2026年10月24日土曜日

断想: 確かに称名念仏は「宗教改革」とも言えたと思うが

浄土系仏道ではいわゆる『浄土三部経』が基本的な経典となる。具体的には「無量寿経」、「観無量寿経」、「阿弥陀経」の三つである。タイトルの頭に「仏説」がつくことも多い。

浄土系宗派には浄土宗、浄土真宗(真宗大谷派を含む)、時宗の三派が挙げられるが、それぞれがどの経典を重んじるかには、それぞれの特徴があるようだ。その辺の教理的論理については、小生も専門家ではないので詳細は知らないが、浄土系信仰の途を切り開いた法然は観無量寿経の意義を強調していたと理解している。これに対して、真宗の開祖である親鸞は法然の弟子ではあっても最も基礎的な無量寿経を尊重したそうである。親鸞にとっては無量寿経が教科書、観無量寿経と阿弥陀経は手引き、アンチョコとまでは言わないのだろうが、要するに参考書である、と。そんな位置づけであったと勝手に理解している。

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その観無量寿経は、家庭的な受難に苦悩する王妃・韋提希を救済する釈迦如来の様子を描いた小品である。釈迦如来は、数ある彼岸世界の中でも特に阿弥陀仏国、つまり極楽浄土に生まれ変わりたいと望む韋提希に

あなたは知っているであろうか。阿弥陀仏のいられるところがここから遠くないということを。あなたは思念を集中して、はっきりとあの仏土を観想しなさい。

と、こう語るわけだ。

平安時代に一大流行となった阿弥陀信仰では、発声して念仏を称える称名念仏ではなく、上の引用文のとおり心で極楽世界をイメージする観想念仏が重視されていたことが分かっている。当時のベストセラーである源信の『往生要集』がその意義を強調した念仏も観想念仏の方である。これが声を出して称える称名念仏へと転換したのは法然が現れて以後のことだ。

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小生が、不審に思っていたのは、極楽世界や阿弥陀仏を心の中で想像する観想念仏の方法を13通りの方法で語っていた釈迦如来が、その後に補足するかのように追加した第14観から第16観までの位置づけについてなのだ。

現在の経典解釈では、末尾の三つの観法は「散善顕行観」と呼ばれ「日常生活の中で心が散乱している状態の凡夫に向けて説かれた教え」だと解釈されているようで、故に凡夫救済を目的とする浄土系仏道では、最後の三つが大事なのである、と。第1観から第13観までは凡夫には実践が難しい観想念仏、凡夫でも最終的には救済の対象となると明記されている第14観から第16観が本旨なのだ、と。

こんな解釈が主流であると(何かの本で)読んだことがある。

それが不思議であったのだ。

なぜなら原典を読むと、王妃・韋提希は「死を免れない一個の平凡な人間に過ぎない」と釈迦如来は最初から話している。

第1観は「日想観」で、「西に沈もうとする太陽を観よ、目を閉じても太陽が心の中にあるだろう」と、釈迦の話はこう始まっている。「生まれながらの盲目でない限り見ることはできるのであるから」とも断っている。王妃・韋提希は盲目ではないことは明らかなのだから、ここは「あなたにも出来ることです」と云うに等しいわけだ。確かにこのような事は誰にでも出来ることであって何も難しい事ではない。

第2観は「水想観」で、清らかな水がテーマとなる。光や宝石がイメージされるが、同時に風が吹き渡ると共に美しい音も耳に入ってくる。そんな世界を想像せよというわけだ。視覚から聴覚へと想像する範囲が広がってくる。

具体的な描写は、確かに空想的ではあるが、そもそも神話というのは人が空想できる限りの事を書いているにすぎず、これらは比喩、ないしは象徴として読むべきなのだ。だとすれば、一つ一つの観想のやり方は、平凡な人間である韋提希にとっても、決して実践困難なことではないと思うのだ、な。

そして第8観は小生の好きな一節であり、その中にこんな下りがある:

諸佛如來、是法界身。入一切衆生心想中。是故汝等、心想佛時、是心即是 三十二相 八十隨形好。是心作佛。是心是佛。

諸々の仏・如来たちは、存在するものすべてを身体とするものであり、すべての生ける者どもの心想の中に入って来るからである。それ故に、あなたたちが心に仏を観想するとき、この心がそのまま仏の三十二の大相であり、八十の小相なのだ。この心が仏を作り、この心がそのまま仏なのだ。

Source: Wikisource 、現代語訳は岩波文庫「浄土三部経(下)」

心の中で思うことが、即ち心の中に仏が現れることである、と。小生にはこう読めるわけで、これなら平凡な凡夫である韋提希にも実践できる念仏であったはずだ、と勝手に理解している。

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末尾の三つの観法の意義は、善人から悪人までと言えばよいか、上等な人間から下等な人間までと言えばよいか、原典では「上品上生」、「上品中生」等々から「下品下生」までの人間の「九品」と表現しているが、全ての人間が、阿弥陀仏の救済対象となる、ということが書かれている。この点を改めて整理、明記することに狙いがあるのだろう。

ここまでは韋提希の願いに応じた個別のアドバイス、ここからがいわば一般論というわけで、クリニックで医師に診察を請うときもこんな感じで説明を聴くことが多い。浄土系信仰の本旨である凡夫救済の思想にとってはこの一般論が大変重要なポイントなのである。

最後の第16観である「下品三種の往生の観想」の最後にある「下品下生の者」とはいわゆる「極悪人」を指すのだが、こんな人間であっても

汝若不能念者、應稱無量壽佛。如是至心、令聲不絶、具足十念、稱南無阿彌陀佛。

もし(仏を)念ずることあたわざれば、まさに無量寿仏(=阿弥陀仏)を称うべし。かくのごとく、至心に、声をして絶えざらしめ、十念を具足して、南無阿弥陀仏と称えしむ。

「南無阿弥陀仏」という称名念仏によって、極悪人であってもその魂は救済されるのであることを、はっきりと明記しているのは、浄土三部経全体の中でも「観無量寿経」のこの「下品往生」の一節だけである。特に十念のあいだ声をして絶えざらしむと、発声の大切さに触れているのは「下品下生」、ただ一か所のみである。

なので、観無量寿経は後半こそが重要なのだというのは、確かにその通りなのであるが、上にも書いたように、「念ずる(=心の中でイメージする)ことができない場合は」とあるように、何も第1観から第13観までの観想念仏の意義が棄却されているわけではない。

声を出すことも大事だが、上に引用したように

心想佛時是心作佛是心是佛

即ち、

心で仏を想像するとき、心がそのまま仏となり、心が即ち仏なのだ

と。

「観無量寿経」全体の本旨はこちらにあるのではないか、と。こうも思われるのだ。

ちなみに第8観の次の第9観はいわゆる『真身観文』で、有名な

光明徧照 十方世界 念佛衆生 攝取不捨

の出所であり、小生もしょっちゅう読んでいる箇所なのだが、やはり好きなのは前の一節である第8観の方なのだ。

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