カミさんの「ギックリ腰」も大分よくなり、久しぶりにテレビのワイドショーを観ている。いま「小沢裁判」の話しをしている。
政治資金の不正経理について共謀があったかどうかで地裁の判決で無罪が出たと思ったら、今度は控訴されたというので騒動が繰り返されている。
「無罪です!」で騒ぎ、「控訴しました!」というのでまた騒ぐ。
それだけでも、小生は一つの矛盾を感じるのだが、騒いでいる多数の人は疑問を感じないのだろうか?感じないだろうねえ・・・そう考えている・いないではなく、全体がビジネスなのである。そういうことでしょう。
裁判の前は<疑惑>があった。だから<裁判>をした。したら<無罪>と結論された。それ故、地裁判決のみが存在する現時点において、小沢議員の疑惑は否定され、無罪であるものと見なすべきである。罪があるかどうかを判断する権利は<司法>にあって<国民>にはない。「まだ無罪であると確定した訳ではない」と主張する人たちは、今後、最高裁まで上告して、それでも納得しない場合は<再審>を請願して、次はその請願が受理されるかどうかが<確定>するまでは、結論は出ていないと強弁するのだろうか?
小生、こんな社会状況は率直にいって<世論独裁>、事実上の<人民裁判>であると思います、な。民主主義を偽装した<大衆暴動>に似ている面がある。多数が数の力に訴えるのは、一人でいるよりも仲間といることを重んじる、少数の仲間を結成するよりも大規模な組織を運営することを尊敬する心理が根底にある。とうてい共感はできぬ。
いや、いや、こうした議論も現実を言いあらわしてはいないだろう。つまり、こうするしかないほどマスメディア政治部の利益機会が枯渇して来たということだろう。政治らしい政治がとにかく無いのである。で、話題が枯れ果てて来た。野心溢れる議員立法も、権力意識丸出しの官僚の発言も、壮大な汚職をやる人間もいなくなった。だから<小沢>しかない。<小沢裁判>で新聞を売り、視聴率を稼ぐ。<無罪>で稼ぎ、<控訴>でまた稼ぐ。これしかない。「仕方ないよね」。こういうことではないのか。
この騒動によって、利益を得ている人たちは確かにいる。それは、何もせずに高給をもらい続けている立法府の国会議員達である。小沢議員の処分を解除した民主党を批判していれば、議員としての<仕事>をしているかのような体裁をつくることができる。その機会がラッキーにも訪れたのである。
しかし昨日も「これもビジネスでしょう」という下りを書いた。モノ作りが流出して、サービスで食っていかざるを得ない今の日本。おしゃべりをしていると思ったら「有難うございました。これ私のビジネスなんで・・・」。こんなことが増えてくるかもしれない。
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