カミさんの「ギックリ腰」も大分よくなり、久しぶりにテレビのワイドショーを観ている。いま「小沢裁判」の話しをしている。
政治資金の不正経理について共謀があったかどうかで地裁の判決で無罪が出たと思ったら、今度は控訴されたというので騒動が繰り返されている。
「無罪です!」で騒ぎ、「控訴しました!」というのでまた騒ぐ。
それだけでも、小生は一つの矛盾を感じるのだが、騒いでいる多数の人は疑問を感じないのだろうか?感じないだろうねえ・・・そう考えている・いないではなく、全体がビジネスなのである。そういうことでしょう。
裁判の前は<疑惑>があった。だから<裁判>をした。したら<無罪>と結論された。それ故、地裁判決のみが存在する現時点において、小沢議員の疑惑は否定され、無罪であるものと見なすべきである。罪があるかどうかを判断する権利は<司法>にあって<国民>にはない。「まだ無罪であると確定した訳ではない」と主張する人たちは、今後、最高裁まで上告して、それでも納得しない場合は<再審>を請願して、次はその請願が受理されるかどうかが<確定>するまでは、結論は出ていないと強弁するのだろうか?
小生、こんな社会状況は率直にいって<世論独裁>、事実上の<人民裁判>であると思います、な。民主主義を偽装した<大衆暴動>に似ている面がある。多数が数の力に訴えるのは、一人でいるよりも仲間といることを重んじる、少数の仲間を結成するよりも大規模な組織を運営することを尊敬する心理が根底にある。とうてい共感はできぬ。
いや、いや、こうした議論も現実を言いあらわしてはいないだろう。つまり、こうするしかないほどマスメディア政治部の利益機会が枯渇して来たということだろう。政治らしい政治がとにかく無いのである。で、話題が枯れ果てて来た。野心溢れる議員立法も、権力意識丸出しの官僚の発言も、壮大な汚職をやる人間もいなくなった。だから<小沢>しかない。<小沢裁判>で新聞を売り、視聴率を稼ぐ。<無罪>で稼ぎ、<控訴>でまた稼ぐ。これしかない。「仕方ないよね」。こういうことではないのか。
この騒動によって、利益を得ている人たちは確かにいる。それは、何もせずに高給をもらい続けている立法府の国会議員達である。小沢議員の処分を解除した民主党を批判していれば、議員としての<仕事>をしているかのような体裁をつくることができる。その機会がラッキーにも訪れたのである。
しかし昨日も「これもビジネスでしょう」という下りを書いた。モノ作りが流出して、サービスで食っていかざるを得ない今の日本。おしゃべりをしていると思ったら「有難うございました。これ私のビジネスなんで・・・」。こんなことが増えてくるかもしれない。
2012年5月10日木曜日
2012年5月9日水曜日
格付け情報は<情報>たりうるか ― 大学編
小生と関係の深い国立大学で行われた新歓コンパで9名が急性アルコール中毒で救急搬送された。その話しは日本全国に広まり ― 海外にまで報道されているとは思われないが ― 色々と話題になっているようである。かくいう小生は、事件当日はカミさんの「ぎっくり腰」で家事に忙しく、夜は統計学の授業があるので、実は知るのが大変遅かった。で、いささか驚いた次第だ。
調べてみると「北海道のFランク大学だから、騒ぎにもならないだろう」とか、「Fランじゃあニュースバリューはないしね」等々、この<Fランク>という名称が目を引いた。そういえば某予備校が全国の大学格付け情報を流し始めたと耳にしているが、このことか、と。
検索にかけてみると、ゾロゾロと関係サイトが出てきた。
調べてみると「北海道のFランク大学だから、騒ぎにもならないだろう」とか、「Fランじゃあニュースバリューはないしね」等々、この<Fランク>という名称が目を引いた。そういえば某予備校が全国の大学格付け情報を流し始めたと耳にしているが、このことか、と。
検索にかけてみると、ゾロゾロと関係サイトが出てきた。
いやまあ、これだけのページが検索にかかってくるからには、大学の格付け情報に対する需要がそれだけ多いということなのだろう。
× × ×
しかし、大学の格付けもそうであるし、個々の受験生の偏差値もそうである。さらに、金融機関の格付け、国債の格付け、社債の格付け、サブプライム・ローンを原資産にした金融派生証券の格付けなどなど、あらゆる格付け情報がそうである。それら<格付け>が、情報としてどれほどいい加減な物差しであるのか、まだなお理解されていないのだろうか?
