主人公の大江(≒荷風自身)が遊興の巷・玉の井をなぜ歩き回るようになったのかを語る場面である。
此に於てわたくしの憂慮するところは、この町の附近、若しくは東武電車の中などで、文学者と新聞記者とに出会わぬようにする事だけである。・・・十余年前銀座の表通に頻りにカフェーが出来始めた頃、此に酔を買った事から、新聞と云う新聞は挙ってわたくしを筆誅した。昭和四年の四月「文藝春秋」という雑誌は、「世に生存させて置いてはならない」人間としてわたくしを攻撃した。
と、こんな下りがあるのに改めて気がついた(岩波書店『荷風全集』第9巻(昭和39年初版)、134頁)。
『濹東綺譚』が書かれたのは昭和11年(1936年)のことである。「う~む、81年も前から文藝春秋という会社はこんな「筆誅」なるものをやっていたんだネエ」と、改めてというか、つくづくと、会社の根性なるものに感嘆した次第。
とはいうものの、永井荷風はことさらに『文藝春秋』のみに辟易していたわけではない。
たとえばこんな下りもある。
文学雑誌『新潮』は森先生の小説に対していつも卑陋なる言辞を弄して悪罵するを常としていた。殊に先生が『大塩平八郎』の一編を中央公論に寄稿せられた時『新潮』記者のなしたる暴言の如きは全く許すべからざるものであった(岩波書店『荷風全集』第15巻(昭和38年初版)、232頁)。荷風がいう「先生」というのは森鴎外のことである。上は大正11年(1922年)8月発行『明星』に掲載された『森先生の事」がオリジナルである。書かれたのは実に95年も前のことだ。
現在、「週刊文春」と「週刊新潮」が何かと言っては人の秘密を暴露しては人を非難し、販売部数を伸ばす競争をやっているが、「この性向、昔から何も変わっていなかったんだネエ」とつくづくと感嘆した。
同じ路線を100年近くも走り続けるのは、会社であるとしても、ある意味で偉大なことであろう。
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