2026年5月27日水曜日

ホンの一言: これは悲劇か喜劇か?・・・阿部監督の「暴力」?

いま暮らしている土地柄、小生はファイターズ一択である。とはいえ、父が熱烈な阪神ファンであったので、巨人阪神戦の中継放送の一コマ一コマでまだ目に焼き付いている所もある、視ていた父の表情や声音とともに。

そんな次第で、巨人が好きであったことはないのだが、阿部慎之助監督が家庭内で暴力をふるい警察に逮捕連行されたという報道には吃驚した。

時間がたって話を整理してみると、

娘二人が口喧嘩をしていたのを酒を飲んでいた父が「静かにしろ」と怒鳴った(?)ところ、上の娘が多分「△△!」と言い返したのであろう。父はそれを聞いて「何を~~!」(?)と激怒し娘の胸倉をつかんで突き倒した(と伝えられている)。頭に血が上った娘は部屋に駆け戻り(?)、ChatGPTに「父から〇〇なことをされたンだけど、どうしたらいい?」と相談した。するとChatGPTは児童相談所に通報しなさいと回答した。児相に電話をした娘は「〇〇なことをされました」と訴える。児相は直ちに警察に110番する。警察は阿部宅に急行して、その場で父を現行犯逮捕、警察署に連行した。父は逮捕されたことに最初は驚いたが、巨人軍監督の地位にとどまることはできないと思料し、辞意を伝えた・・・

概略そんなことらしい。事後になって娘は事の成り行きに驚いたが、正に

覆水盆に返らず

父は仕事と社会的地位を失うに至り、現時点で無収入(?)となってしまったのである。

マア、報道されている所によると、こんな顛末であったようだ。

今朝あたりのワイドショーではコメンテーターは、

これは関係者のそれぞれが善意で適切に対応しているにもかかわらず、結果として起きた家庭内悲劇だと思います。

こんな感想を述べていた。が、小生は少し違う。外国という立場から日本で起きた今回の「事件」を聞いたとすると、どんな風に思うだろうか?仮に、同じ「事件」が韓国のプロ野球球団の監督宅で起きたとき、日本人はどう感じるだろうか?

おそらく

こんなドタバタ喜劇、ホントに起きるんだネエ・・・

と呆れ果てるに違いない。もし往年の《ザ・ドリフターズ》が健在なら、必ずネタに使ったに違いない。

小生、今回の顛末は「悲劇」というより、「喜劇」と呼ぶにふさわしいと思う。

現代日本社会は《喜劇的》になりつつあることを先ず自覚するべきだと思う。日本社会は「喜劇」を意図なくして演じて世界に見せているのである。

喜劇の本質は、全役者が一生懸命なのだが、どの人も目の前を見て機械的なルーティンに従い、考えることを一切しないので、ドミノ倒しのように意図せざる最悪の結果に向かって猛スピードで進む所にある。

全体を見ているスーパーバイザーがいないのが唯一の原因だ。要するに、司令官なしで現場が突撃するようなものですね。必ず喜劇、いや悲劇になるわけであります。

スーパーバイザーとは「司令官」、「上役」というにとどまらず、当事者の理性や良心の声をも含めると言えば、極めてカント的な社会哲学に近づくだろう。

正に今回のケースが該当すると思う。

別のコメンテーターは

体罰はもう犯罪なンです!

と声を大にして言っていた。

その低レベルには絶句しました。そもそも今回の阿部監督の行為、「体罰」ではなく(軽度の?)「暴行」であろう。別の話しである。

娘は怪我はしなかったそうだが、もう成人である。「体罰」を課する局面でもあるまい。

願わくば

父: 静かにしろ!

娘: お父さんは黙ってて!

父: 何を!それが親に向かって言う言葉か!

娘: 何よ、お酒に酔っぱらって。家族に八つ当たりしないで!

父: いつからそんな偉そうな口を利くようになった!

娘: もう子供じゃないのよ!怒鳴って押さえつけないでよ!

・・・とまあ、先ずは言葉で言い争うべきでありました。そうすれば、雨降って地固まるであったろう。口より先に手が出てしまうのは、体育会系人物の悪癖であるかもしれないが、修羅場で力になるのは往々にしてこういう人物なのである。

残念であります。

小生は、ずっと前から投稿しているように、

体罰賛成、死刑反対

の立場に立っている。

以前の投稿でこんな事を書いている:

家庭内で体罰は禁止。他人が自分の子をたたけば暴行。それはいい。しかし、長じて法を犯して禁固刑や懲役刑を受けてしまえば、それは社会による体罰となる。そして、最悪の場合、日本には死刑がある。死刑は究極の体罰と言えるだろう。

体罰を禁止することは理念としては尊い。しかし、社会から一切の体罰を禁止することは非現実的である。加えて、日本人の多くは今なお究極の体罰と言える死刑を維持しようと考えていることは世論調査から明らかだ。