格付けを主たる材料にして経営判断をした金融機関が、リーマン危機の中で、どのように破たんしたか、なぜその経験から学ばないのだろうか?小生、この辺の行動心理学的理由が、さっぱり分かりませぬ。
× × ×
格付けは、統計分析でいうところの<情報の要約>に該当する。大量のデータが集まれば、まずは分布を視覚的にみてみる。次に、平均値やメディアンなどの代表値を確認する。それと同じ行動であって、同じ動機による。即ち、時間と労力の節約である。しかし、統計分析ですら、平均値のみから分かることは余りに少ない。最低限でも、代表値+散布度、この二つの特性をみる両眼思考をしないと、全体的傾向は決して分からないのである。平均だけを確かめて議論を単純化するのは、俗にいう<平均思考>であり、これはまあ単眼思考というか、単細胞的思考回路だとバカにされても仕方がないのだ、な。
簡単なデータでも、全体を把握するには最低限、二つの数値をみておく必要がある。格付け作業とは、個々の機関について多種類のデータを集め、多種類のデータを総合的に見ながら、個別機関のポジションを洞察する作業である。多くの数値情報、属性情報を一つの順序尺度にまとめる作業が<格付け>であって、これは次元の縮約にあたるから多変量解析の一分野になる。
平均値を計算する、一つの数値にまとめて順序付けをする、いずれにしても<情報の要約>である。であるから、「御社の格付けはBになりました」とか、「貴学は残念ながらFランクです」といっても、ランク付けのプロセスで捨てている情報と、ランク指標に残している情報と、どちらが多いのかを問いかける目線が非常に大事である。ミクロ情報は一筋縄ではいかない。おそらく順序尺度を算定するまでの間で、原データに含まれていた情報の大半は失われるはずだ。たとえば、入試センター試験を6科目受けて、その合計得点だけに着目すると、個々の受験生を識別する物差しは1種類だけになって順序付けには具合がよいが、その受験生の特徴など、実質的なことの大半はわからなくなる。これと同じである。
にも関わらず、大学の選択、事業の経営において、オリジナルの原データを自ら吟味することなく、格付け情報を主たる根拠に、大事な判断をする。まあ、専門家にアウトソースしたくなる心理はわからぬでもない。それにしても「Aランク!やったぞ」とか、「Fランク!なるほどねえ」とか、それで何か大事な情報を得たものと判断する、まさにその思考回路こそが、いまは最も分析を必要とする行動パターンではなかろうか?日本経済において、いくら待っても金融サービスが高度化されないはずである。手っ取り速い加工食品、いやさ加工情報で満足するなど、あまりにも情報に無頓着というか、<情報分析グータラ症候群>というか、形容に困るのだが、どうもよろしくない。どうしても、小生、そう感じてしまうのだな。
× × ×
本当は中身がエンプティである指標に基づいて判断をすることは、サイコロを転がして出た目によって判断をするのと、本質的には変わらない。<当たるも八卦、当たらぬも八卦>。占いと概ね同じであると言っても過言ではない。格付け情報は、全くエンプティではなく、多少の情報を含んでいる。しかし、捨てた情報と保持した情報との相対的割合を開示していない。だからこそリスキーなのである。これが小生の見方だ。
思うに、<格付け>とは、情報ではなく、それ自体が収益を目的とするビジネスである。たとえは悪いが、フランスのタイヤメーカーが作成している<ミシュランガイド>、中でも話題が集中しがちな「レストラン・ホテルガイド」と概ね同類ではあるまいか。だとすると、生産しているのは情報ではなく、エンターテインメントにより近いのではないのかなあ。そう思ったりする。
情報は、<選択と判断>の役に立ってはじめて情報となる。1位から100位までに並べるための順序指標だけをみても、1位がベストであるのに決まっている。<格付け>は、実は、何の役にも立たない。この世は三次元だ。高さ×幅×奥行きをみて、物体がイメージできる。だからというわけではないが、せめて3種類の特性値くらいは情報会社と名乗るのであれば、提供しておくべきであろう。
2012年5月8日火曜日
選挙後の欧州政情 ― 予想通りの展開
黄金週間の最終日、仏大統領選・希国政選挙が実施され、それぞれ現職・与党が敗北した。ドイツ流の一貫かつ過激な財政緊縮路線に国民が悲鳴をあげたというわけである。
英首相は早速声明を出した。
David Cameron is to declare that there is “no going back” on harsh spending cuts after seeing the leaders of France and Greece swept from power by public anger at austerity.(Source: The Telegraph, Tuesday 08 May 2012 )多数が予想したように財政緊縮路線が否定された結末であると指摘し、またギリシアが1年以内にユーロ圏を離脱するだろうとも予測している。
The elections showed that large numbers of voters believed there was an alternative to the austerity measures imposed by governments and international funds since the global financial crisis.
The biggest protests came in Greece, where the electorate took revenge on the two parties that had been trying to push through unprecedented budget cuts in return for bail-out funds.
・・・
Economists at Citigroup said the Greek election results significantly raised the risk of Greece leaving the euro within a year. Tristan Cooper, a sovereign debt analyst at Fidelity Worldwide Investment, added: “Although it should be no surprise that Greeks are spurning the Troika’s bitter medicine, the violence of the rejection is a shock. A Greek eurozone exit is now firmly on the cards.”
× × ×
欧州の債務危機を回避するという点では、メルケル首相とオランド新大統領は意見が一致しているようだが、経済政策路線はかなり隔たりがある点に着目しているのは当然だ。
Das von heute an gute Arbeitsverhältnis zwischen Frankreichs Präsident François Hollande und Bundeskanzlerin Angela Merkel ändert nichts an den gegensätzlichen Vorstellungen zum Umgang mit der Eurokrise. Beide wollen am Sparkurs festhalten und das Wachstum fördern - aber jeder meint etwas anderes.
