2015年12月30日水曜日

今年一年の棚卸し

今年の投稿数も本日を含めて184稿。昨年とまったく同じになった。ま、一年365日。隔日ペースで180日とあと2〜3回。これが平常ペースなのだろう。

今年の投資は、米株は絶好調、日本株は微増という塩梅だった。

最初は、米株と日本株が半々のウェイトにしたのだが、今では米株が3、日本株が1の割合にまで格差ができてしまった。

とにかく日本株は株価が上がるとしても亀の歩みだ。東京市場の最大の問題である。

もちろん事後的にみれば、日本でも急成長した銘柄がなかったわけではない。が、そんな銘柄を発掘する面倒を普通の個人投資家のだれが容易にできるか。これがポイントだ。結局、日本株に投資した人で大成功したのは少数の幸運に恵まれた人たちだけでなかったのか。

東京市場は成長とは関係しない、もはや世界の仕手株市場。ごくごくマージナルな市場になってしまった。そう感じるのだな。

羊辛抱、申酉騒ぐ。せめて来年は少しは飛躍してほしいものだ。

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歳末になってまで騒いでいるのはやはり日韓の歴史問題。

今度の日韓合意をめぐっては日本国内はまだしも韓国では大荒れのようである。

小生の勉強不足のせいだろうか、どうもよく分からぬ事がある。それは韓国側が頻繁に口にする日本の「法的責任」だ。

一体、どこの国の何という法に基づく責任を求めているのだろうか?こんな初歩的疑問を記すのは恥ずかしいのだが、小生は素人なので、仕方がない。

それは日本の法か、韓国の法か、国際法かのいずれかしかあるまい。それも、厳密に言えば、現在の法ではなく、当時(=戦争中)の法でなくてはならないと思われる。

もし日本の法に基づいて日本に不当行為があり賠償責任があるならば、とっくの昔に日本政府が実行するか、もしくは日本の裁判所が賠償を命じていたはずである。20年も紛糾するはずがないと思うが、一体、どないなったんのや。そう思うのは小生ばかりではあるまい。

では国際法に基づいた責任が日本にある可能性があるのだろうか。

もしそうなら、韓国側は国際司法裁判所で決着をつけようと主張するべきである。しかし、そんなことには一言もふれていないのではないか。というか、半世紀前に締結された日韓基本条約を素直によめば、国際法によるとしても、日本に「法的」な賠償責任はないという判断になるのではないか。 そんな見解をどこかで目にした記憶があるのだが・・・。

最後に、韓国の法が外国である日本国の政府に対して適用される事はないので、これは考えるだけ無駄であろう。

だとすると、韓国のいう日本の「法的責任」とは、どこの国の何という法に基づく責任なのだろう。朝鮮日報、中央日報など韓国紙の日本語版を読んでも、この辺の具体的な内容が書かれていない。だから、彼の国の言い分がストンと理解できないのだ。

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ま、法的責任がないのであれば、あるとすれば道義的責任ということになるが、法によらずして政府予算から(韓国側基金に出資する間接方式だとしても)韓国人女性に給付してもよいのか。いかなる受給権をそこに認めるのか。日本の国内法に照らして法的に妥当な支出なのか。

特別法でもつくるのだろうか。

会計検査でアウトになる心配は金輪際ないのか。

日本側でも法的にきちんとしてほしいと感じるのは、小生だけだろうか。

2015年12月28日月曜日

北海道の鉄道事業: 認めるべき大前提

再びJR北海道で鉄道事故が起きた。旭川・鷹栖間にある函館本線・嵐山トンネル内で発生した火災である。寒冷地域ではトンネル内で出来た氷柱が架線に接触しないよう水を脇に流す必要性がある。天井部分にウレタンでできた漏水防止板をはりつけるのはそのためだが、ウレタンに火花が散ると燃えやすい。列車が走行する際に架線から飛ぶ火花が原因となって火災事故が起きるのはそのためだ。今度もそうであったらしい。

