2018年11月28日水曜日

また余計な一言: 戦前と戦後の日本人の似ているところ

今日の「毎日新聞ニュースメール」にこんな下りがあった。「NHK連ドラ『まんぷく』暴行シーンは史実か 過酷だった憲兵の弾圧」というタイトルだ:

 NHKの連ドラ「まんぷく」。旧日本軍の憲兵がヒロインの夫になる男性に暴行する場面について「優しい日本兵が出てこない。日本人をおとしめるのか」といった批判があがり、論争になっている。専門家に話を聞き、資料を調べ、憲兵と「歴史の忘却」について考えてみた。
▽特集ワイド:NHK連ドラ「まんぷく」暴行シーンは史実か 過酷だった憲兵の弾圧
https://l.mainichi.jp/lHRYQtS 

以下は担当記者による後記:
 「まんぷく」に登場する憲兵の論争を切り口に、日本の「負の過去」を考えてみた。心ない言動でだれかを傷つけた、あるいは迷惑をかけた。だれにもそんな経験はある。過去を「なかった」ことにしても、傷つけられた相手は決して忘れない。国と国との間でも同じだろう。負の過去に触れない、あるいは「なかった」とする「歴史」本が売れる時代である。負の過去と向き合い、それでもこの国に愛着が持てる。そんな歴史本こそ読んでみたい。

朝ドラ「まんぷく」は小生も視ている。日清食品の創業者・安藤百福がモデルである立花萬平が憲兵に拘束され暴行を受ける場面も視た。連想したのは漫画『Jin‐仁‐』の主人公・南方仁が無実の容疑で小伝馬町の大牢に入ったシーンである。まさか、あの位のことで『日本人を貶めるのか』という批判が出るとはナア・・・時代も変わったものである。

亡くなった両親は10代後半に戦時中を送った。当時の軍人・憲兵が国民に対していかに暴力的であったかを何度も話題にした。小生が小学校高学年を送った伊豆の三島市北方にある小学校は旧陸軍が使用していた兵舎を校舎に転用していたのだが、その建物の暗い廊下の片隅に「開かずの間」という一室があった。そこでは「問題のある兵」に制裁や拷問が加えられたと教えられた。児童たちはその部屋には入らないように言われていた。言われなくとも鍵がかかったままのその部屋はどこか陰惨で誰も近づきはしなかった。『日本は負けてかえって良かったのよ、軍がなくなっただけでもネ』という母の言葉は大多数の戦争世代に共通した正直な感情ではないかと思われるのだ。

観念で戦前のことを話しても駄目である。経験が何よりも貴重である。

召集された下級兵士は職業軍人ではない。召集解除になれば元の仕事に戻る。権力を行使したのは職業軍人集団である。戦前の軍部が、組織全体として極めて非人間的であったという事実は、もう国民共通の知識として確定させてもよいのではないだろうか。これはもう、疑いようがないと思われるのだ、な。

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だから、相当の保守派である小生も、今回ばかりは『負の過去と向き合い、それでもこの国に愛着が持てる。そんな歴史本こそ読んでみたい』という意見に賛成する。

進歩の基礎となるのは失敗経験である。失敗を直視し改善につなげていく態度が成功をもたらす。逆に、成功について語り、成功体験を誇る姿勢からもたらされるのは堕落と退廃だけである。

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朝ドラ『まんぷく』の暴力シーン程度で「貶められた」と感じるようでは、良い記憶だけを伝えようとしていた戦前の軍部と現代日本人の感性は、あまり異なるところがない。

好きで暴力を加える権力はないものだ。暴力を行使する権力の根底には正義の感覚がある。不正義を憎む気持ちから暴力が生まれるものだ。

だとすれば、現代日本人も大体同じような事はやっている。「許せない」と思う人物に社会的制裁を加えているのはその一例である。正義の怒りを直情的に噴出させて、それが正しいと思い込んでいる様相は、大衆が違法行為を監視する現代社会であれ、違反を摘発しようとして憲兵が監視する戦前社会であれ、どちらも同じではないか。

<過剰制裁>を恥じないという点では、戦前の憲兵も現代の大衆も変わらない。身体を物理的に殴るか、精神的に圧迫するかの違いはあるかもしれないが、どちらも苦痛をもたらすという点では同じである。

テレビドラマの暴力シーンをみる程度で「日本人が貶められた」と感じるなら、幼少の児童の虐待や自殺が相次ぐ現代日本のありようは、既に日本人を貶めている。その事実を直視して、状況の改善に貢献するような行動なり提案を行うのが本筋だろう。