Merkel nimmt die Schuldenbremse ernst, Hollande will sich keiner Regel zur Drosselung der Neuverschuldung unterwerfen. Wenn Merkel von Wachstum redet, meint sie Strukturreformen, um Fesseln auf den Arbeits- oder Produktmärkten zu lockern. Über die segensreichen Kräfte des Wettbewerbs (dessen Früchte die deutsche Wirtschaft gerade erntet) verliert Hollande kaum ein Wort. (Source: Frankfurter Allgemeine Zeitung, 07.05.2012)ドイツ現政権は財政緊縮というより自由主義・規制緩和路線という側である。それに対してフランス新政権が市場メカニズムのメリットを支持することはないものとみている。そのフランスが行きつく先をドイツはどう見ているか?不健全な経済運営を採用することを懸念しているようだ。不健全な経済政策は、たとえそれを評価する社会主義的傾向のある人物が大統領府に入っても、それが不健全であるという事実に変わりはない。まあ、正論である。
Mittels Krediten, Bürgschaften, Anleihekäufen, Krisenfonds und anderer Instrumente (Target, Dicke Bertha und mehr) wird der Zins künstlich gedrückt und erhält selbst der schlechteste Schuldner frisches Geld, mag die Rückzahlung auch noch so fragwürdig sein. Warum soll sich das ändern, nur weil ein Sozialist in den Elysee-Palast einzieht?人為的に金利を引き下げ、マネーの拡大を図ると本来は資金調達能力のないはずの企業なり個人が必要資金を調達できるので、景気は短期的に上向く。しかし過剰流動性供給はインフレにつながる、でなければバブルが崩壊して不良債権の山となる。どちらにしても「バブル願望症」というべき見方であると ― 相も変わらずと見るべきか、当然と見るべきかは意見が分かれようが ― 切り捨てている。
× × ×
ただ思うのだ。確かにドイツは健全財政+規制緩和政策で一人勝ちの状態である。しかし、それは欧州内の生産性格差解消に資金面で十分協力せず、ドイツ国民の観点からドイツ企業の利益を追求してきたためではないか。
もしも日本国内で中央政府を通じた地方交付金や国庫補助金制度がなければ、利益とカネは大都市圏に集中し、実際の生産活動を行っているはずの地方は慢性的な資金不足に悩むだろう。ヨーロッパもこれと同じことである。本来なら、南欧の生産性向上は低く、ドイツに対してギリシアやスペイン、イタリアの通貨は低落しているべきである。それを共通通貨EUROの枠で縛っているから為替低落の恩恵を受けることができない。そのため、競争優位性はドイツ側に一方的に偏ることになっている。もちろんドイツが頑張ったという点を無視してはならない。しかし現在の状況が持続可能でないのは確かだ。
多分、今後、政策路線の違いが際立ってくるだろうが、議論するべき事柄は<ばらまき政策復活 vs 健全財政維持>という不毛の対決ではない。生産性の向上と健全財政の実現を目指すことは経済の発展にとって必須不可欠である点に間違いはない。しかし同時に、ドイツと他地域の資金偏在を解消する仕組みを作ることが最も重要だ。
平たく言えば、ドイツの景気が好くて、ギリシアで失業者が溢れているのであれば、ギリシアからドイツにいくらでも働きに行けるようにすれば良いのである。ドイツの賃金は下がるだろう。しかしギリシアは楽になるのだ。ドイツが、それをどうしても堰き止めたいというなら、ドイツがギリシアの経済開発を支援するために、見返りを求める投資ではなく、社会資本充実、人材育成等々を目的に資金供与するべきなのである。そうすることがヨーロッパの利益につながり、ひいてはドイツの利益になるだろう。そもそも、そのためにこそEUとEUROを作ったのではないのか?
2012年5月7日月曜日
やっと気が付いた点 ― 幸福の条件と真善美
明治末年から大正デモクラシーにかけての時期は、明治維新直後に次ぐ、ヨーロッパ新思想の到来期にあたっていたようだ。いわば輸入文化の第二波である。
明治初めの翻訳文化から脱して、国内の人材が新しい価値観やモラル、社会思想を議論したのもこの頃である。哲学者・九鬼周造が、東大を卒業してヨーロッパに渡り、実存主義に触れたのも大正文化の展開と深まりにシンクロナイズしている。九鬼が「いきの構造」を著したのは、昭和に入ってから、彼が40台になっての仕事であるが、その基礎は大正期に形成されている。
九鬼は、小生の曽祖父と同じ世代に属し、此の世で同じ空気を吸ったのだが、当時の人は自分の人生のことを色々と考えたようである。どうやら食うだけが人生の大事であるとは考えなかったようである。まあ、「人はパンのみにて生くるにあらず」とバイブルでも言っているくらいだから、食うことだけが大事なわけではないとは、洋の東西を問わず、すべての人が思うことだ。
<真善美>という。真は真理をさし、善は文字通りの善というか、モラルのこと。美は具体的な芸術作品と言うより美の本質をさす。
真善美が、人生をかけて求めるべき窮極的価値であるというのは、TVも携帯もインターネットもない時代、大学で学ぶ学生達の大半の常識であったように思われる。この真善美というのが、小生、これまではどうも鼻持ちならないというか、高学歴の青年のエリート主義が紛々としていて、あまり好きな言葉ではなかった。しかし、この<真善美>というのは、今日の<民主主義>とか、<雇用>とか<経済成長>等々の言葉よりは、よほど体系的思想に裏打ちされた確固とした概念であったと思うようになった。
端的にいえば、<幸福>を実現する窮極的価値なのだろう。古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、なぜ人はモラルを守らなければならないかという理由を真剣に議論した。ソクラテスは、善でありつづけることが、幸福であるための必要条件だからだと主張した。もちろん「本当の幸福とは何か」が大問題になるわけであり、一筋縄ではいかない。モラルに執着しないことこそ幸福へ至る道であるという、人が思いつくあらゆる反論に対して、ソクラテスはロジカルな反撃を加える。その下りは、演劇を観るのにも似て、プラトンの対話編「ゴルギアス」でも最大の山場になっている。生きることの意味?自殺することの意味?「ソクラテスの弁明」は、いまでも高校の課題図書の一冊として推薦されているのだろうか?
このように考えると、真善美という価値を追求して、それを具体化する努力を払うことは、その人を幸福にするだけではなく、社会の大多数の人を幸福にする道に通じる。そう考えていたのではないかなあ、と。これまで大正期の青年たちの必読書とされた阿部次郎「三太郎の日記」など、いくつかの作品に目を通すこともあったが、全然ピンと来なかった。来なかったのが、先日、布団の中でゴロゴロしているうちに「ああ、そうだったのかなあ」と気が付いたわけ。
必死に勉強しているうちは、どうしても暗記主義の弊害に陥りやすい。ゴロゴロしているときに、分かるべきことは、いずれ分かる。こうした分かり方は結構大事なのではなかろうか?
