先日は最近の「千遍念仏」についてメモを書いておいた。
大体、あんな様なことなのだが、補足したい点が出てきた。
というのは、五百遍では所作だけということなのだろうか、千遍になって初めてピンと体感できるようになった、ということだ。
時間的にも五百遍念仏は15分ほどで終わるが、千遍念仏になると30分かかる。呼吸を深くして称え続けるので、終わると結構疲れる、体力もそれなりに要るのがよく分かる。
何がピンと来るかといえば、阿弥陀仏という宗教的観念が心の中に定着するという感じ、というか言葉では正確に表現できないが、マア、そういう事である。
例えば、数学の無限集合は観察できる世界で可視化はできない。無限に大きな物体や無限に微小な物体は経験的に確認不可能なのである。
しかし、無限集合が実在していることは論理でもって確かめられる。最も簡単な例が「自然数全体」という集合だ。最大の自然数がないことは、仮に$A$という自然数が最大であるとしても、それより大きい$A+1$もまた自然数であるので$A$は最大値ではない。つまり自然数全体は無限集合である。
自然数のそれぞれに2を掛ければ異なった偶数が対応する。逆に、任意の偶数を2で割れば異なった自然数が対応する。だから自然数全体と偶数全体は1対1に対応づけられ、故に自然数全体と偶数全体は同じ個数だけある・・・というのは、集合論の序盤で誰もが「エッ!」と驚くところだ。
大乗仏典では数多いことを恒河沙と言ったり、あるいは無限に長い時間のことを阿僧祇劫と言って、経文の中に何度も登場するのであるが、前者の恒河沙、つまりガンジス河の砂の数も有限である。無限大はどんな数よりも大きいものと定義するのだから、それ自体、もはや数ではない(とも言える)。自然数全体の個数と偶数全体の個数が同じであるなどという常識とは異なる結論が出て来るのも、無限を考えているためである。
数学の偉大な(?)ところは、常識や感覚には反する結論が得られるとしても、論理的に一貫している以上、最初に定義した抽象概念は実在すると考えて議論を進められる点にある。虚数を含んだ複素空間も別の例である。量子力学の基本になっているシュレーディンガー方程式は時間と空間に対応して複素数値をとる関数を想定している ― 小生は専門外なもので、これまでシュレーディンガー方程式は複素空間で定義された複素関数だと思い込んでいて、となると偏微分方程式がある以上は正則関数になるのではないかと、ChatGPTに愚問を発したところ、「それは誤解です」と思い違いを指摘されたのだ。ごく最近、実数のみでシュレーディンガー方程式を表現できるという研究結果が出たと何かで読んだが、しかし実数で書き直した方程式が余りにゴタゴタした形になっているのなら、自然の真理はやはり複素数で表現するべきなのではないかとも素人考えをしたりしているところだ。
それはともかく、阿弥陀仏という宗教的観念もこれに類した観念だと思う。というのは、実際に千遍念仏をしていると、阿弥陀仏の実在性が心の中に刻み込まれ定着する感覚を確かに覚えるからである。それは、数学や自然科学の「理解」とはやや異なり、論理や実験データとは別の「感得」、「体感」という分かり方に近い・・・としか言いようがない。
しかしながら、
実際にやってみれば分かるという事は確かに世の中にはある。
最近、叱るなら言葉で叱ればいいのです、と。こんな言説が目立つのであるが、音楽や美術の修行をしている人たちに言わせれば、
聴いて分かるなら苦労はしませんよそう言うにきまっている。運動系の人たちももちろんそうだろう。言葉で聴くだけでは分からないことは多いのだ。
やはり他力本願とはいえ、それを身につけるには《行》、つまり《修行》がいる。体感しなければならない。そう思う次第。覚書まで。
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