2016年1月28日木曜日

暴論: 贈収賄のロジックと規制策

月曜から俄かに胃腸が痛くなり、起きることができなくなった。寒気も感じるので、てっきりウィルスが腹に回ったかと思ったが、下痢も嘔吐もない。胃や腸がシクシクと痛むのだが、便秘になった。ガスが溜まって苦しいのだな。

月曜が火曜になり、火曜が水曜になるうち、痛みが続くようなら病院に行こうと思っていたが、痛みは日ごとにおさまり、昨日の水曜夜には痛みはほとんどなくなった。便通も正常になった。

『なんだったのかねえ・・・ウイルスっていうより毒性のある何かを食べたんじゃないのかなあ』、『日曜は私も食べたんだよ』・・そんな会話をカミさんとしているところだ。

今日はカミさんの買い物につきあったのだが、体力はまったく回復していない。一体、これは何だろう、そう思うこの頃である。


それはさておき、

甘利経財相が苦境に立たされており、いま疑惑に答える記者会見を開いているところだ。

与党では、録画をとったり録音をしたりと、明らかな罠であり、同情論も飛び交っているという。

確かに「悪意」のある部外者が政治家に依頼をするとして、期待通りの結果を示してもらえなければ報復として「贈賄」の事実を明らかにする。そんな動機があることはあるのかもしれない。しかし、いまの法制の下では、政治家はそれで終わりだが、金を贈った民間事業者も同じく処罰されるのである。まあ、民間事業者はそれで終わりというわけではなく、事業所も(従業員もいるのだ)お取り潰しにはならない。

なぜリスクを犯して、民間事業者は政治家に物事を依頼するのだろうか?そして、政治家は受け取ろうとするのだろうか?

なぜ人は渋滞している道路で大した効果もないはずなのに、無理な追い越しをかけたりするのだろうか?うまくいくケースを聞くことがあるからだ。

なぜ困難な手術が必要になった患者は、高額の金銭、高価な贈答品をカリスマ医師に贈ってまで、優先的に手術を受けようと考えるのだろうか?功を奏するケースが実際にあると聞いているからだ。

元々うまくいかないと決まっていることに人はコストを払わない。今回のようなことは、いつでも常に「最後のマージナルな一例」であったはずであり、文字通りのリスクの現実化というわけだ。

経済的利益の提供によって問題解決を図ろうとする発想は、どんな問題であれ、委託者と受託者にウィン・ウィンの関係があれば、必ず生まれてくるものだ。たとえ、その取引方式が法律的に禁止されている違法行為であっても、よほど上手に法的設計をしなければ、法は実効性をもたない。


もし金銭の授受において、金を受け取った政治家に対してのみ犯罪性を認めるなら、民間事業者はいくらでもノーリスクで依頼をしてもよいことになる。支出を差し引いた期待利益がプラスかどうかだけでカネを提供するかしないかを決めるだろう。これは、しかし、フェアな勝負ではない。 よほどの金権政治志向者でなければ政治家は自分に対してのみ危ないカネはもらわないはずだ。というか、委託に失敗した政治家は取引をリークされて身を滅ぼすが、民間事業者は無傷であるとなれば、よほどの自信がなければ話には乗らない。政治家にとって期待利益はほぼすべての場合マイナスである。

民間は常に自由とし、政治家に襟を正してもらいたいと。国民の大多数は上のような在り方を本当は望んでいるのかもしれない。これなら、というかこれでも、不純な金銭授受はほぼゼロになるだろう。

しかし、大物政治家ならば影響力を行使できるかもしれない。金銭を受け取った政治家は真剣に依頼に応えようと努力するはずだからだ(でなければ、相手ではなく自分が破滅するからだ)。大物政治家なら、依頼に答えることで、結果としてカネの取引は闇に葬られるだろう。

