というのは、最近、火野正平の心旅がお気に入りであったのだが、春の旅最終回では50歳を過ぎた女性が父のことを思い出している手紙から話が始まった。海で興じていた自分たちの前に父がやってきて、ひとしきり泳いでから岩の上でぼんやりと周囲の風景を眺めていた姿を覚えている。そんな文面だった。その父君はそれから数年を経ずして比較的若い人生を終えたということだが、父のことをほとんど知らないままでいることがとても淋しい、と。
小生も父を早くに亡くした。早いとはいえ青年になっていたので、何も覚えていないというわけではないが、本気で会話をしたことは一度もなかった。文字通り『樹静かならんと欲すれども風やまず、子孝ならんと欲すれども親またず』である。父には不孝ばかりをしていたように思う。
祖父はとても聡明な人であったが、家計の困難から高等教育をうけることがかなわなかった。それでも地元の銀行に雇ってもらい随分出世したから、小生などは畏敬の眼差しで眺めていた。成功した祖父の家庭で成長し、これ以上はない高い教育に恵まれた父は、現在でも主力製品が世界市場でトップシェアを占め、「技術の△△」として知られている某・旧財閥系メーカーで25年余りエンジニアとして勤務した。
聡明かつ生真面目、責任感が強く、毎日の読書と勉強を欠かさない人柄であった。そんな人柄に最高の教育が加わったのだから正に鬼に金棒のはずであったが、社運をかけて取り組んだプロジェクトがうまくいかず、それがきっかけで心身の健康を損ない、出世競争からは脱落した。
『脱落した』と書いたが、小生もこの齢になると、いろいろと当時の父の胸中を想像してみたりすることがある。しかし、父ほどの責任感はなく、父ほどの実行力もなく、父ほど聡明でもない小生が、仕事に失敗した時にどんなことを想うだろうかなど、所詮分かるはずはないのである。
父の肖像というと高村光太郎の『父の顔』を連想する。
父の顔を粘土(どろ)にてつくれば(出所)高村光太郎 朗読 「父の顔」
かはたれ時の窓の下に
父の顔の悲しくさびしや
どこか似てゐるわが顔のおもかげは
うす気味わろきまでに理法のおそろしく
わが魂の老いさき、まざまざと
姿に出でし思ひもかけぬおどろき
わがこころは怖いもの見たさに
その眼を見、その額の皺を見る
つくられし父の顔は
魚類のごとくふかく黙すれど
あはれ痛ましき過ぎし日を語る
そは鋼鉄の暗き叫びにして
又西の国にて見たる「ハムレット」の亡霊の声か
怨嗟(ゑんさ)なけれど身をきるひびきは
爪にしみ入りて?疽(ひやうそう)の如くうづく
父の顔を粘土にて作れば
かはたれ時の窓の下に
あやしき血すぢのささやく声……
小生の画技は拙ないので、とても父の肖像を描くことはできそうもない。が、もし描くとすれば、下のルオーの作品のように描くのだろうなあ…とは思っている。
Rouault, Le vieux clown au chien, 1925
Source: Georges Rouault
タイトルに"au chien"とあるので、犬を探すと、道化師にまとわりついているのにすぐに気がつく。が、はじめにみる時には打ちひしがれて頭を垂れている孤独な道化師にしかみえないだろう。
犬を可愛がっているのだと気がついたとき、何がなし気が楽になったものである。
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