2018年11月26日月曜日

余計な一言: ゴーン・ショック

日産会長カルロス・ゴーン氏を襲ったシェークスピア劇を地で行く騒動については、これまでにも多数の見方や見解が公表されている一方で、事実については今後明らかになるのを待つところが多い。なので、今の段階で喧々諤々の争論をしても、多くが得られる見込みはない。

が、今の段階で明確に批判/反論するべき見方はある。

先日どこかのTVのワイドショーであろう、こんな見方が大真面目に出てくるとすれば、大体以下のようなことであった。
フォードやクライスラーに比べればゴーン会長の報酬は少ないとか言っていますけど、これは世界が間違っているの! 社長や会長なんて何もしていませんよ!! 働いているのはエンジニアであり、社員なんですから!!!
「失われた20年」を経て既に2018年も終わろうとしているいま、今もなお典型的な日本主義丸出しのこのような見解を堂々と開陳するとは吃驚したゼヨ、まだ夜は明けチャア、おらんぜヨ。こんな思いであった。

大体、それほど日産のエンジニアや社員が優秀なのであれば、なぜ倒産寸前になり、ルノーに救済を乞い、先方からゴーン氏を迎える危機に陥ってしまったのか。さっぱり合点がいかぬ。社員は優秀だったんでしょ?トップは何もしないんでしょ?失敗するわけないでしょうが、というわけだ。

ゴーン氏がトップになって何もしていなかったなら、なぜ日産の回復とその後の成長はあり得たのか? おかしいではないか、というわけである。

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「狼の群れを羊が率いる集団」と「羊の群れをオオカミが率いる集団」が争えば勝利はオオカミをトップとする羊軍団にあがる

勝負の天才ナポレオンの格言である。

才能のあるエンジニア達は彼らだけでは評価される仕事ができない。彼らを手持ちの資源として役割を与え、縦横に組み合わせ、それまでとは別の次元に属する強力な人間集団に再組織化できる才能は実に稀有である。故に、有能な経営者は世界的にも稀少であるのであり、有能な社員よりも遥かに高い価値を持つのである。こんな簡単なことはビジネススクールではイロハのイである。基本科目で最初に教わるトップマネジメントの役割を理解できない御仁には単位が認められない ー もちろん頭でわかっていても、それだけでは失敗するものだが。

単に勤勉で、そこそこ優秀なエンジニアや営業マンならば、数多いるのである。ただ彼らは使ってくれるトップに恵まれなければ、そこにいるだけの存在となる。

民間企業に限らず、国家、自治体、大学、競技団体等、あらゆる分野を通して、誰もが知っているはずの観察事実であると思うのだが、まだなお働いているのは身を粉にして汗を流して動いている人間たちだけ、とはネエ。

この傾向は、知識や科学というレベルを超えて、日本人のDNAに刻み込まれ、日本人がもはやそこから逃げることができないような遺伝的性向なのだろうか。とすれば「体質」という言葉が文字通り当てはまるというものだが・・・

2018年11月24日土曜日

随想: <天才>についてまた思う事

本ブログでも何度も書いているように、小生が大変好きで、よく使っている言葉は
秀才はなしうる事を為すが、天才はなすべき事を為す
「なすべき事」とは、現に生きている国なり、社会なりが直面している課題を解決して、新たな時代に進むことである。

こう考えると、小生がこれまで生きてきた中で、文字通りの「天才」にお目にかかったことは、一人もいない。

何も「物足りない」とか、人物のレベルが低かったとか、そのような事を言おうとしているわけではない。むしろその方が有難いと思う位だ。

自分にも理解可能な人というのは、何より安心できる、というものだ。

★ ★ ★

経済学界というか統計畑でメシを食ってきたが、小生が仕事をしてきた畑には、天才は一人もいないのではないか、と。そう感じる。日本国内を振り返ってみても、「あの人は天才である/だった」と思う人はいないと思う。戦前・戦後を通して、どの人も、才能の範囲で、最も聡明に自分にとって解決可能な問題を選択して業績を重ねた人のように思われるのだ。

国を問わず、時代を遡ってみても、経済学の分野でただ一人だけ「天才」という表現をしてもよいとすれば、ケインズしか思いつかない。

小生が昔学んだ大学では、ちょうど一般均衡型計量モデルを研究グループを挙げて共同開発しつつあったさ中であったためか、ケインズ流マクロ経済理論には極めて冷淡だったことを記憶している。専門家であればあるほど、経済学者としてのケインズに批判的な人は相当数いたことが想像される。後の時代の視点から前の時代の人を批判するというキライがあったのだが・・・。ではあるが、曲がりにも当時直面した経済問題に対する解答を提供し、学問的パラダイムを変え、その行動が後世の新たな学問的発展の契機となり、政府の経済政策の在り方までを変えたという点では、やはりケインズは真の天才だったと言わざるを得ないと思っている。