「家庭内体罰一掃」と「死刑容認」は根本的に矛盾した精神だ、と小生の目には見える。死刑容認が多数派だとすれば家庭内体罰容認が多数であるのが合理的である。家庭内体罰一掃を支持するなら刑罰として死刑を認めないのが理に適っている。両親による体罰は不可だが、公権力による処罰なら懲役も死刑も仕方がない、と。もしそう考えるなら、日本人はもはや自分の子供の養育に責任は持たないと宣言するのと同じだと、そんな風に見えてしまうのだ、な。言ってもきかないなら、もう子どもの躾は自分の手に余る、ダメなら社会がきちんと罰してくださいと。そういうことになるのではないか、理屈は。

個人的な感覚だが、

どうせ処罰されるなら、国の刑罰をくらって前科者になるより、オヤジから叩かれる方が、よっぽどマシだなあ⋯⋯

そう感じますが、あくまで小生の主観である。

上にも書いたが、死刑とは国が国民に課する究極の体罰である。つまり

場合によっては、国は国民を殺しても可である。

これが今の現実である。現実の基礎にあるこの論理から、

場合によっては、国は国民を「杖刑」、「鞭打ち刑」に処しても可である。

こんな法改正が行われるとしても十分に論理的である(と理解している)。なるほど憲法は拷問や残虐刑を禁止しているが、「絞首刑」は残虐ではないが、杖で叩く「杖刑」は残虐だというロジックがあるのかどうか、定かではあるまい。

国民には一切の暴力を禁じておきながら、国には命を奪うという暴力までを認めている。

エッ、国の刑罰は暴力ではない、と?

暴力でしょう、明らかに。英語でいえば人を殺す以上"Brute Force"、「力づく」の行為であります。

エッ、それは"Justice"、正義だと?

逆に聞くが、正義は国には分かるが、一般国民には分からないのだ、と?国だけが、正義が何であるかが分かる。国民は正義については無知なのだと?だから死刑、懲役はイイが、一切の体罰はダメだと?


「それは逆でしょう」というのが小生の立場である。


そもそも国や政府に《正義》や"Justice"という倫理感覚は備わっていない。正義の感覚は(誰であれ)平凡な生きている人間の心に備わっているものだ。国家、政府は人工である。モノではなく、そう決めたのだ。ただ機能と権限があるだけなのである。つまりルーティンで動く。国がいう「正義」とは国のルーティンの別称に過ぎない。正義の実質ではない。中には国家とは崇高なる目的に沿って合理的に動作すると考える御仁もいる。であれば、財政危機など起きるはずがないではないか。立派な担当者がいるからと言って、彼らの倫理と組織・機構の働きとはつながってはいないのだ(と観ている)。

ずっと昔、豊臣秀吉は、「刀狩」を断行して庶民(=武士以外の町人・農民)から武器を没収した。次に、武装集団同士の一切の私闘を禁じた。確かに武器の所持、武器の使用は減って、世は太平になったが、庶民は自衛の手段を失い「弱者」になった。それでも人は基本的に自由であった。それぞれの家庭は家庭なりの習慣で暮らせた。お上が家庭内の紛争にズカズカと立ち入ることは忌避された。

いま忌避されたと書いたが、室町時代の足利将軍家は守護大名のお家騒動に次々に介入し、遂には徒党が相戦う応仁の乱となった。

夫婦喧嘩は犬も食わないというのは古人の智慧なのである。

昔、江戸の町では「火事と喧嘩は江戸の花」と言われていた。そもそも

人は喧嘩をする自由がある。但し喧嘩をするのも節度がある。

これが小生のイデオロギーの一端だ。現代日本では喧嘩をしたら「暴行傷害」で警察に連行される。これは公権力による拉致である。留置場に監禁される。公権力なら国民を拉致監禁することが容認される。

一体、今の《コンプライアンス社会》の行く果てにどんな社会が待っているのだろう?

日本人は「思考能力は邪魔だ」として自ら放棄し、「法」に従って予測可能な行動を繰り返し、社会は《喜劇化》するでありましょう。

法治主義が徹底されるノーマルな状態を続けたいなら、自由な発想を排し、人間の代わりにヒューマノイド・ロボットを設置すればよい。完全なコンプライアンスが実現されるはずだ。が、このとき社会は《人間不在》となる定めだ。喜劇は転じて悲劇となる。

そんな発展段階に至れば、「コンプライアンス」ではなく、「造反有理」という言葉が輝きをとり戻すであろう。テーゼに対するにアンチ・テーゼ。

正に、歴史の弁証法的発展、ヘーゲル的社会哲学そのものであります。

いや、いや、書きすぎてしまった。止めておこう。


もちろん「体罰」と「暴行」とは厳しく区別するべきである。この一点だけは強調する必要がある。

叱責された子供がなぜ叱責されたか理解できることが大前提である。

親は誰でも、マスコミのMCやコメンテーターのように言葉上手であるとは限らない。なぜそれが悪いのか、すべての親が言葉で上手に説明できるわけではない。

言葉を覚えつつある子供は、言葉なしの真理を直観できるものである。体罰による躾は、歴史の全過程を通して是とされてきた。

非暴力のイデオロギーは確かに立派だが、特定の価値観に執着して、経験知を否定すれば失うものも大きい(と勝手に思っている)  ―   その非暴力のイデオロギーもいま世界から音をたてて崩れつつあると観ているのだが。

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