JR北海道では最近数年間に重大事故があいつぎ、安全管理体制には疑問符がついている。JR東日本から技術的支援を仰ぎながら改善には努力していると聞いていたが、なかなか道のりは遠いようだ。

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「道のりは遠い」と書いたが、この道はどこかの出口に通じているのだろうか。JR北海道が歩んでいる道は、実は「迷路」なのではないか。単に「迷走」しているだけではないのか。そんな視点も必要だろう。小生はへそ曲がりなのだ。

安全管理とは要するに安全のための資金投入を惜しむなということである。マージナルに資金投入を増やしたときに、マージナルに増加する収入が支出を上回るなら、安全のための支出を増やすべきである。これが経営上の基本ロジックだ。

ロジックに反した経営をすれば、経営不安につながる。

しかし、JR北海道が置かれている経営環境を考えるべきだ。安全投資をして、それが主因となって乗客数が増えるだろうか。そうは思えないのだな。では、乗客数が増えないとして収入を増やすことができるだろうか。もしJRが暮らしの中の必需財であると思う人たちがいれば、料金を引き上げれば収入は必ず増える。というか、安全とは、JRを利用する人たちのための安全なのだから、JRを特に必要としている人たちが安全コストの多くを引き受ける。それが本来の理屈だろう。

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現実には、そんな理屈は通じない。世間も政治もそんな理屈を容認はしないだろう。

北海道は広い。そして住人の密度はうすく散らばって暮らしている。鉄道走行のための一人当たりコストは高い。加えてJRが自ら負担すべき鉄道維持補修コストも高い。北海道の気象は変えようがないのだ。

そもそも北海道には純粋の私鉄はない。JR以外の経営主体があっても公営である。 公営鉄道は私鉄とはいえない。

離島的特性のある四国ですら愛媛県には「伊予鉄」(=伊予鉄道株式会社)があり、香川県には「琴電」(=高松琴平電気鉄道)がある。松山市内には伊予鉄バスも伊予鉄タクシーも走っており、都心では「いよてつ高島屋」が人を集めている。その伊予鉄の鉄道事業も松山市周辺部に限定したものである。ところが北海道には私鉄がない。ないのには理由があると考えるべきだ。

鉄道事業は十分な人口密度がなければ経営できない。
要するに、北海道で鉄道事業を経営するのは至難である。というか、石炭も樺太等北方貿易もなくなった現在、そもそも不可能なのだろう。

JR北海道が安全のために十分な支出ができないのは、安全のために費用を負担しても収入につながらない「不採算路線」が多いからである。そのため、収入を期待できる都市型事業に資金を投入せざるをえない。そこで得る利益で鉄道事業を維持するためだ。その都市型事業も競合他社との競争を避けられない。故に、鉄道事業の安全が不十分になるのだ。このような経営をしている企業は最終的には必ず破綻する。

JR北海道の安全面での弱さは、努力不足ではなく、論理的な結果である。
逆に言えば、鉄道の安全を十分に確保する経営を行うなら、JR北海道は経営不安に陥る可能性がある。

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  1. 安全を重視したいなら、主要路線以外の路線を低コストのバスに切り替えるのがロジックだ。厳冬期にも安全な道路を整備するのは国と道である。
  2. 北海道全域の鉄道路線を死守するのであれば、料金を引き上げ増収をはかる。
  3. 料金引き上げによる増収が難しいなら、安全をその分犠牲にせざるをえない。
  4. JRの鉄道路線は北海道の公共財だと考えるなら、財政資金を投入するべきである。

選択肢はこの他には考えられないと思うのだ、な。

ただし、既存の発想をくつがえすようなイノベーションは考慮していない。

2015年12月27日日曜日

「経験していない=決してわからない」ことは多数ある

話をきくだけでわかることは多数ある。一般に知識・学問といわれるものはそうだ。

逆に、説明をきくだけでは、本当の意味で理解が不可能であることも多い。

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母は戦争世代であり、都市に居住していたので空襲の経験者である。空襲警報が鳴った時の恐怖や、迎撃する日本の戦闘機のエンジン音が聞こえた来た時の気持ちは小生にはわかりようがないことだ。