雇用とか、福祉とか、成長とか、これらはいかにも実用的・直接的な価値であり、有用な政治目標たりうる。しかし、何が人生にとって大事であるのか、この点を一所懸命に考えさせる教育の在り方は、決して悪いものではない。他人の人生を大事に思う官僚や政治家は、今日でもなお求められている存在である。そう思うのだが、どうだろう。
明治初めの翻訳文化から脱して、国内の人材が新しい価値観やモラル、社会思想を議論したのもこの頃である。哲学者・九鬼周造が、東大を卒業してヨーロッパに渡り、実存主義に触れたのも大正文化の展開と深まりにシンクロナイズしている。九鬼が「いきの構造」を著したのは、昭和に入ってから、彼が40台になっての仕事であるが、その基礎は大正期に形成されている。
九鬼は、小生の曽祖父と同じ世代に属し、此の世で同じ空気を吸ったのだが、当時の人は自分の人生のことを色々と考えたようである。どうやら食うだけが人生の大事であるとは考えなかったようである。まあ、「人はパンのみにて生くるにあらず」とバイブルでも言っているくらいだから、食うことだけが大事なわけではないとは、洋の東西を問わず、すべての人が思うことだ。
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<真善美>という。真は真理をさし、善は文字通りの善というか、モラルのこと。美は具体的な芸術作品と言うより美の本質をさす。
真善美が、人生をかけて求めるべき窮極的価値であるというのは、TVも携帯もインターネットもない時代、大学で学ぶ学生達の大半の常識であったように思われる。この真善美というのが、小生、これまではどうも鼻持ちならないというか、高学歴の青年のエリート主義が紛々としていて、あまり好きな言葉ではなかった。しかし、この<真善美>というのは、今日の<民主主義>とか、<雇用>とか<経済成長>等々の言葉よりは、よほど体系的思想に裏打ちされた確固とした概念であったと思うようになった。
端的にいえば、<幸福>を実現する窮極的価値なのだろう。古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、なぜ人はモラルを守らなければならないかという理由を真剣に議論した。ソクラテスは、善でありつづけることが、幸福であるための必要条件だからだと主張した。もちろん「本当の幸福とは何か」が大問題になるわけであり、一筋縄ではいかない。モラルに執着しないことこそ幸福へ至る道であるという、人が思いつくあらゆる反論に対して、ソクラテスはロジカルな反撃を加える。その下りは、演劇を観るのにも似て、プラトンの対話編「ゴルギアス」でも最大の山場になっている。生きることの意味?自殺することの意味?「ソクラテスの弁明」は、いまでも高校の課題図書の一冊として推薦されているのだろうか?
このように考えると、真善美という価値を追求して、それを具体化する努力を払うことは、その人を幸福にするだけではなく、社会の大多数の人を幸福にする道に通じる。そう考えていたのではないかなあ、と。これまで大正期の青年たちの必読書とされた阿部次郎「三太郎の日記」など、いくつかの作品に目を通すこともあったが、全然ピンと来なかった。来なかったのが、先日、布団の中でゴロゴロしているうちに「ああ、そうだったのかなあ」と気が付いたわけ。
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必死に勉強しているうちは、どうしても暗記主義の弊害に陥りやすい。ゴロゴロしているときに、分かるべきことは、いずれ分かる。こうした分かり方は結構大事なのではなかろうか?
雇用とか、福祉とか、成長とか、これらはいかにも実用的・直接的な価値であり、有用な政治目標たりうる。しかし、何が人生にとって大事であるのか、この点を一所懸命に考えさせる教育の在り方は、決して悪いものではない。他人の人生を大事に思う官僚や政治家は、今日でもなお求められている存在である。そう思うのだが、どうだろう。
2012年5月6日日曜日
日曜日の話し(5/6)
今日は、四日連休の最終日であるとともに、小生の亡父の生誕日でもある。もっとも浄土にいるはずの父の誕生日を祝うことは、今日ではもうない。
とはいえ、他界したのは近々40年前のことでしかない。長い時間の流れの中から見れば、昨日のことであると言ってよいかもしれない。
前週は源氏物語絵巻を代表とする大和絵の話しになった。いつの間にか話題が地中海から日本に移動した。旅行なら大変だが、ここが話だけをすればいいブログのよいところだ。大和絵は800年代以降、日本の文化全体が中国の影響を脱して、独自の発展を示し始めた時代に生まれた。その時代は、世界帝国・唐王朝の末期の頃であり、中国は内戦で混乱し、周辺諸国に影響を与える力は失われていった。次の宋王朝の時代に再び中国が力を取り戻すまで100年程度の混乱と衰退が続く。中学校の歴史の授業でも習う<国風文化>の時代は、何も日本だけで見られた現象ではないという。
とはいえ、他界したのは近々40年前のことでしかない。長い時間の流れの中から見れば、昨日のことであると言ってよいかもしれない。
前週は源氏物語絵巻を代表とする大和絵の話しになった。いつの間にか話題が地中海から日本に移動した。旅行なら大変だが、ここが話だけをすればいいブログのよいところだ。大和絵は800年代以降、日本の文化全体が中国の影響を脱して、独自の発展を示し始めた時代に生まれた。その時代は、世界帝国・唐王朝の末期の頃であり、中国は内戦で混乱し、周辺諸国に影響を与える力は失われていった。次の宋王朝の時代に再び中国が力を取り戻すまで100年程度の混乱と衰退が続く。中学校の歴史の授業でも習う<国風文化>の時代は、何も日本だけで見られた現象ではないという。
紫式部日記絵詞
出所:藤田美術館で曜変天目茶碗
大阪・藤田美術館に所蔵されている上の作品は、平安文化の爛熟期である12世紀に描かれたものという。右上にいる人物は紫式部が仕えた中宮・彰子の父である藤原道長であると言われる。「平安時代」は現代人にとって馴染みが薄いが、藤原一族が全盛期を迎える西暦1000年を中心に前後200年と数えると、大体の目安にはなる。その400年は、藤原一門が政界で台頭し、ライバルを排斥し、富を蓄積して、その後一族の内紛や皇室が院政という新手に打って出たこと、そして鎌倉幕府の成立によって、支配力を失うまでの400年である。
