2017年9月27日水曜日

内部告発の正当性と森鴎外の見方


先日投稿した『ずっと昔の「文春砲」?』で永井荷風による「森先生の事」を引用した。その中で文学雑誌「新潮」が森鴎外の作品「大塩平八郎」に加えた批判が許せないほどに言葉汚く、卑劣なものであったという回想部分をも挿入した。

改めて『大塩平八郎』を読み返してみた。若いころに読んだ記憶はあるのだが、筋はほぼ完全に忘れているーこの辺りは古いドラマを視るのにも似ていて、考えようによっては節約につながる、というものだ。

そこで改めて確認できたのは古くて新しい問題であった。同じ問題を鴎外がずっと昔にもう考えていたことが分かったことには不思議な気持ちがした。第1回目に読んだ時になぜこの部分が記憶に残らなかったのかと、不思議な気もした。まったく、学校時代では鴎外や漱石がよく課題図書に挙げられているのだが、10代、20代のうちの読書力などはたかが知れている。つくづくとそう感じた次第だ。

以下、引用するのは最後のところだ。
個人 の 告発 は、 現に 諸国 の 法律 で 自由 行為 に なつ て ゐる。 昔 は 一歩 進ん で、 それ を 褒 むべ き 行為 に し て ゐ た。 秩序 を 維持 する 一(ひとつ) の 手段 として 奨励 し た ので ある。 中 にも 非行 の 同類 が 告発 を する のを 「返 忠」(かえり忠) と 称し て、 これ に 忠 と 云 ふ 名 を 許す に 至 つて は、 奨励 の 最 顕著 なる もの で ある。
平八郎 の 陰謀 を 告発 し た 四人 は 皆 其 門人 で、 中 で 単に 手先 に 使 はれ た 少年 二人 を 除け ば、 皆 其 与党 で ある。
(この間、平 山 助 次郎、吉見 九 郎 右衛門、吉見 英 太郎、河合 八十 次郎ら四名の密告の内容を叙述。)
評定 の 結果 として、 平山、 吉見 は 取高 の 儘 小普請 入 を 命ぜ られ、 英太郎、 八十 次郎 の 二 少年 は 賞 銀 を 賜 は つ た。 然るに 平山 は 評定 の 局 を 結ん だ 天保 九 年 閏 四月 八日 と、 それ が 発表 せら れ た 八月 二十 一日 との 中間、 六月 二十日 に 自分 の 預け られ て ゐ た 安房 勝山 の 城主 酒井 大和 守 忠 和 の 邸 で、 人間らしく 自殺 を 遂げ た。

(出所)森鴎外. 森 鴎外全集 決定版 全148作品 (インクナブラPD). innkunabula. Kindle 版.

言うまでもなく、「大塩平八郎」という作品は明治43年(1910年)の「大逆事件」に動機づけられ、江戸時代・天保8年(1837年)に大阪町奉行与力であった大塩平八郎が起こした乱を舞台にして鴎外自らの考えを述べたものである(と見なされている)。

明治43年の「大逆事件」は明治天皇暗殺未遂事件とされているが、現在では国家権力による「でっち上げ」であると見る研究者が多数派のようである。逮捕されたのは数百人にのぼり、うち起訴されたのが26人。松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事他の検察当局により事件全貌のフレームアップ(=ストーリー化)が図られ、異例の速さで結審・判決となったのが特徴とされている。起訴された26名の内24名は死刑、2名が有期刑となった。処刑された中には著名なジャーナリスト幸徳秋水も含まれていた。現在では容疑の暗殺計画に少しでも同調、関与していたのは、氏名の特定されている数名のみであり、後はまったく無関係、完全な冤罪であったとされている。1960年代より「大逆事件の真実を明らかにする会」が中心となり再審請求が行われてきたものの、最高裁判所は請求棄却、免訴の判決を下している。

上の大逆事件で検察側の調書・求刑を支えたのは主として一味とされる容疑者の証言であるとされている。森鴎外が考察を加えたのはまさにこの点に関してであり、『大塩平八郎』は鴎外の考えが小説という形をとったものである。小説とはいえ、書かれている内容は考証文学とも言えるほどに綿密で、永井荷風は「科学と芸術」との融合と表現している。

◇ ◇ ◇

公益を目的とした内部告発者は保護されるべきであるという議論は現代の日本でもよく行われる。特にマスメディアにとって内部告発者は報道を支える材料提供者として大変貴重であり、新聞の販売部数拡大のためにも<匿名による密告>は実質的に奨励されるべきであるし、保護もされるべきである、と。当然、そう主張するはずである。

つい今年の春から夏にかけての事件が思い出されるだろう。前川文科省元事務次官が今治市の国家戦略特区と加計学園の内幕を暴露し「行政が歪められた」と非難し、一夜にして「時の人」になって以後、リークした文科省の役人は誰なのかという詮索が行われた。その時、マスメディア大手は一斉に「公益に基づく告発者は法的に保護されなければならない」と主張したものである。

内部告発者(=密告者)をどう観るか?どう処遇するのが正しいか?これは古い問題だが、現にいまだに問題であり続けている問題なのである。

公益に基づく内部告発は、すなわち鴎外の引用する<返り忠>であって、江戸時代の昔より、権力が秩序を維持するための倫理的ツールとして使ってきたものと本質は同じであろう。幕府は封建権力であるが、今では民主主義体制が権力そのものになっている。自分自身の権力を維持するために<公益による密告>を奨励していると考えれば筋が通る。

大逆事件をでっち上げた検察当局と加計問題をフレームアップ(したとすれば、だが)して、反政権闘争に利用したマスメディア各社は、本質的には同じ手を使ったことになるのではないか。どこに進歩があるか?

いずれが正当であるか結論が出るはずもないが、大塩平八郎一党の謀議を事前に密告した面々が事件後に優遇される中、うち一人は<人間らしく>自決を遂げた。そう述べているのは、森鴎外個人の<倫理観>というものであるのは間違いない。イエス・キリストを告発し、銀貨30枚を給されたイスカリオテのユダの自決を誰もが思い出すのではあるまいか。

途中まで関係、協力しながら、最後に密告をする行為をどう考えればよいのか?統治の論理と人間の倫理、美しさと醜さと、損得計算を理性とみるか物欲とみるか、そこには色々な要素が絡み、何が正しい考え方かという結論はそうそうすぐには得られない。敢えて言うなら、誰にせよ他人の不幸や破滅を意図的にもたらすという正にその事によって優遇を受けるとすれば、その行為は醜い。たとえ、公益に叶うとしても<醜い>と感じられるなら、同時に人間の倫理にも反している可能性が高い。とはいえ、こういう言い方もあくまでも一般論で、世知辛い浮世で人と争いながら生き抜くしか術をしらない凡人としては、<醜い>と言われても立場がないだけの話になるだろう。だからこそ、魂を救済する宗教というものが必要であったのだが。

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