迎撃する日本の戦闘機には日本の操縦士が乗っており、生還する確率は極めて低かった。

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日韓を悩ませてきた「従軍慰安婦問題」が「解決」するかどうかの瀬戸際にさしかかっている。そんな報道である。

しかし、この問題は「解決」という状態がそもそもありえないわけであり、何かをするといっても、それは両国の政府間で何かの措置に合意する文書を残すということである。

そんな文書が政府間で作成され、公表されたからと言って、当事者たちの経験はなかったことにはならないし、過ぎた時間が戻ってくるわけでもない。

個人や家族の問題としてとらえるとき、未解決・未対応の問題はいつまでも残ることだろう。それが外交問題にはもうならないとしても、だ。

これまた、当事者になってみないと所詮は経験したことではなく、本当にはわからないことだ。

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一人の人間が生きるとき、自分の若かった時の心情は自分で記憶しているものである。しかし、自分が50歳になったときの自分、70歳になった時の自分、90歳まで長生きした時の自分が、何をどう思っているか、事前には全く分からないものである。

若いころに想像する齢をとった自分は、実際に齢をとった自分とは、想像を絶するほど違う。

齢もまた、とってみないとわからない。

いや、覚えているはずの記憶ですら、自分に都合のいいように上書きされるものである。カズオ・イシグロの作品『日の名残り』では、そんな風に述べられているそうだ。読んでみなければならない。

2015年12月24日木曜日

日本人ゴルファーの弱さ: ないものを探してもダメではないだろうか?

ゴルフ談義は面白い。スポーツは戦争とは違うが、人生と暮らしをかけたギリギリの勝負の場では人間の生の姿が露わに出てしまうからだ。

こんなコラム記事があった。韓国人ゴルファーの活躍ぶりを考えたものだ。

少し長くなるが抜粋しておきたい。

テレビ画面に引き込まれるほどのつばぜり合いは、正直あまり思い出せない。「日本の選手はトーナメント終盤で勝負弱い」と嘆くより、外国人選手、特に韓国選手の終盤で争い合ったときの、あの強さは何なのか。少し掘り下げてみる価値があると思う。 
 米大統領就任式で、新大統領の宣誓の最後に必ず口にする言葉がある。「So help me God」(神よ助けたまえ)。大統領としての執務に全身全霊をささげ、最後は神の力に委ねる。最後の孤独な、そして世界の情勢を左右しかねない決断をしなければならないときでも、神が存在する。不安や疑いを消すのが神の存在なのだろう。 
 今年のゴルフ中継を見ていて、イ・ボミのほか何人かの韓国選手が胸で十字を切るのを目にした。実は、韓国民の約3割が熱心なクリスチャンで、儒教や仏教を上回るといわれている。新宗教といわれる宗派もキリスト教が源流とされ、しかも相当熱心な信者の集まりであることは広く知られている。別に宗教の種別は何でもいい。強い信仰心が、不安や疑いを消す役目を果たしているのではないのかと思うのだ。 
 日本では戦後、信仰心が薄れたという見方がある。もちろん、正月は神社に初詣、お盆と葬式は仏教で、それにクリスマスと教会での結婚式など、宗教に関わるいろいろな行事が1年中続く。ただ、それらの行動が熱心な信仰心によるものかといわれると、考えてしまう。 
 とすると、優勝まで最後の数ホールを残して1ストロークの攻防を繰り広げている、あの日本選手たちはどうか。隣にキャディーがついているとはいえ、自分のショットや攻め方の不安や疑いを、結局1人で背負ってしまっているのではないか、と思えてならない。 
 韓国選手が強いのは、恵まれている日本選手と比べて「ハングリー精神」が強いからとよくいわれるが、それだけではないはず。日本選手も大事な場面での神に代わる存在を探さないと、ここぞの一打で不安や疑いはずっとつきまとう。強い心、すなわち自分を信じる強い気持ちで不安を消すことができるようになれるだろうか。新シーズンの日本選手の奮起を願ってやまない。
(出所)日本経済新聞、2015年12月24日