東ローマ帝国がギリシア人たちの帝国「ビザンティン」になってから、隆盛期は概ね1000年±200年の合計400年程度である。古代中国の王朝である漢も紀元ゼロ年をはさんで、概ね前漢が200年、後漢が200年程度で寿命を終えている。徳川時代は長いようでも250年である。武士が日本に誕生して、武家の棟梁としての清和源氏、その中でも特に河内源氏が崇敬を集め始めたのが源頼信の頃だから、やはり西暦1000年。その後、衰退と興隆を繰り返した後、最終的に河内源氏の末裔である足利一門全体が戦国の世で力を失うのが応仁の乱以降であるから、寿命は概ね400年余りだ。古代ローマ帝国の黄金時代は西暦100年代の五賢帝時代だから百年間。ただ東西分裂までを数えると395年だから、帝政開始からやっぱり約400年。
どうやら、いかなる超大国・帝国あるいは名門貴族と言っても、一つの体制が400年という時間を超えて、変わらぬ力を行使するのは、どうしても不可能のようである。
古代エジプト文明は紀元ゼロ年前までに約3000年の歴史を経ていた。バグダッド近郊などメソポタミアもそうだ。人類文明の歴史のうち、キリスト生誕以前の方が以後よりもずっと長い。この長い時間の中で、どの権力も高々400年という時間を超えて機能し続けることはできない。国の名称は同じでも、中身は別になって生きるしかない。国は破れても、人のつながり、人縁・地縁は生き続け、また新しい国がつくられては、消える。核兵器の時代ではあるが、いままでの現実が変わるとは思えない。
であるとすれば、これが<諸行無常>ということか。人間の本質は確かに変わらぬものとしてあるとは思うが、国家や権力は、まさに<もののあはれ>、桜の花のようなものだろう。シュンペーターのいう<イノベーション>は、世は予想通りにいかないという意味では、<無常>の中の出来事である。
2012年5月4日金曜日
原発と日本経済 ― リスク評価もできぬ、安全限界もわきまえぬ、では困る
関西電力管内では、今夏、どんなに節電をしても15%程度は電力需要をまかなえないのではないかという「憶測」がある。これは流言飛語だという人がおれば、かなり信用してもよいのではないかという人もいる。
ここ北海道でも泊原発3号機が今月から定期検査に入り、北電も節電要請をすることになるのではないかと心配されている。夏場に節電するのであれば、厳冬期の北海道の電力需給は相当厳しいだろう。本日の道新には、原発停止の余波で三美炭鉱(美唄市)でフル操業を続けているという記事がある。同社の西向沢露天坑は低コストであり、海外の安い石炭とも十分戦えるらしい。昨年来の本州への余剰電力送電は、この石炭が支えている面が大きいというのだから、エネルギー事情もだんだんと変わりつつある。ただ、原発再稼働・脱原発の方向が不確実ないま、大規模な能力拡大投資に踏み切るのはリスクが大きいというので、当分はフル操業体制で行くと話している。
電力という最も基礎的なエネルギーにおいて、日本経済は<供給ボトルネック>という昭和20年代以来の経済状況に陥りかけている。類似例としては、チェルノブイリ原発事故直後のウクライナが挙げられるようだ。当時、国民の間に反原発意識が高まり、ウクライナも原発を全て停止した。それを代替したのがロシアの天然ガスである。しかし、電力供給が不安定になり、頻繁に停電が発生し、工場の操業は停止した。そのため製造業の海外流出が加速し、失業者が激増。国民の所得が低下、税収が減少して財政が悪化。結局、ロシアに天然ガス代金を払うこともできず、ガス供給も停止される憂き目にあったことは記憶に新しい。ウクライナの国民が原発再稼働を納得したのは、こんな惨状と向き合ってからだ。
惨状と向き合って初めて納得するのは、文脈は全く異なるが、今日のギリシアと相通じるものがある。日本もその仲間入りをする可能性がある。ま、子ども手当とか児童手当とか、そんな場合でなくなるかもしれぬ。公的年金とか、そんな余裕はなくなるかもしれぬ。とすれば、年金制度改正という課題そのものが、雲散霧消することになるであろう。つまり緊急事態である。
とはいえ、政府も苦悩にみちているはずだ。菅前総理が「危険である」と主張して原発を停止したあと、止めた原発を再稼働するには「危険ではない」ことを政府が証明する必要ができた。しかし、それを証明する体制は、「原子力規制庁」の発足すら見通しが立たない今、ないに等しい。
原子力安全委員会も自らの責任で「安全である」と証明することに消極的であるようだ。そりゃそうでしょう。「危険だ」と判断していれば、原子力安全委員会が「危険だ」と言っていたであろう。委員会が「危険でない」と判断していた原発を「危険である」と菅前総理が言いだしたのだ。それが「いまはもう危険ではありません」と証明するデータを揃えるのは、科学的には不可能ではあるまいか?当時も今も「危険ではない」と考えているに違いないから。
原子力安全委員会の真の難問は、「危険でない」と証明することではなく、菅前総理が「危険だ」と停止指示を出した時点において、「確かに危険であったのです」と、この点を証明することのほうであろう。
経済的混乱というエコノミック・リスク、原発の安全投資がなお不十分であるかもしれないというハザードリスク。これに加えて、危険ではなかった原発を首相が超法規的手続きによって停止させたという事実が、実は水面下には潜在している。ここの経緯に火がつくと、汚職ではない、まさに政治家としての信念が弾劾されるという久しぶりの政治劇を見ることになるかもしれない。ま、民主党にとってはポリティカル・リスクであろう。失業と自殺に相関があることは認められている。原発事故による強制避難長期化と孤独死との関連も指摘されている。問題は<そういう事態が到来する確率評価>である。こういうリスク評価が、いま、求められている。
いずれにしても駆逐艦から爆雷攻撃されれば、潜水艦は海面下深く潜航するしかない。できれば海底面に静かに着座して、エンジンを停止するのが最も安全であろう。それは事実だが、それが出来るのか?技術上の<安全限界>をわきまえておかなければ、安全策が最も危険な策であるかもしれないのだ。
