2015年7月20日月曜日

野党の存在価値: まともな審議⇄審議拒否の二択ではないだろう

立法権、行政権、司法権が厳格に区別されているアメリカでは、連邦議会における全ての法案は議員立法であって、大統領は法案提出権すら認められていない。

議院内閣制をとっている日本と国情が異なっていてもいいのだが、それでも議会は議論をしなければならない。これが有権者の立場からみれば、当たり前の期待だろう。


民主党の長妻議員だったと記憶しているのだが、少数野党が淡々と審議に応じているだけでは、巨大与党の横暴を抑えることができない、と。大体、こんな意味の発言をしていたように思う。

確かに、数で劣勢にある自党が国会という場で優勢な敵とどう切り結ぶか。与党が出してくる審議日程に乗ってただ質問するだけでは、いてもいなくてもよい存在に成り果てるだろう。これは間違いなく愚策である。

しかしね。

審議拒否は、議論をしないという宣言をすることによって与党の強引な議事運営を強要し、その情況が広く国民に報道されることを通じて、自党に有利な世論を作り出そうとする戦術であり、いわば少数者に与えられた(時に有効な)プロモーション戦術なのである。「商品」がそこで生産されているわけではない。「商品」あってのプロモーションなのである。

自らの対案を提出するわけではないので、目的は政府提出法案を葬ることを唯一の目的とする。プラスの価値を生み出すのではなく、(自党が)マイナスと判断する法律を阻止する。それがひいては国民にとってはプラスになる。こんな理屈があるのであるが、もし政府提出法案がマイナスになると考えるのであれば、プラスだと考える対案は作りやすいのではないか。なぜ法案をつくって提案しないのか?ずっとそう思っている。


日本の国会で議員立法は少なくはない。国会議員としての仕事はしている。これに間違いはないが、それでも内閣法制局資料をみれば、最近の国会において内閣提出法律案は議員立法を数の平均において凌駕している。

行政府の方が一生懸命に立法の仕事をしている。これでいいの?ちょっと試しにきいてみたいのだねえ。

ま、もちろん、法案提出だけが唯一の職務形態ではない。

特に安保法案は、国家として「やりたいこと」、「やるべきこと」が背景としてあって、政府が提案してきた法案である。野党は、国際政治的環境をどう考えているのか、新法案として何かの立法をするべきなのか否か、この辺までを含めて法案ないし見解をちゃんと提出するべきなのではないか。提出された法案や見解は、必ず新聞等メディアでも報道されるし、与野党双方の見解が四方八方から比較され、批判されるだろう。

学会でも一本の論文が発表されれば、(普通)複数の討論者が発表された論文の意義、内容について意見を述べるのである。もちろん文章にする。それを会場の参加者が聴くし、読むのである。そしてプロシーディングス(Proceedings)としてまとめられ一般の目にふれて保存されるのだ。

学会ですらそうである。国会では国の重要事項を議論するのだ。

まっとうにやってみてはどうか。そもそも委員会・公聴会・本会議という旧来の審議システムは機能的なのか。

与野党双方の見解に対する国民の声は、衆参両議院に付属している事務局がフィードバックとして編集・集計し、閲覧に供するべきではないのか。いかに代議制民主主義であっても、それが国民の認識の深まり、国会の審議の深まりにつながるのではないだろうか。

要するに、与野党双方に議論を強制するようなシステムがいると思う。

もちろん、公開の場における議論が得意な人もいれば、水面下の折衝、根回しが得意な人も役回りとして不可欠だろう。多数の利害調整に能力を発揮する人もいれば、大衆の支持をとりつけて突破するキャラクターの人もいる。色々な役柄がいるのだが、やはり現代という時代に、国会は議論の場として機能する、その姿を伝えることは主たる業務ではないだろうか。


こんな展開を多くの日本人が待っているはずである。にもかかわらず、マスメディアは何ら求めないし、指摘もしないし、批判もせず、現状をただ記事に書くだけのことをしている。

どこが低脳だから、国会が期待された機能を果たせないのか?一概に『ここがバカだよね』という指摘は難しいのだが、どこかが機能していない。それは確実だ。そう思うのだな。

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