2015年7月9日木曜日

歴史に対する合理的姿勢とは?

こんな文章を読んでどう考える?
その中で日本は、―日本だけが、敗戦とともに国家意識を喪失した。大日本帝国の崩壊とともに、大日本帝国のもっていたすべてが悪いことになった。一億総懺悔で、一時は明治いらいの歴史がすべて悪いことにさえ、されそうな形勢だった。
まるで作家・三島由紀夫が発言しそうな内容ではないか。実は、評論家・村松剛が記した文章である。

林房雄『大東亜戦争肯定論』という、一時、世間に衝撃を与えた大部の本があるのだが、その本を手に取ってパラパラとめくれば、すぐに見つかる。夏目書房版の17頁である。

明治維新以来の全てが悪いという観点には、現在の日本にも多数いるはずの保守派でなくとも、日本人のほぼすべては納得できないに違いない。

小生の考え方は、こうである。
明治維新から太平洋戦争敗戦時までの日本の歴史を振り返って、その功罪は功が6割、罪が4割と考えるのが伝統重視的な一つの立場。功が4割、罪が6割と考えるのがリベラルなもう一つの立場。この二つの立場の間で様々な意見が混在するとすれば、それは仕方がなく、社会としては正常だと思う ー というか、そうあってほしいわけだ。
歴史問題について後世の研究を待つと言うのは、功罪いずれが勝っていたか真実は現時点では明らかでないので、今は『功が半分、罪が半分』とみる。それが敗戦までの日本の歴史ではなかったか。
こう考えるのが、いま歴史を語るとき、合理的な立場だと思うのだ。

功が10割、罪は無し…、この見方から大脳皮質の存在は推測されない。反対に、罪が10割で功は無し…、この見方がいわゆる「自虐史観」というものであろう。

最後に、小生自身の立場を記しておくと、明治維新から敗戦までは、結果をみれば崩壊に至った以上、どうみても功が4割、罪が6割がせいぜい。戦後については、いま現在、世界でも有数な経済規模をもつ国となった事実を観察すれば、少なくとも功が6割、罪が4割。加えて、その間に少数の殉職者をのぞき、国家が国民の生命を奪わなかった点をみれば功が8割、罪が2割という評価もするべきである。ま、あらましはこうだ。

それほど偏った感覚ではないと思うのだ、な。

☆ ☆ ☆

だから、いま現内閣の基本方針が総理個人の執着を反映して国家改悪につながる変更を加えようとしている、どうしてもそんな風に多数の国民の目には映ってしまう・・・それで地方議会が反対、慎重審議の意見書・要望を国会に提出していると。そんな状況に立ち至っている。そう思ったりもするわけだ。

『決してそうではない。世界の状況は・・・やるべきことは・・・政府の考えは・・・』という具合に、具体的に率直に語らなければ、9月末までに現政権は自滅する。

現内閣支持率40%は、いざとなれば、霧のように消えるだろう。世論調査は空気のようなものだ。

今日は悲観的予測を記しておこう。株価が心配だ。ギリシア、中国もあるが、日本の国内事情も不確定要因に入ってきてしまった。危うい、危うい。

☆ ☆ ☆

そう語るときの説得力向上の特効薬は、敗戦までの日本の歩みについて功は功、罪は罪と率直に語ることだ。言及した罪は詫びることである。

集団的自衛権くらいで「戦争法案」と形容されるのは、明治維新から戦前まで、戦争機械であった日本の歩みを不当に高く評価したいという行政トップの意識があるから、というかそんな印象を与えているからだ。分からないのかねえ…、こんな当たり前のことが。

数日前に「トップが大事な理由」を投稿したが、ホント、文字通りトップというのは大事なものである。




0 件のコメント: