毎月23日は月参りの日で寺の住職が読経にやってくる。読経が終わると、新聞と地元有志が出しているパンフレットを置いて帰る。新聞も興味ある情報満載だが、パンフレットも知らない挿話が連載されていて、思わず読んでしまう。
今月の挿話は《昔話:たわけ者》だった。
こんな話である:
広い田んぼで豊かに暮らす農家がありました。
ところが二人の息子が大人になると、こう言いました。
『俺たち兄弟は一緒にやりたくない』、『田んぼを分けて別々にやりたい』、親は仕方なく、田んぼを半分に分けました。
するとどうなったか?
一つだったからこそ効率よく回せていた田んぼは、二つに分かれたことで収穫が激減してしまいました。
その姿を見て、昔の日本人は気づいたんです。
『田んぼを分ける奴は愚か者だ』と。
そこから「たわけ(田分け)」という言葉が生まれました。
これは現代経済理論でいう所の《大規模生産の利益》というテーマに該当する話だ。
兄弟が独立して協力することなく働くよりも、田んぼを統合して大規模に生産する方が、収穫の合計量は増えるのである。その増えた収穫合計を公平に二人で分ければ、バラバラで働くよりは豊かな暮らしができる。それが出来ないのは、公平に半分に分けることに対する不満が、兄弟のどちらか、あるいは両方にあるからだ。つまり兄弟であっても互いが信頼できない時、まとまって協力するより、独立して自分のやりたいように働く方を選ぶものである。
小生は、そんな風に解釈した。
もちろんパンフレットの原文は別の表現をしていて、下のように話は続いている:
この話から私たちが考えたいのは、単に「分けることが愚かだ」ということではありません。一人で大変なことも、二人なら出来る。一人なら気付かないことも、二人なら出来る。
こう書いている。
仏道の根本は、釈迦如来が力説したように、全ての人は独立して存在しているのではなく、縁でつながれているが故に、結びついて、和合して生きることが何より大事であると認識することにある。
確かに、その通りで、これは正論である。というより、これ以上に正論以上の正論はあるまい。
しかしながら、現代経済学のミクロ的基礎には《非協力型ゲーム理論》が置かれていて、人は究極的には自己利益を最優先して生きるものである、と。
こんな人間がほぼ全てを占める場合、社会全体として最も望ましい状態は、一人一人が自分の優位性を生かしながら分業して、互いに競争しながら、他者との取引を通して暮らしを豊かにする。これ以外にはない、と。
《市場メカニズム》とはそんな社会を造る制度的インフラである。こんな議論になる。互いが互いを信じられない、信じられないから、協力行為もまた利己的行為として理解するのである。だから《契約》が不可欠となるのである。
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西洋ではこんな議論が馴染みやすいのだと思う。
近代ヨーロッパでは何より平等で独立した《個人》が《我》として存在することから社会的な全ての事が展開される、というかそうあるべきだと考えるからである。西洋の人権理念も詰まるところはこんな発想から発していると勝手に理解している。
アジアではどうなんだろう?
田んぼを分けて、あとは別々にやっていけばよい、と。そんな発想をとるのだろうか?
中国・韓国や東南アジア、インドの人は分からないが、日本人なら、現在であっても二人の兄弟は、互いに協力して、親から継承した田んぼを活用して、できればもっと広い田んぼに増やしていってほしい。そんな社会が善い社会だ、と。そう考えるのではないかナア……ま、人それぞれだが、どちらの見方が今は多いのだろう?
少なくとも日本社会は、ヨーロッパ、アメリカのように独立した《我》の尊厳性を何よりも尊重するという社会哲学は、支持されていない ― コロナ禍の時の、西洋社会と日本社会の違いを思い出しなせえ……そう昔じゃあないはずだ。
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今朝のネット記事で女子刑務所のことが話題になっていたので、読んでみた。
一般の女性受刑囚が送る寂しくて、貧しい日常と比べて、暴力団組長の娘ともなれば、金の力で何不自由ない毎日を刑務所内で送っているというのを読むと、何だかこればかりは江戸時代の昔から事情は変わらないんだネエ、と感じさせられる。
それから受刑者が余暇をどのように過ごすかという話も成程と思った。
一方、余暇の時間もあり、居室にあるテレビを見たり、ラジオを聴いたり、読書をしたり、日記や手紙を書く人が多い。
「新聞を回し読みすることができました。また、本を購入することができ、『週刊女性』も買えました。おいしそうな料理がのったレストランの記事を見て、『出所したらここに行きたい!』と思うことがみんなの希望になっていました」
その余暇の時間に大人気だったのが意外にも「写経」だ。
「写経用の本や用紙は無料で支給されるんです。写経をすると仮釈放が早くなるといった噂もあったので、多くの受刑者が取り組んでいました。毎日書き続けるうちに習慣となり、書かないと落ち着かなくなる人もいるほどでした。
居室でどう過ごせばいいかわからないときやイライラしたときに集中して書くことで、心が落ち着き、気持ちが楽になる効果を実感していました」
URL: https://news.livedoor.com/article/detail/32652625/
最近は小生も写経の習慣が身についてしまった。始めてからもうそろそろ二年がたつ。多分、これからも止めることはないと思う。
人がどう生きていくかという基礎知識は、戦後日本流のカリキュラムの発想だと「道徳」」という科目になるのだろうが、現在の教育体制ではほほゞほゞやっていないに等しい。
公権力(と公教育)は、戦後になって国民に対する道徳教育から(事実上)撤退していると、勝手に解釈している。
罪を犯して、刑務所で服役し始めてから、写経のための本や紙が支給されるというのも、皮肉なやり方ではないか。
上の受刑囚の余暇活動ではないが、宗教や信仰は基本的には人を慰め、落ち着かせるものである。
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もちろん、宗教や信仰は役に立つものではない。
役に立たないことを学校教育で税金を使って教える必要はないと言われればその通りだ。
しかし、いま学校では役に立つ事を国民に教えているのだろうか?
