『明日はもう…』などという小生のほうが甘い、というか浮世離れしているのだ。
が、もうそろそろしんどいのですよ、ね。
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いまの長寿社会、人生80年時代はかなり以前から到来していた。その後、定年が何度も延長され、最近は年金支給開始年齢がどんどん後ろにずれているところだ。
小生だけの経験で信頼性は落ちるが、いくら人生80年時代といっても、人生の最後に元気いっぱいの30台、40台が待っているわけではない。最後の10年が70台の10年間であり、その前は60台の10年である。月並みだが「年老いた」長い時間が付け足されたのが、いまの長寿社会なのである。
そして、その長い時間を過ごす自分は、今の自分より更に反射神経も耐久能力も低下しているに違いないのだ。
やれるかねえ・・・。この思いは長寿社会をいきる長寿の人たちに共通の思いだろう。
視力が落ちれば計算能力と読書力が落ちる。筋力が落ちれば、書く力はもとより、会議で座り続ける根気が衰えるのだ、な。おそらくまだ小生の知らない衰えが待っているのだろう。
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大学院を出たのが25歳、それから65歳を定年として実働40年。ちょうど平均寿命を生きるとして、人生の半分を親に守られて、また年金システムという社会制度に守られて生きることになる。
人生の半分だけ働くというのは、過分な甘えなのだろうか?
小生の祖父が生きた時代は戦争をはさんでいて平均寿命という数字はあまり意味がなかった。しかし、まずは還暦の60歳まで生きれば、短命とは言われなかっただろう。そのころ、定年は50歳だったと聞いていた記憶がある。それとも55歳だったろうか・・・。祖父が裁判所を退いたのは、なぜだか祖父が小生を連れて赤煉瓦の旧最高裁まで行き、祖父は建物の中に入っていき、しばらくしてから玄関で待っていた小生に祖父が声をかけながら出てきた日、その日ではなかったかと思うので、だとするとその時の小生の年齢から逆算して、祖父は55歳ではなかったか、そう考えている。
ま、どちらにしても55歳か50歳で定年として、昭和30年代の日本人男性の平均寿命は65歳程度。10年程度は生きるわけだ。
そんな寿命ではあったが、戦前の高等教育は現在よりも分厚く、帝国大学を卒業するとき、ほとんどの学生は23歳になっていたはずだ。祖父は、高文に一度遅刻して小田原の中学で臨時教員をしていたというから、任官した歳は25歳であったろう。
であるとすると、祖父は25歳から55歳まで30年を仕事にささげたことになる。職を辞したときには10年間の隠居生活を予想していたはずだ。とすれば、人生の半分以上を勤労をせずに暮らす。そんな人生設計であったわけだ。これだけでも21世紀に生きている小生よりはよほど恵まれている。実際には祖父は80台まで長生きした。その長い時間、恵まれているのを通り越して、おそらくは退屈、ひょっとすると内心忸怩たる人生の苦みをかみしめていたのかもしれない。
いや、確かに長生きの苦みがあったはずだ。娘、つまり小生の母の婿(=小生の父)は祖父自身よりも早く他界したのだから。
が、まあ、いずれにせよ、人並みの寿命であの世にいって、尊敬する祖父とまた話をする機会に恵まれれば、人生の半分も仕事にささげたというこの事だけは、小生は誇りをもって、自慢げに祖父に伝える権利があると思っている。
もちろん職を退いても、自分の知識で役に立てることはあるだろうし、ラッキーなことに統計ブームである。ただ、報酬を得て、その見返りに働くというのは、もうそろそろおしまいにさせてくれないだろうか、と。勘弁してくれないだろうか、と。そんな心境になってきたのでござんす。
まだまだ大丈夫だ、というのは一見健気に見えるが、その実はハタ迷惑であることが多い。生涯現役というのは、伝説ではあるが、学者、職人、知識人を含め、いろいろ観察すると、気持ちはわかりますけどヤッパリ難しいでしょ、と。これが小生のいつわらざる感想でござります。
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そろそろ一度ゴールしたいね。また走るかどうかは決めていないが、一度ゴールテープを切らせてくれよ。
そんな年始だから、さっぱり意気が上がらない。
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