どちらにしてもリスクがある時には、よりリスクが小さい方向を決めることがリーダーの責任だ。その判断を分かりやすく説明して、全員の納得を得ることも仕事のうちである。
投資家はリスクを引き受けてギャンブルをするが、政治家はギャンブルは避けるのが当然だ。しかし、いまの日本国に安全確実な進路はない。大事なのは、リスクの評価である。
ここ北海道でも泊原発3号機が今月から定期検査に入り、北電も節電要請をすることになるのではないかと心配されている。夏場に節電するのであれば、厳冬期の北海道の電力需給は相当厳しいだろう。本日の道新には、原発停止の余波で三美炭鉱(美唄市)でフル操業を続けているという記事がある。同社の西向沢露天坑は低コストであり、海外の安い石炭とも十分戦えるらしい。昨年来の本州への余剰電力送電は、この石炭が支えている面が大きいというのだから、エネルギー事情もだんだんと変わりつつある。ただ、原発再稼働・脱原発の方向が不確実ないま、大規模な能力拡大投資に踏み切るのはリスクが大きいというので、当分はフル操業体制で行くと話している。
電力という最も基礎的なエネルギーにおいて、日本経済は<供給ボトルネック>という昭和20年代以来の経済状況に陥りかけている。類似例としては、チェルノブイリ原発事故直後のウクライナが挙げられるようだ。当時、国民の間に反原発意識が高まり、ウクライナも原発を全て停止した。それを代替したのがロシアの天然ガスである。しかし、電力供給が不安定になり、頻繁に停電が発生し、工場の操業は停止した。そのため製造業の海外流出が加速し、失業者が激増。国民の所得が低下、税収が減少して財政が悪化。結局、ロシアに天然ガス代金を払うこともできず、ガス供給も停止される憂き目にあったことは記憶に新しい。ウクライナの国民が原発再稼働を納得したのは、こんな惨状と向き合ってからだ。
惨状と向き合って初めて納得するのは、文脈は全く異なるが、今日のギリシアと相通じるものがある。日本もその仲間入りをする可能性がある。ま、子ども手当とか児童手当とか、そんな場合でなくなるかもしれぬ。公的年金とか、そんな余裕はなくなるかもしれぬ。とすれば、年金制度改正という課題そのものが、雲散霧消することになるであろう。つまり緊急事態である。
× × ×
とはいえ、政府も苦悩にみちているはずだ。菅前総理が「危険である」と主張して原発を停止したあと、止めた原発を再稼働するには「危険ではない」ことを政府が証明する必要ができた。しかし、それを証明する体制は、「原子力規制庁」の発足すら見通しが立たない今、ないに等しい。
原子力安全委員会も自らの責任で「安全である」と証明することに消極的であるようだ。そりゃそうでしょう。「危険だ」と判断していれば、原子力安全委員会が「危険だ」と言っていたであろう。委員会が「危険でない」と判断していた原発を「危険である」と菅前総理が言いだしたのだ。それが「いまはもう危険ではありません」と証明するデータを揃えるのは、科学的には不可能ではあるまいか?当時も今も「危険ではない」と考えているに違いないから。
原子力安全委員会の真の難問は、「危険でない」と証明することではなく、菅前総理が「危険だ」と停止指示を出した時点において、「確かに危険であったのです」と、この点を証明することのほうであろう。
経済的混乱というエコノミック・リスク、原発の安全投資がなお不十分であるかもしれないというハザードリスク。これに加えて、危険ではなかった原発を首相が超法規的手続きによって停止させたという事実が、実は水面下には潜在している。ここの経緯に火がつくと、汚職ではない、まさに政治家としての信念が弾劾されるという久しぶりの政治劇を見ることになるかもしれない。ま、民主党にとってはポリティカル・リスクであろう。失業と自殺に相関があることは認められている。原発事故による強制避難長期化と孤独死との関連も指摘されている。問題は<そういう事態が到来する確率評価>である。こういうリスク評価が、いま、求められている。
× × ×
いずれにしても駆逐艦から爆雷攻撃されれば、潜水艦は海面下深く潜航するしかない。できれば海底面に静かに着座して、エンジンを停止するのが最も安全であろう。それは事実だが、それが出来るのか?技術上の<安全限界>をわきまえておかなければ、安全策が最も危険な策であるかもしれないのだ。
どちらにしてもリスクがある時には、よりリスクが小さい方向を決めることがリーダーの責任だ。その判断を分かりやすく説明して、全員の納得を得ることも仕事のうちである。
投資家はリスクを引き受けてギャンブルをするが、政治家はギャンブルは避けるのが当然だ。しかし、いまの日本国に安全確実な進路はない。大事なのは、リスクの評価である。
2012年5月3日木曜日
いまの貧困はカネではない。情報である。
日本はマクロ的には黒字国である。ギリシアやスペインのようにカネに困っているわけではない。困っているのは政府だけである。家計も企業もトータルではカネ余りである。足りないのは<情報>である。今日はそんなことを書きとめておきたい。
情報?いまという時代は、情報が足りないのと正反対であり、情報過多ではないか。そういう人も多いかもしれない。しかし、小生、やっぱり日本は情報不足の国であり、情報面での貧困化が進んでいると思う。
その背景なり、原因分析はまた別の場に書くとして、最近の経験から。
先日、ドイツの五大研の一つ、Ifo(Leibniz Institute for Economic Research at the University of Munich)からメールマガジンが届いたが、その中に共同経済見通しのアウトラインが解説されていた。
グラフで見るのが簡単だ。
当然ながら、ドイツのIfoはメールマガジンも無料であるし、提供している経済情報も無料である部分が多く、数値データはほとんどの人にとって必要十分であろう。有料で提供しているのは専門スタッフが分析・考察したレポートの部分である。