結局は、神という存在に着目したか……。なるほど。

西欧で神の首を切り落とした哲学者がいるとすればそれはカントであると詩人ハイネは書いている。

そのハイネの言は、カントの中の『純粋理性批判』によるものだろう。結局のところカントも『実践理性批判』において、人間の善悪というモラルが成立するには神という存在が必要であり、人間が人間たりうるには神の存在を前提しなければならない。故に(?)、神を肯定する。そんな論法をとった(と小生は解釈している)。

「こうしようと思うが、これでいいのだろうか……」と、そんなギリギリの根源的疑いの崖っぷちに立った人間一人が、最後に頼れるものはその人自身の理性であるというのは無理だろう、ということは、まず洋の東西を問わず誰でも認めるはずだ。ヒトは理屈で頑張るものではない。

だとすると、天の神にゆだねるか、他の人間に帰依するか。このいずれかしかない。

戦前期の日本人を支えたのは皇国日本というバックボーンであったろう。言い換えればこれは国家神道なのだから、やはり宗教的思想だったといってもよいのではないか。

上に引用した記事の最後に「神に代わる存在を探さないと」と書いているが、そんな存在は何もないし、あるとすれば『そうせよ』という上役、というかハッキリ言えば主君という存在だろう。

まあ、サムライといえば聞こえはいいが、サムライとは漢字で書けば侍。侍従という言葉があるくらいで、君命を待つのが本来のサムライである。

日本の誇るべき精神的主柱として武士道を無視することはできないが、仕えるべき主君、守るべき家をなくした日本人の弱さがここにはある……と感じるのは小生だけだろうか。

2015年12月23日水曜日

日記―男二人の焼肉パーティ

昨冬は11月から猛吹雪が毎週のように襲来し、それも爆弾低気圧とかで記録的猛吹雪になるでしょうという天気予報が繰り返し、繰り返し流されていたものだ。ま、結果としては、小生が暮らす道央地方はそれほどでもなかったが、それでもクリスマス前の今頃は雪が1メートルを超していたように覚えている。

今年はまだ積雪ゼロである。ホワイト・クリスマスどころではない。昨日も雨が降った。『長崎は今日も雨だった』ではなく、札幌は今日も雨だったの世界だ。

昨日、新しく着任したばかりのT准教授と市内の某レストランで年忘れ会をやった。氏は日曜日に大連から戻ったばかりである。雪見酒を期待して昨日に設けたのだが、まったく雰囲気がでない。食べたのは焼き肉だ。
炭の香や 牛肉あぶりて 夜深し
映画をみることがあるかと聞くとTさんは『ウォール・ストリートがいいですね。マイケル・ダグラスのあの映画はアメリカのピッツバーグで勉強していたとき、毎日のようにみて、それで英語を勉強してました』。

過ぎた時間を思い出す人に特有の表情と声でそんなことを話した。

そういえば、小生の旧友に金融専門家であるYS先生がいるのだが、彼もまた留学した当座は毎日のように映画『ブレードランナー』(=アンドロイドは電気羊の夢を見るか)をみて英語の勉強をしていたそうである。(ある意味)追いつめられるような状況に自らを追い詰め、将来への道を切り開く勉学の場をアメリカに求めたのであった。

作品は異なるが、似た状況におかれた日本人の若者がおなじようなことをして英語の勉強をしていたことに関心を刺激される。

小生の母方の曽祖父は、明治になってから旧幕期以来の老舗をつぶしてしまい、それでアメリカの桑港に渡航して、某ホテルの皿洗いを手始めに肉体労働に従事し、何年かのあと小金を蓄えて日本に帰国し、店と土地を取り戻したそうな。会ったこともない曽祖父であるが、小生と共有してはいない時間の中で、そんな人生を歩んでいたことが子供心に非常に面白かった。ただ、曽祖父の時代は、活動写真があったとしても無声映画だ。英語の勉強は行きの船の中でやったのだろう。

