ネットをみていると必要のない情報まで目に入る。
今あふれているのは《愛子天皇熱望》、《旧宮家養子絶対反対》を主張する投稿群(?)である。
不愉快ではないのだが、「またか」という感じで、もう閉口する今日この頃です。
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明治以前に遡るのはいいが、江戸、室町、鎌倉、平安、奈良の各時代を一挙に飛び越えて、古代日本にまで立ち返り
天皇は決して男系継承で一貫していたわけではなかった
そもそも天照大神は女性であった、等々
という記述をみると、
それが何か?
So what?
と言いたくなる。
ただ皇位継承が混乱していた時期と言うのは今回が初めてではなく、(周知のように?)歴史上何度もあった。
一つ不思議に思っているのは、平成上皇が生前退位された前後の事情(?)について、誰も思い出さないというか、話題にもしない所である。
そもそも天皇の生前退位、生前譲位というのは、稀とまでは行かないが、あまりない。何か特別の事情、特定の人の意志があって起きていた出来事なのである。
平成上皇の生前譲位があってまだ10年も経っていない。
平成上皇の生前譲位があり、今上陛下が即位し、秋篠宮殿下が立皇嗣の礼を経て皇嗣殿下となった。
天皇という地位は「民意」によって決まるのではなく、形式的・理念的には「神意」によって決まるものと、皇室自身がホンネでは考えているはずである。大体、民意によって天皇が即位するという理解は、それ自体が社会観として矛盾している。日本の天皇の実質をみても間違った理解だ。
いま《皇嗣殿下》と敬称するのは、皇室典範に「皇太子」、「皇太孫」の語句はあるが「皇太弟」という語句が明記されていないという法律上の理由からで、もし法律がなければ当然に「皇太弟」と呼ばれていただろう。
日本の国事行為として正式の皇室儀礼を神事として済ませた以上、民意によってそれを覆すことは思想的に不可能だ。
この一連の進展は、平成上皇が生前譲位を決意したところから発している。
そこに込められた意図は、限られた範囲の人物しか承知していないはずだが、皇位継承の方向を確定しておくことにあったと、小生は勝手にこう推測している。
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歴史上の似た事例としては、(大分遡るが)持統天皇から文武天皇への譲位を連想する。
蘇我入鹿粛清と大化改新を断行した中大兄皇子が後に天智天皇となった時代は、革命あり、恋愛あり、対外出兵あり、遷都ありの古代日本で最もドラマチックな時代であった。しかし、天智天皇崩御後の壬申の乱から文武天皇即位までを含めると、半世紀にもわたって展開される大河ドラマでもあったのだ。
思うに、織田・豊臣・徳川の三英傑が登場する戦国末期と同じ程度に面白い時代は7世紀後半の50年間である。
持統天皇は天智天皇の皇女であり、天皇の実弟である大海人皇子(のちの天武天皇)の室となる。天智天皇崩御のあと、決起を胸に秘め吉野から伊勢へと脱出する逃避行に皇女は同行、大海人皇子を支え、官軍に勝利する。大海人皇子が天武天皇として即位するとき皇女は皇后に立てられる。
この辺のストーリーはそのまま歴史小説になるのであるが、Wikipediaにも概要は述べられている。
持統天皇は天武天皇崩御のあと自らが女帝として即位するのであるが、その後の皇位継承が実子の死去、異腹の皇子の存在などもあって、極めて不安定化するのである。
Wikipediaにはこんな記述がある。
持統天皇の統治期間の大部分、高市皇子が太政大臣についていた。高市は母の身分が低かったが、壬申の乱での功績が著しく、政務にあたっても信望を集めていたと推察される。公式に皇太子であったか、そうでなくとも有力候補と擬せられていたのではないかと説かれる。
その高市皇子が持統天皇10年7月10日に薨去した。『懐風藻』によれば、このとき持統天皇の後をどうするかが問題になり、皇族・臣下が集まって話し合い、葛野王の発言が決め手になって697年2月に軽皇子が皇太子になった ― コメント:3月と説明している例もあるが専門外でもあり深入りしない。この一連の流れを持統天皇による一種のクーデターとみなす説もある。
持統天皇は8月1日に15歳の軽皇子に譲位した。文武天皇である。日本史上、存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2番目で、持統は初の太上天皇(上皇)になった。
大国柱であった天武天皇の長男・高市皇子が亡くなったのが696年。想定されていた持統天皇の実子・草壁皇子は若くして亡くなっていた。草壁皇子の(異腹の)兄弟は複数いた。どの皇子にも皇位継承の可能性があった。人望のあった高市皇子の薨去によって「皇嗣」を正式に決める必要性が表面化した。
そんな時、「最初の朝臣」とも言われる葛野王が
日本では神代から親子間での皇位継承が行われており、兄弟間での継承は争いの元である。
と発言し、亡くなった草壁皇子の息子、つまり持統天皇の孫である軽皇子が皇太子に立てられることになった。697年3月の事だ。そして同年8月1日に持統天皇は生前譲位し、15歳の軽皇子が文武天皇として即位した。
高市皇子の薨去から持統天皇の生前譲位までの一連の進展は、自分の若い孫に皇位を継承させようという持統天皇の意図から発していた(と今では推測されているようだ)。
葛野王。壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)の息子である。後に臣籍に下り、孫は有名な文人・淡海三船である。今に伝わる伝統《万世一系》を言葉に表した元祖と見られている。
このように天皇の生前譲位は特別の意図から発していると理解するのが至当である。
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とすれば、平成上皇の生前譲位の意図は
長男から次男、次男から次男の長男への皇位継承を確定させておきたい
そう理解するのが正しい(と勝手に推測している)。
そして、上皇の意図は時の政府の了解を得て日本国の国事行為と皇室神事によって公的に確定した(と勝手に思っている)。勝手に思っているのだが、確定したという事実はたとえ知識を持たないヒトが多数いようとも事実であることに変わりはない。
「愛子天皇待望論」は、それに横槍を入れる主張であり、横紙破りとも言える。
正に「このような進展になるかもしれない」と憂慮して、平成上皇は生前譲位を決意されたのであろう(と勝手に憶測している)。
政府、与党のある意味で強引かつ直線的とも感じられる姿勢の背景には、譲れぬ一線があるのであろう、と。そんな風に観ているところだ。
とはいえ、上に引用した葛野王の発言。
日本では神代から親子間での皇位継承が行われており、兄弟間での継承は争いの元である。
平成上皇の深慮にかかわらず、既に確定済みの皇位継承には「不自然なところがある」と感じる国民が多いのも仕方のない事だと思う。
持統天皇の努力にもかかわらず、その後も皇位継承の不安定は続き、何人かの女帝が即位しながら血脈をつないだが、遂に男系皇子が途絶えたことから、天智天皇系の光仁天皇を迎えることになった。皇統はここで天武系から天智系に移った。
皇位継承は、人の努力を超える形で、それでも血筋が守られ続けられてきた。そこにマア、日本人が「天皇制」を維持させていこうと感じる歴史的価値があると言えば、あるのかもしれない。
日本人には「血筋」に極めて関心をもっている人が多い(?)。「名門」に支配されるのは嫌だが、名門の末裔がいると何か安心するという心理は、ひょっとすると日本的な心情かもしれない。逆に言うと、「血筋」というものに対する関心が薄まって行くなら、永きにわたった天皇制も(国制としては)終焉を迎える背景になるのだろう。
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