他人の知恵に対して報酬を支払うのは当然である。しかし、素のデータを提供するサービス活動から利益を稼ぐ ― というより現に稼げる ― というのは、ありえるのか?マネージメント・コストがかかっている以上、課金を徴収するのは分かる。しかし、コストを超える利益がそこに生まれるというのは、、一体、どんな付加価値を提供しているからだろう?日本経済新聞社が経済情報マーケットで有している市場支配力の行使そのものではないのか?独占的利益に該当するのではないのか?確かに対メンバーサービスは多種類の情報のパッケージになっているから、あまり批判するのは公平を欠くが、そう考えたりするのです、な。
× × ×
ドイツのIfoは、民間とは言っても大学の中の非営利組織である。営利原則に立つ日本経済研究センターとは同列にはいかない。とはいえ、それを差し引いても、この辺にも日本人が得意とする行動様式が何となくにじみ出ている、そんな印象を小生は受けるのだ。それは<先行投資>、<インフラ投資>が不得意というより、関心が薄く、<利益機会>、<ビジネスチャンス>には敏感であるという傾向だ。
利益機会、ビジネスチャンスという用語は、ビジネススクールでは日常的に使っているから、あまり貶しては自分に跳ね返ってくる。しかし、<チャンス>という言葉と<戦略>という言葉は、本来は180度違った、真逆の概念であることを知るのは大変重要だと思う。戦略とは、チャンスに乗じるのではなく、自分にとって有利なチャンスを、ライバルとの駆け引きの中で、自分の方から作り出していく行動だ。前の投稿でも書いたことだが、戦略がなければ最適組織も決まらない。リーダシップも不必要だ。その時には、<状況>に注意を払いながら、<チャンス>があればそこを攻めるという行動を必ずとる。端的に言えば<機会主義的行動>をとる。ま、オポチュニスト。左翼がよく使った日和見主義という言葉もある。これも立派な一つの選択であり、行動方針である。その時、その時、チャンスが豊富にあるという見通しがあれば成功するはずだ。
しかし、小生は思うのだ。多くの人が経済・社会データを使いやすいように利用システムを整え、誰でもが国際マクロ経済の現状を自ら調べ、確認できるようにしておくことは、国民一人一人の経済的感性を底上げし、創造的ビジネスの誕生を刺激することになる。である以上、これは営利型のビジネスではなく、21世紀の国家がなすべきインフラ投資ではないのだろうか。本来なら、大学が取り組まなければならないことだ。IFOもドイツ・ミュンヘン大学に置かれる非営利組織である。アメリカではセントルイス連銀の総合経済情報データベース(FRED)が有名で、これは小生も頻繁に使うので本ブログの右側にリンクボタンを作っている。経済学者のKrugmanは、FREDに比べて欧州のEUROSTATの使いにくいことを嘆いていたが、そういう以上は、多分クルーグマンは日本政府や日銀のサイトを使ったことはないのじゃないかと、そこは確信しているのだ。
<成長戦略>が必要だと言い始めて、もう10年近くになる。しかし、それは<ビジネスチャンス>や<利益機会>を探すことだと割り切ってしまうと、そこでまた資源の浪費が生じるだろう。古代ローマで軍隊が道路や橋梁を担当したと同じように、第一人者が公共建造物を提供したように、政府や非営利組織がいま必要なインフラを作り、十分なインフラを広く公開し、その上で多数の民間企業が自由にビジネスを展開する。こういう順番で進めないと資源をドブに捨てるようなものだ。焦ってビジネスを後押ししても、大きな花が咲く理屈はない。まして、インフラ的社会資本を民間の独占的企業による営利事業に委ねるなどは、室町時代の<関銭>と同じで、社会的停滞を自ら望むのと同じである。
日本経済の中期的展望を、日本人が知りたいと思うとき、年間100万円もとるような民間ビジネスがまず検索にかかってくる現状は、それだけ日本の<情報貧困>ぶりを示唆しているのではないだろうか。自然科学の成果、社会科学の成果を良質の情報ネットワークで公開する活動は、21世紀の社会資本形成だと考えるべきだ。
情報?いまという時代は、情報が足りないのと正反対であり、情報過多ではないか。そういう人も多いかもしれない。しかし、小生、やっぱり日本は情報不足の国であり、情報面での貧困化が進んでいると思う。
その背景なり、原因分析はまた別の場に書くとして、最近の経験から。
× × ×
先日、ドイツの五大研の一つ、Ifo(Leibniz Institute for Economic Research at the University of Munich)からメールマガジンが届いたが、その中に共同経済見通しのアウトラインが解説されていた。
グラフで見るのが簡単だ。
これによるとドイツ経済の実質成長率は、今年(2012年)が0.9%増、来年(2013年)が2.0%増ということだ。昨年末から本年初にかけて<踊り場>的な停滞を見せていたが、今後は順調な拡大路線が予想されているというレポートである。
日本はどうだったかな、と。そう思って、まず内閣府の政府経済見通し資料を確かめた。次の図が掲載されている。
これによると今年度(2012年度)の見通しは、実質成長率で2.2%になっている。
しかし政府の経済見通しは単年度ずつ区切って、足元の数字を作るだけだから、来年度(2013年度)はどうなっていくのかという数字はない。
というか、何もドイツのIFOと同じレベルで資料を提供してほしいとは言わないが、上の図は一体誰に説明する時に使う資料なのか、ちょっと分かりかねる稚拙な出来栄えじゃあなかろうか。そう感じるのだ、な。PCや便利なソフトウェアがまだ世の中に存在しなかった25年前なら上のような感じだったが、今ならIfo並みの資料作成が常識であろう、と。
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2012年だけではなく、来年(2013年)にかけてどんな経済ラインが想定されているのか?それを知りたいので検索をかけてみると、日本経済新聞社系列の日本経済研究センターによる中期経済予測がヒットした。「おお、あるではないか!それも中期予測だ、5年程度でやっているのだな」、「やはりこういう経済シミュレーションは日本に一日の長があるなあ」。そう思ったのだが、よく見ると実際のデータは<JCER NETメンバー限定>であるらしい。「ああ、メンバーにならないといかんのか」と思って、メンバー登録の方法を調べてみると、