ずっと以前になるが、「三角関数は死んだ知識だ」という指摘に関して投稿したことがある。そこでは
三角関数を教えるべきかどうかという問題と、鎌倉幕府ができたのは1192年、水の分子式はH2O、地球が太陽を回る軌道は円ではなく楕円である。ここまで習っておくべきなのかという問題は同じところから派生している。
中々結論の出ない論点であるに違いない。ただ、国民が共有する基本知識として、なるべく多くの分野からできるだけ広く知識基盤を与えておこうという国の努力は、それ自体は、立派な行き方であって、無駄の多い下らない行政であると断じる気持ちにはなれない。
こんなまとめ方をした。
しかし、今では少し考えが変わってきている。特に義務教育の内容を決める学習指導要領に当てはまることだろうが、
国民が共有する基本知識として、なるべく多くの分野からできるだけ広く知識基盤を与えておこうという国の努力
つまり「この位は日本人として知っておくべきだ」と、そうした努力を国はしているのだと思う。
確かに「鎌倉幕府ができたのは1192年ではない」と聞けば、日本人なら「へえ~~っ」というだろう。日本人として統合されている証拠である。
しかし、こんな国民の統合性を国は努力して形成するべきなのだろうか?
もっと生きていくのに役に立つ基礎知識は確かにあるのも事実なのだ。
いま現在、大半の日本人児童にとって最も役に立つ基礎知識は《英語》である。江戸時代の「読み、書き、そろばん」が当時の必須の知識であったなら、現代日本の基礎知識に英語は必ず入る(と勝手に考えている)。なので
いま求められているのは、日本のどこででも仕事を見つけて働いて行ける知識ではない。(日本を含め)世界のどこででも仕事を見つけて働けて行ける知識である。
誰でもそう感じるはずだ。日本のプロ野球に進むか、アメリカのMLBに進むかと世間の注目の的になっている横浜高校の織田投手は、早期に渡米して英語に慣れておきたいと話している。
10代の若者からこんな言葉が出るのは、明らかに学校教育に欠陥があるからだ。
だから日本人の平均所得が(全体として)停滞するのである。
文明開化を演出した明治政府の爪の垢でも煎じて飲めばよいというのはこの事だ。
但し、こんな風に書くと、外国で働くのを支えるような教育をすれば、日本人としての統合がそこなわれる、人材の海外流出に拍車をかけるなどと宣う御仁が必ず現れる。
しかし、日本人として共有されるべき知識を教わったという感覚をもち、それを心から喜び、感謝している日本人が、いまどの位いるだろう?
日本人としての統合性は国が努力する目的ではない。役に立つ知識を義務教育として身につけ、そのことを感謝する気持ちを一人一人がもつことから、自然に現れて来る世の中の雰囲気から生まれるものだろう。
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話しは最初に戻るが、親から別々に継承した田んぼをどうするか?
兄弟は、形は独立しても、これまで通り協力してやっていくべきだ、と。
従来のようなまとまりを保つように教えるのは保守的教育である。
しかし、それは「そんな生き方をせざるを得ないように仕向けている」と最近は思うようになった。
これでは限界がある。
望ましいあり方は、田んぼを売却して兄弟の一方が或いは両方が別の人生を選ぼうと思えば選べるし、自らの意志によって互いに協力して大規模に田んぼを活用していこうと思えばそれも出来る。自分という「我」が選択をして、自らの意志に基づいて、二人が協力する。協力という行為の実質は、こういうことを言うのではないか。形を見てもダメである。
これは実に西洋的な理解だ。
「我」が選択をするのではない。我を超える「法」を尊重したい。「縁」を尊重したい。こう解釈してもよい ― 法と言っても法律のことではない。法律は人が作ったものにすぎない。
我を超える法が因と縁を通して自分を動かしている。宇宙は舞台、自分は自分の役割を演じている。こう観るわけだ。
自己利益で人は、案外、幸福にはならないものだ。《大乗》につく。《至心帰命》という言葉が仏道では使われている。
これは実に非西洋的・非近代的な理解だ。
人は「我」と「人」を対立させている間は苦悩や不安から逃れられない。これらは煩悩である。世界観や宇宙観は、役には立たないが、生きていくのに無用の知識でもない。
宗教や信仰は教えないという立場があってもよいが、そうであれば役に立つものは何かをもっと真剣に考えてよい。
「三角関数」が死んだ知識でないなら、鎌倉幕府が成立した年号や、水は酸素と水素から出来ているという知識も死んだ知識ではない。しかし、もっと役に立つ知識があるのも事実だ。
そう考える次第。昔話しに触発されたのでメモしたまで。
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