他にはいない。ケインズしか思い付かない、「天才」という名を与えうる経済学者は。つまり、経済学の世界で活躍した人々は、その学問的水準において、超秀才、大秀才、秀才の名に値する人たちであった、と。そう感じるのだな、どの人も。

統計畑では、これはロナルド・フィッシャーの決め打ちでもよいのではないか。

★ ★ ★

「天才的将軍」という概念は世間では明確である。戦術、戦略の革新を断行し、世界を変えるという事例は、年表の中から特定しやすいのだ。

それに比べると「天才的政治家」というのは存在するはずなのだが、輪郭が曖昧である。マックス・ウェーバーが言ったように、政治家とは固い岩盤に鑿を何年も打ち続けても決してヘコタレルことのない性格でなければならない職業である。つまり、天才的将軍が短期的に颯爽として栄光に包まれるのに対して、天才的政治家は何年もかけて上り坂をゆっくりと上っていく、そんな姿になる。

天才的政治家は天才であるとしても、まったく天才的な印象を与えない。なので、事後的に「あの人は天才的な政治家であった」と振り返って、はじめて天才であった事実がわかる。それが天才的政治家だろう、もしいればの話だが。

天才的政治家は、その時には周囲からそうは見られないはずなのだが、誰もが回避する時代の問題を見事に解決し、新しい時代をもたらすという点では他の分野における天才たちと同じである。まあ、その「新しい時代」が魅力ある時代であるかどうかは、人による。ともかくも、直面していた難問に対する一つの合理的解決策を提示したということである。その一つの解決をきっかけにして、歴史が前向きに歩み始めるのである。

つまり、天才的政治家は歴史家によって発掘される対象である。

が、日本の近現代史を通して、というか日本の全歴史を通して、天才的政治家の名に値する人はほとんど特定されていない。

まあ、世俗的にして歴史小説のレベルから名を挙げるとすれば、せいぜいが織田信長と豊臣秀吉くらいだろう。この二人にしても、本当に時代を超越した革新的政策を断行した人物であったのか、最近になって様々な批判が加えられているようだ。歴史の古層に忘れられた天才的政治家が日本にもいるのかもしれない。政治の分野でも100年か200年に一人くらいは日本にも政治的天才が登場していたのだと思われる。他に多くの「天才的政治家」をもっと発掘し、いかなる点において「天才」」であったのか、どのような難問を解決し、時代を進展させていったのか。この辺りを国民向けに解説してほしいものである。

2018年11月22日木曜日

最近のSNSたたきの背景の一つとして

標題から分かるように前稿の続編である。

大手マスメディアによる最近のFBやTWTRなどのSNS企業叩き、特にFBバッシングは目に余るものがある。

なるほど、NYTなどの老舗新聞からみれば、フェイスブックはメディア企業として極めて無責任に有害な情報を社会に垂れ流しているということなのだろう。

フェイスブックは、それに対して『わが社はメディア企業ではない、IT企業である』と自社のポジションを主張しているが、世間の中では旗色が悪い。やはり米大統領選挙におけるロシアンゲートで重要な役回りを演じてしまったことが響いている。

要するに、印象が悪化したのだ。数年前の「アラブの春」では社会の進歩の先導者であると称賛されたのが嘘のようである。

実際には、いずれのケースもSNS企業の功績ではなく、SNSを利用する利用者の意図が為したことなのだが、世間はそうは見てはくれない。

包丁で人を刺したからと言って、包丁メーカーが悪いわけではない。考えてみればすぐに分かることだ。

ここが問題だ。が、よく考えてみると、旧メディア側が憤る背景も分からないではない。

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雑誌"Forbes"にこんな文章がある。

Facebook may have initially led the charge in connecting people, but Jacob Weisberg wrote in the New York Review of Books, “Zuckerberg and his company’s leadership seem incapable of imagining that their relentless pursuit of ‘openness and connection’ has been socially destructive.”