故に、この「清廉潔白なシステム」は完璧ではない。

現在の法制度は、贈賄、収賄双方にそれぞれ犯罪性を認めている。

論理としてはそうであるべきで、モラルとしても納得できるのだが、しかし「そもそも論」から言えば、人間社会の物事に絶対的な真理や正義はないものだ。

金銭を伴った依頼を無くする特効薬は、渡した民間事業者にのみ罪を認めて、事業所責任も認め、他方もらった政治家の方には罪はないとするものだ。協力依頼に応えても、応えなくとも、もらった方はまったく無罪。もしもばれたら自分も会社もパー。となれば、民間事業者はバカバカしいのでカネを贈るなどということはしない。民間事業者の側の期待利益は限りなくマイナスだからだ。大体、カネというのは払う側が払おうと決めなければ渡されることはない。


現在の法制は、カネを贈る側、もらう側、双方の責任を認めており、期待利益もリスクも大体イーブン。どちらかが決定的にマイナスならば取引は成立しないが、プラスなら双方ともプラスになる可能性がある。そこに動機がうまれる。

民間側が依頼する。政治家が応諾する。受託した事柄に政治家が真剣に努力をしなくとも、金銭を渡したこと自体で民間側は処罰の対象となる。だから政治家は努力をするだけでよい。また努力せざるをえない。なぜなら、政治家に金銭を提供して問題解決を目指す民間事業者は、最後の手段として危ない橋を渡っているのであって、失うものがないところが多い。故に、依頼に対して努力を怠る政治家は報復として事実をリークされる危険を負っている。そのことを政治家も自覚しているからだ。

要するに、現行法制では双方がリスクを負担し、期待利益も(ある意味で)バランスがとれている。決して、片方に不公平なアンバランスな責任負担システムではない。

重要なことは、片方にとって不公平であるインバランス・システムの下では、自由意志による取引は成立しないことだ。

もしある種の取引をゼロにしたいのであれば、当事者の片方のリスクを限りなく大きくする<意図的な不公平システム>を導入するのが有効だ。

前節の下線部を一般的にいえばこうなるか。

こんな発想もあってよいと思うようになった。


・・・ま、金銭授受をゼロに出来たとして、「いい政治」になるかどうかは別問題だ。 「いい政治」とはカネのやりとりがない状態をいうのではなく、社会の現実に沿った政治をしてくれているという状況をいうのだと、小生は個人的には思っている。

金銭の授受だけを政治の堕落ととらえるべきでもない。カネではない謝礼はいくらでもある。

国会議員、まして内閣の重要閣僚ともなれば、権力を日常的に行使する。権力を行使し得る者には富が集まるという現象は、時代を問わず、東西を問わず、普遍的である − 清廉潔白のはずの中国共産党の政治家をみたまえ、米国の大統領経験者は清貧なる人生を全うしているだろうか。もちろん、だからすべてを許せといっては堕落する一方だ。

がしかし、カネをやりとりさせないことに最大の関心があるなら、少なくとも現在の法制は効率的ではないと思われる。

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【以下加筆】経財相は辞任し、石原氏が後任となった。

いわゆる公的業務への「口利き」は違法とされている。ま、理屈でいえばそうなのだ。国会を通過した事業の執行は「公益」であり、そのプロセスで不利益を被る事業者が特定の政治家の力をたより、カネを提供し、裏側から「口利き」を依頼し、事業の執行を混乱させれば、すでに認められている「公益」の実現が不可能になる。故に、斡旋収賄=違法という結論にはロジックが通っている。

とはいえ、その事業はいかにして計画され、着手されたのか、と。経緯を遡れば、そこにはやはり利益の存在があるのであって、形式論理に沿っていること自体が、正しいことの証明にはならない。それが世間の現実だろう。民主主義社会の政治家というのは、正当性に隠れた矛盾を和らげることも仕事として担当しているのではないか、と。小生はへそ曲がりなものだから、そう思っているのだがねえ・・・。

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