JCER NETメンバーへのご登録は会員企業に所属する役員、教員、職員の方のみとさせていただきます。関連会社やご出向中の方等はセキュリティの都合上、ご登録いただけません。こういうメッセージが表示される。ならば入会方式はどうなっているのか調べてみた。すると
日本経済研究センターは1963年の設立以来、経済界・官界・学界の架け橋となる使命を担い、短期・中期・長期の経済予測やアジア・産業・金融などの各種研究とその発信に努めて参りました。このような理念の説明がある。具体的な会費は、一口、二口、三口で違いはあるが、年間で概ね100万円(!)である。これは明らかにBtoBビジネスであって、カネにならない活動をしている個人は顧客として想定してはいない。
300社に上る会員は、日本を代表する企業・団体によって構成されています。日本の人口が減少し、世界の経済構造が大きく変化する中で、正確で信頼性のある情報に基づき、先行きを見通すことがこれまで以上に求められています。
当センターは会員企業のニーズにお応えし、内外経済動向はもとより、アジアや中国、インドのマクロ経済にとどまらない踏み込んだ分析もご提供しております。会員企業の皆様には経営・投資判断、IR、調査研究など日々の業務に当センターの情報をご利用いただいております。
この機会に、当センターの普通(法人)会員となることを、ご検討いただきますようお願い申し上げます。(出所:http://www.jcer.or.jp/center/enrollment.html)
当然ながら、ドイツのIfoはメールマガジンも無料であるし、提供している経済情報も無料である部分が多く、数値データはほとんどの人にとって必要十分であろう。有料で提供しているのは専門スタッフが分析・考察したレポートの部分である。
他人の知恵に対して報酬を支払うのは当然である。しかし、素のデータを提供するサービス活動から利益を稼ぐ ― というより現に稼げる ― というのは、ありえるのか?マネージメント・コストがかかっている以上、課金を徴収するのは分かる。しかし、コストを超える利益がそこに生まれるというのは、、一体、どんな付加価値を提供しているからだろう?日本経済新聞社が経済情報マーケットで有している市場支配力の行使そのものではないのか?独占的利益に該当するのではないのか?確かに対メンバーサービスは多種類の情報のパッケージになっているから、あまり批判するのは公平を欠くが、そう考えたりするのです、な。
ドイツのIfoは、民間とは言っても大学の中の非営利組織である。営利原則に立つ日本経済研究センターとは同列にはいかない。とはいえ、それを差し引いても、この辺にも日本人が得意とする行動様式が何となくにじみ出ている、そんな印象を小生は受けるのだ。それは<先行投資>、<インフラ投資>が不得意というより、関心が薄く、<利益機会>、<ビジネスチャンス>には敏感であるという傾向だ。
利益機会、ビジネスチャンスという用語は、ビジネススクールでは日常的に使っているから、あまり貶しては自分に跳ね返ってくる。しかし、<チャンス>という言葉と<戦略>という言葉は、本来は180度違った、真逆の概念であることを知るのは大変重要だと思う。戦略とは、チャンスに乗じるのではなく、自分にとって有利なチャンスを、ライバルとの駆け引きの中で、自分の方から作り出していく行動だ。前の投稿でも書いたことだが、戦略がなければ最適組織も決まらない。リーダシップも不必要だ。その時には、<状況>に注意を払いながら、<チャンス>があればそこを攻めるという行動を必ずとる。端的に言えば<機会主義的行動>をとる。ま、オポチュニスト。左翼がよく使った日和見主義という言葉もある。これも立派な一つの選択であり、行動方針である。その時、その時、チャンスが豊富にあるという見通しがあれば成功するはずだ。
しかし、小生は思うのだ。多くの人が経済・社会データを使いやすいように利用システムを整え、誰でもが国際マクロ経済の現状を自ら調べ、確認できるようにしておくことは、国民一人一人の経済的感性を底上げし、創造的ビジネスの誕生を刺激することになる。である以上、これは営利型のビジネスではなく、21世紀の国家がなすべきインフラ投資ではないのだろうか。本来なら、大学が取り組まなければならないことだ。IFOもドイツ・ミュンヘン大学に置かれる非営利組織である。アメリカではセントルイス連銀の総合経済情報データベース(FRED)が有名で、これは小生も頻繁に使うので本ブログの右側にリンクボタンを作っている。経済学者のKrugmanは、FREDに比べて欧州のEUROSTATの使いにくいことを嘆いていたが、そういう以上は、多分クルーグマンは日本政府や日銀のサイトを使ったことはないのじゃないかと、そこは確信しているのだ。
<成長戦略>が必要だと言い始めて、もう10年近くになる。しかし、それは<ビジネスチャンス>や<利益機会>を探すことだと割り切ってしまうと、そこでまた資源の浪費が生じるだろう。古代ローマで軍隊が道路や橋梁を担当したと同じように、第一人者が公共建造物を提供したように、政府や非営利組織がいま必要なインフラを作り、十分なインフラを広く公開し、その上で多数の民間企業が自由にビジネスを展開する。こういう順番で進めないと資源をドブに捨てるようなものだ。焦ってビジネスを後押ししても、大きな花が咲く理屈はない。まして、インフラ的社会資本を民間の独占的企業による営利事業に委ねるなどは、室町時代の<関銭>と同じで、社会的停滞を自ら望むのと同じである。
日本経済の中期的展望を、日本人が知りたいと思うとき、年間100万円もとるような民間ビジネスがまず検索にかかってくる現状は、それだけ日本の<情報貧困>ぶりを示唆しているのではないだろうか。自然科学の成果、社会科学の成果を良質の情報ネットワークで公開する活動は、21世紀の社会資本形成だと考えるべきだ。
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