それもこれも今では茫々たる過去のことになった。

2015年12月20日日曜日

古い記憶: 叔父の講釈と詭弁

小生の従妹のご夫君が比較的若くして世を去った。叔父から届いた突然の訃報であった。

その叔父には、小生が社会に出るとき、いろいろと世話になったことがある。

たまたま受けた公務員試験に合格して小役人になろうとしていた小生に叔父は公務員の安給料をあげて『悪いことはいわない、止めとけ。必ず後悔する』と忠告したものだ。

小生: 社会のための仕事をして報酬をもらえるなら、それは金儲けとは別でヤリ甲斐を感じるんです(青臭いネエ……)。 
叔父: 民間だって仕事をすることで社会には貢献しているんだぞ。社会のために仕事をするなら、民間も公務員も同じだ!
恥ずかしながら、小生は叔父の意見を正面から論駁することができなかった。

民間企業が栄えてこそ、日本の繁栄がある。公務員は税金から給料をもらっている。だから『国のために仕事をしているのは、役人も会社員も同じだ』と言われると、グッとつまったのだな。

いやあ、無知蒙昧であった・・・。
いまなら、叔父の詭弁を認識することができる。

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会社とは「営利法人」である。当たり前のことだが、利益をあげられなくなれば会社は倒産する。

故に、目の前にローリスク・ハイリターンの投資機会がありながら、余裕資金を「地域社会に貢献できる」という単にそれだけの理由から、低収益が見込まれている廃棄物処理事業に資金を投入するならば、その経営陣は株主総会を乗り切れないはずである。

会社は投資家が満足できる利益を提供する必要がある。

利益を求めざるをえない経営陣の経営戦略を実現するために従業員を雇用する。取締役ではない会社員はすべて「部下」である。故に、会社員の目的とは自社利益である。公益ではないし、まして他社の利益ではない。他社の利益を図れば「背任」にあたる。

他方、いかに小役人であっても役人の仕事の目的は公僕であることであって、役所の利益ではない。

会社の利益のために行動する会社員はモラルにかなっているが、役所の利益(=定員・予算・天下り先)を主目的に行動する役人は非難される。

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正しい結果が予測されるからと言って、その行動が正しいわけではない。

社会的な公益が予測されるからと言って、社会のために行動しているとはいえない。

自社利益の追求は、公益の追求に動機づけられているわけではないのだ。


2015年12月17日木曜日

夫婦別姓合憲判決に思う

表題の件で最高裁判決が出た。夫婦同姓は合憲という判断だ。

これに対して、(新聞紙上では)女性差別の現実を見ていないという反発がある。もちろん家族の伝統を守るものだという肯定論もある。

フ〜ム……、思うに夫婦同姓を法律が求めるからといって、女性を差別することにはならないのではないか。男性が女性の姓を名乗ってもいいのだから。

韓国(中国も)は夫婦別姓である。日本も江戸期以前は夫婦別姓が原則であったようだー北条政子は通称ではなく、源政子ではない、あくまで北条政子であったのだな。夫婦別姓だからと言って、韓国や中国、近代以前の日本が男女平等社会かといえば、決してそうではないだろう。

日本は、子供は父の姓を名乗るという父系社会できた。これは東アジア全域でそうだと思われる。父系社会といっても、財産相続その他で父系か母系かという実質的な伝統はもう残ってはいないが、父と母の姓が違ってもよいとした場合、子供はどちらの姓を名乗るのか。これは「通則」を決めておかないと、やはり混乱するかもしれない。

