暴言・暴行で有名になった豊田真由子衆議院議員は東大法学部を卒業後に厚生労働省に入省しハーバード大学に留学した。
アイスノン、ホッカイロ、パラゾールで有名な白元は、創業者の孫が社長を継承した。その社長は慶大経済学部を卒業後、大手メガ銀行に入り、ハーバード大学ビジネススクールに留学した。しかし、白元はこのたび経営破綻した。
いずれも一流の学校でエリート教育を受けた。にも関わらずというべきか、失敗の酷さかげんが半端でない。
戦前期・日本の学校エリートも酷い終わり方をした。
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職業人生の成否と受けた学校教育とは関係はないものだ ー 全く関係がなく無相関かと言えば、相関はありそうだという印象はあるが、学校教育が成功を導いた主因であるという見方はウソであることにまず間違いはない。特に、学校時代の「成績」と仕事の「手腕」はまったく関係がない。これならば社会の合意が得られるだろう。
よく話すことだが『社会こそ最高の学校である』。ゲーテが「ウィルヘルム・マイスターの修行時代・遍歴時代」を書いた時代から全く同じだ。小生自身も振り返ると同感である。これからも変わらないだろう。
そもそも「学校教育」を重要視し過ぎれば「学閥」が形成される。閉鎖的な集団の中では低能力の人物が出世する機会を得て大きな間違いをおかす。また、学校時代の成績はあくまで個人の能力であり、社会で革新的事業を組織する能力とはほとんど無関係だ。この点は上に述べたとおり。この二つだけを挙げても、「学校」という機関に過大な期待を持つべきではないと分かる。本当に大事なのは「出会い」や「交流」。人との「出会い」や「交流」をうながす場を「学校」としてデザインする必然性はない。技術や知識の性質によっては学校は非効率であるとすら言える。ましてや国家が口を出すなどは、もともと出来る理屈もなく、失敗のもとである。
それにしても安倍首相が提言してにわかに注目されている「大学の教育無償化」。大学の現状を見ないアホらしい構想だ。事情を知っている人ならば、人生の糧となる活動に対して広く経済的支援をする方向で考え直すべきだ、と。そう言うはずである。そもそも現在の日本の大学の半分以上は「大学」という呼称にはそぐわない。
文科省の大学行政は1990年代の金融行政と同じである。
つまり、大学無償化構想は公的資金による私立大学救済構想である。バブル崩壊後に最初に紛糾した問題である「住専への公的資金注入」と何も変わらない。後者は美しい言葉で飾ってはいなかったのでまだマシである。前者は「人づくり」であると。マスメディアはなぜ欺瞞であると批判しないのだろう・・・。ここが最も不可解である。
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