2017年9月3日日曜日

「政治的な期待」に何かの意味があるのだろうか?

民進党の新代表に前原氏が(事前の下馬評通りに)当選したあと、代表代行職にライバルの枝野氏が、党運営の実務を担当する幹事長には山尾氏が任命される模様となり、にわかに民進党の新体制に対して「華がある」とか、「変貌をとげたようだ」とか、「そこはかとない期待感」があるとか、案外評判はいいようだ。

ここで一言疑問:

この「期待」というのは「予測」とはどの程度違うのだろうか?

たとえば通過したばかりの台風15号。日本列島へ接近する途上では太平洋岸にかなり近い進路をたどるという予報もあった。しかし、実際には予報よりかなり東寄りの進路をとり、小生が暮らす道央では風がちょっと強いかなという程度で終わった。何よりのことだ。近く予定しているリュニューアルを依頼しているリフォーム業者は『前から予定している地鎮祭が今日はあって、ホント、台風がそれてホッとしてるんですよ』と話していた。

台風の進路予測では中位予測の周りに可能性のある範囲が地図上に示されている。予測と言っても、点予測ではなく区間予測を行うのが予測実務では鉄則である。

できるだけ東側にそれてほしいというのは「期待」というより「希望」であって、客観的な計算結果とは別のことである。通常、希望が現実になってくれる確率は、事前の計算段階では極めて低いことも多いのだ。

それで、話は戻るのだが、民進党の新体制に「期待」がもてるというのは、かなり高い確率でイイ線をいくだろうと言おうとしているのか、相当イイ線にまで行く確率もゼロではないと思うんですよね、と。そう言いたいのか。政治評論というのは情緒的に過ぎて、小生にはサッパリ分かりません。

戦時中の大本営陸海軍部は、戦況が悪化してあからさまな嘘をつき始める前段階において、期待ばかりを高めるような情報伝達を繰り返していたことがよく知られている ー 国民の期待形成を重要視した点では、何やら近年の日銀が展開している"Forward-Looking"な金融政策にも似ていて、大本営と金融当局と両者の相似性には目を見張るくらいだ。そのキーワードである「期待」は上のように政治的な議論でもよく使われている。が、使い方が難しいのも「期待」という用語である。

「期待」を伝えたところで情報価値はほとんどゼロである。高い確率で予想される帰趨を伝えるのが、専門家、というか「情報通」としての存在価値であろう。

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