」とは普通の人間という意味で、我にこだわる煩悩に心は汚れきっている存在だ。ありのままの真実をみる覚悟はなく無知と偏見にまみれている。無知と偏見にまみれながら毎日を過ごし、それを自覚しないでいられるのは、智慧に欠けているためで、これが《無明》である。自分が迷子であることに気づく前の迷子に似ている。

真っ暗な夜空の中天に輝く月をみて、無明の闇に迷う自分自身をたすけてくれる阿弥陀仏の実在を感得したのであろう、そんな風に思っているところだ。

凡夫の自覚は迷いの自覚である。

無限の光明は悟りを目指す菩薩の理想である。それに対して夜空にかかる月は永遠に迷うダメな自分に向けられた一筋の光である。

同じ阿弥陀仏を思うとしても、思う人の心によって全くちがうイメージで思われるのである。


仏道では《知》と《智》を厳格に区別する。知とは知識である。学んで身につく学力と言っても可かもしれない。しかし、勉強して覚えた知識は(宗教学上の)仕事には役に立っても、阿弥陀仏国に往生する役には立たない。だからこそ『一枚起請文』の中で

智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし

と書きのこしたわけである。

知識を仕入れて知者のふるまいをする人なら現代日本に無数にいる。しかし、智者はほとんどいないのかもしれない。智とは正しい認識(=正しい宇宙観?正しい生命観?)を持つための必須の要件だ。知識を超えて真の認識に至る最後の一振りが智慧の働きである(と理解している)。

知者と智者の違いは、普通の人であっても、話を聴いているだけで分かるものである・・・というのは歴史が証明している単純な事実である。

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