Source: Forbes, 19-Nov-2018

先日の投稿はあくまでも人と人をつなぐ"Social Network"を念頭に置いていた。

しかし、フェイスブックの利用者は「人々」ばかりではない。権力を行使する政府、公的機関、影響力の大きい言論機関、民間企業、その他団体もFBという空間で意図をもって行動している。

リアルな社会で力を行使している組織が、ネット空間でも言葉や映像、音声を通して影響力を広げている、そう言える状態が既にある。力を行使するチャンネルの一つとしてフェイスブックが利用されている。これも「人と人の繋がり」であると強弁するのか。要するに、こういう批判である。

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経済学には確かに完全競争の下で社会的厚生は極大化されるという「パレート最適」が命題として証明されている。しかし、この命題が成立するには非常に困難な前提が満たされていることが必要である。むしろ、経済学の基本定理で主張されている結論をリアライズするには、どのようなことが必要であるかという視点に立って定理の意義を理解することが大事だ。こう話してくれたのは、小生が学生時代に授業を担当してくれた福岡先生である。経済学の純粋理論で仕事をする人にはそれなりの現実認識の裏打ちがあったことがわかる ― 小生の恩師である小尾先生と計量経済学グループはまた違った感覚で純粋理論畑の人たちを観ていたようだが。

経済的厚生を破壊する主要因は、一つには「独占的支配力」を有する巨大企業の誕生である。アメリカで市場経済の成果を評価する産業組織論が大型トラストが相次いだ1920年代に発展したのは偶然ではない。

自由な経済活動は企業の成長と社会的厚生を両立させる近道であるが、全てを自由化し放任しておくと、強者が弱者を支配する「ジャングルの経済」が到来し、多数の経済的厚生が損なわれることになる。米国FTC(Federal Trade Commission:公正取引委員会)は、経済的自由を抑制することが目的ではなく、社会の経済的厚生を守るために必要な行政機関である(建前としては)。ただ、もちろん、一時のマイクロソフトや現在のGoogleのような巨大企業に対して、具体的にどう立ち向かうか、学派によって左翼もあれば、右翼もいるのが現実だ。

★ ★ ★

フェイスブックの利用者がフェイスブックを利用する目的は「社会的つながり」を求めて自分自身のプロファイルや「近況」を発信することばかりではない。

巨大な組織もまたフェイスブックを利用しており、それらの加入者はフェイスブックに集積されている人と人との繋がりを「調査する」のである。

場合によっては、フェイスブックからマイクロデータを(所要の契約手続きの下ではあるが)入手して、それを分析し、自社利益拡大のための行動につなげていくのである。このようなプロセスの中で、英国の選挙コンサルタント企業「ケンブリッジ・アナリティカ」による個人情報流出事件が発生し、ロシアの選挙介入の片棒をかついだという疑惑の標的にいまフェイスブックがなってしまっている、というわけだ。

Forbes誌の言う"their relentless pursuit of ‘openness and connection’ has been socially destructive"は、経済学分野における「市場原理主義」への懸念と大変似ていることに気がつく。さすがは"The New York Times"である、と書いたところ、上の引用記事は"Forbes"からだった。"Forbes"までがネエ・・・。確かに潮目は変わってきたと感じる。

市場原理主義者が唱えたグローバリズムは、結局は多国籍企業やメガ金融機関に利益拡大のための自由を保証したものだった、と言えば公平性を欠くかもしれない。しかし、いまフェイスブックが唱えている「開放的かつ自由な繋がりの場」は、結果として悪意と意図をもった力ある組織が社会に影響力を行使するための格好の場となっている。いずれはジャングルのような社会がやって来るに違いない。社会の利器が凶器と化す。そんな非難も決して的外れではない・・・ウ~ン、確かに一理も二理もある。そう思われてくる。

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どうすればいいか?

SNS企業の裁量で「良い利用者」と「悪い利用者」を選別するか? 一社にそんな選別をする権利を与えるなどトンデモナイとみな考えるはずだ。が、いま進めているのはそんな方向だ。社会の現実をSNS企業で問題解決せよと非難している。では、公的機関が一定の判断基準に立って、「サイバーパトロール」のような事を担当するのか? そんな権限を「お上」に与えてしまえば、「アラブの春」のような進展は二度と期待できないだろう。自由な発信を規制できる権限を公的機関に委ねるべきではない。多くの人はそう考えるのではないか。

結局は、偏った投稿なり動画なり不適切なデジタル資源がネット空間に現れても、圧倒的に放出される多数の異論の洪水の中で埋没・消失していくという状態が理想であるには違いない。"Natural Selection"に委ねればよいという観方だ。SNS企業はインフラを提供する役割にとどまる ― どんなインフラを設計するかというのが問題の本質だが。