たとえば、先祖の祭祀権は『慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者』が相続すると民法で規定されている。そして、慣習的には祖先の祭祀を行うのは、その家の長男であろう。実際、位牌には『▲▲家先祖代々之霊位』と記されている家庭は多いと思う。墓石には『□□家之墓』と彫られているところが多いと思う。ならば、特に長男は父の姓を名乗ることが期待されるのだろうか。長男は差別されるということなのだろうか。確かに、夫婦同姓により女性が苦痛を感じるときがあるのだろうが、農耕社会となってから以降千年以上も日本が父系社会の歴史を歩んできた。そして、それ故の慣習もある。これも現実だろう。

社会とはそもそも同調ゲームだと言える。男女のデートゲームと言うともっと簡単だ。同調を強いるからには、意にそまぬ選択を強いられる人たちにはプレッシャを感じさせるであろう。それでも、プレッシャを感じつつ、結局は社会に同調して生きているのだな。この現実をありのままに見ることを小生は選びたい。

安定している暮らしの現実をお上が混乱させることは避けた方がよい。

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日本人の苗字は「どこの誰だ」という名乗りを上げる時の「どこ」に当たる部分だ。それに対して、昔の侍社会には氏があった。氏とは出自であり、社会階層と直結する。たとえば、源尊氏は氏+名、足利尊氏は苗字+名である。足利に住んでいる尊氏という意味だ。しかし、姓を支えるこうした親族・同族システムは社会的にはもう機能していない。というより、会社も店も同族集団の財産というより社会の公器である。日本人は日本で暮らしており、同族という傘のもとではもはや暮らしていない。

日本全体で考えればよいということになれば、氏名は、要するに個人が特定できればよいのだ、な。生活が混乱しないように慣習に従えばよいわけである。使いたければ「我こそは木曾冠者義仲なり」と、通称をつかえばよいわけだ。ただ、法律上の手続きを行うときは『正式の名前を記載されたし』と。この位は許容範囲なのではないか。忠臣蔵に出てくる吉良上野介の正式の氏名など誰が知っていよう。それでも(ジェリクル・キャッツではないが)本当の名前を求められる時はあったのだ。本当の名を誇りをもって名乗れるなら、そんなシステムが最上のシステムではないか。

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いまでも同族関係は空虚となり、親子関係すら希薄になっているが、このうえ相続税率を100%に引き上げ、親子関係からほぼ全ての経済的側面を奪ってしまえば、そもそも姓に実質的な意味合いなどなくなるであろう。

父と母、いや別姓であれば父方、母方の祖父と祖母、父方、母方それぞれの父方、母方の曽祖父と曽祖母・・・、みな姓が違うだろう。どれを名乗ってもいいんじゃないの?経済的にはどの苗字を名乗るかによって実質は何も変わらないよね。お好きにどうぞ、と。未来の社会はそんな名前=記号である社会になっていくかもしれないのだ。となれば、マイナンバーだけあればいいよね。番号で行きますか。公的文書に氏名は書かなくともよろしい。マイナンバーを記載してください、と。

番号1924562238の方、窓口までお越しくださあい・・・(ディスプレイニモ番号ガ点滅スル)

名前はすべて通称となる。

ええぞなもし。いいねえ。これまたクールな社会ではないか。現在はそれまでの過渡期であろう。

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それよりはもう一つの判決。女性の再婚禁止期間だ。

すでに以下の報道がある。
政府は16日、女性の再婚禁止期間の100日超部分を憲法違反とした最高裁判決を受け、民法の規定を見直し、禁止期間を現行の6カ月(約180日)から100日に短縮する方針を決めた。(時事通信)
これよりは、女性が妊娠の事実に気がつかないままに結婚し、結婚後に妊娠の事実を知った時に、その子の権利はどう守られるのか。男性の権利は?女性の権利は?某タレントの騒動もあったが、今という時代、むしろこちらのほうが実態とより密接に関係するのではないだろうか。

なぜかって・・・?
だって、結婚とはそもそも子弟養育システム。いろいろな見方があるだろうが、9割方、ほぼ全面的に、「結婚」とは子供を育てるためにあった方が安心で便利だから存在するに過ぎない。「家」を捨象した現代社会では、とどのつまり、そうだろうと思われるのだがどうだろう?