2015年12月27日日曜日

「経験していない=決してわからない」ことは多数ある

話をきくだけでわかることは多数ある。一般に知識・学問といわれるものはそうだ。

逆に、説明をきくだけでは、本当の意味で理解が不可能であることも多い。


母は戦争世代であり、都市に居住していたので空襲の経験者である。空襲警報が鳴った時の恐怖や、迎撃する日本の戦闘機のエンジン音が聞こえた来た時の気持ちは小生にはわかりようがないことだ。

迎撃する日本の戦闘機には日本の操縦士が乗っており、生還する確率は極めて低かった。

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日韓を悩ませてきた「従軍慰安婦問題」が「解決」するかどうかの瀬戸際にさしかかっている。そんな報道である。

しかし、この問題は「解決」という状態がそもそもありえないわけであり、何かをするといっても、それは両国の政府間で何かの措置に合意する文書を残すということである。

そんな文書が政府間で作成され、公表されたからと言って、当事者たちの経験はなかったことにはならないし、過ぎた時間が戻ってくるわけでもない。

個人や家族の問題としてとらえるとき、未解決・未対応の問題はいつまでも残ることだろう。それが外交問題にはもうならないとしても、だ。

これまた、当事者になってみないと所詮は経験したことではなく、本当にはわからないことだ。


一人の人間が生きるとき、自分の若かった時の心情は自分で記憶しているものである。しかし、自分が50歳になったときの自分、70歳になった時の自分、90歳まで長生きした時の自分が、何をどう思っているか、事前には全く分からないものである。

若いころに想像する齢をとった自分は、実際に齢をとった自分とは、想像を絶するほど違う。

齢もまた、とってみないとわからない。

いや、覚えているはずの記憶ですら、自分に都合のいいように上書きされるものである。カズオ・イシグロの作品『日の名残り』では、そんな風に述べられているそうだ。読んでみなければならない。

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