ただ、現在のフェイスブックは社会で目立ったポジションを占めたいと考える人が活発に発信し、平穏に日常を送っている人たちは必ずしも社会的により広い繋がりを求めてはいない・・・実際、小生の旧い友人たちでフェイスブックのアカウントをもっているのは極々少数である。SNSというツールは、まだビジネスとしては序の口の段階であり、耐久消費財の普及率でいえば、せいぜいが15パーセント位かというのが実感である。

日本ではLINEが優勢で、FBとLINEは相互参照はできない。カミさんが最近になってLINEを始めたが、それでも友人たち全体の半分はLINEをやっていないという。世代格差も大きい。

フェイスブックの創業者ザッカーバーグが主張するように、SNSが真に社会的インフラとなって、そのプラス面を発揮するようになるには、もっと遥かに多数の人がSNSを利用することが必要であるし、何よりも多数に分立しているSNS企業間で相互参照できるチャンネルをつくることが欠かせないのではないだろうか ― もちろんビジネス戦略として選択可能かどうかという問題がある。

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ただ、上のような理想のSNSが形成された後であっても、テンポラリーに核となるような陣営が形成され、その陣営が社会に大きな影響力を、時に破壊的なほどに発揮するかもしれない ― 1990年代から2000年代にかけてマイクロソフト社も過剰な支配力を持っていると批判されたものである。強制分割への恐怖は大きくなりすぎた主体には常にあるものだ。

大きな影響力をもつに至った党派を「過大」であるとして抑制するのか、そのような党派もまた社会の「自然」の流れであり、進化であると考えるのか。どちらの立場に立つかは社会哲学によるのであって、正解を見つけるのは困難だろう。





2018年11月19日月曜日

大手マスメディアによるSNSたたきの見苦しさ

今日の投稿はソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)企業に対する最近の社会的な批判をどう考えるかがテーマである。

テーマとしては大きいので、まずは第1回ということにしておこう。

☓ ☓ ☓

数年前にフェイスブックのアカウントを新規作成した。国際関係論を専門にしている友人がメールで書いてきたのだが、『日本でフェイスブックとかツイッターとか、ソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)がイマイチ普及しないのは、どうしてか?』、『それだけ民度が低いってことなのか?』等々。そんな指摘があって「自分でまず使ってみるか」と思ったのがきっかけだった。特にフェイスブックについては『本名でアカウントを作るからネエ、それが日本人の肌合いに合わんのかもしれんネ』とまあそんなコメントをした記憶がある。

友人が「日本でSNSが普及しないのは民度が低いからじゃないのか」と指摘したのは、チュニジアやエジプト、リビアなど北アフリカで急速に進んだ「アラブの春」が念頭にあったからだ。革命的な民主化の進展をインフラとして支えたツールがフェイスブックなどSNSであったのは今ではよく知られている。

要するに、フェイスブック(ツイッターも)は、社会の現状を構造的に変えてしまう程の威力を発揮することがある。それを知って世界は震撼したものであった。

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ところが、アメリカ社会だけではなく、全世界的にSNSをとりまく潮の流れは、アラブの春を歓迎した当時と比べると、一変した。文字通り逆転したと言ってもよい。

フェイスブックが巻き込まれた「ロシアンゲート騒動」、「個人情報漏洩事件」、更には一部の社会的勢力がヘイトスピーチを繰り返す、セクハラ・パワハラ発言を繰り返すユーザーを放置している、これらすべての不祥事に対してフェイスブックには責任がある、と。NYT、WPなど有力メディアの紙上ではそんな論調になってきた。

社会的バッシングを被り、フェイスブック社内の士気も非常に低下しているという報道もある。株価も今年初めのピークから3割程度は下落した。

今もなお、創業者ザッカーバーグ氏と新ロシア勢力との繋がりを疑ったり、ザ氏と経営陣との確執について噂が流れるなど、ここにきてメディア全般は反ザッカーバーグ運動の様相を呈し始めている。

一つの「社会運動」であると思われ、こうした風潮形成は既存メディアの得意技とも感じられ、小生、勝つか負けるかの権力闘争の一変種であるとも見ているのだ。

だからこそ、フェイスブックについて言えば、創業以来最大の危機にある。

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ただ、どうなのだろうなあ、とは思う。小生は、フェイスブックのヘビーユーザーではない。3か月に一度くらいの頻度でタイムラインを更新する程度だ。

それでも、既存マスメディア企業が新興のSNS企業をいま非難しているのは、奪われた影響力を奪還するためのマーケティングであると感じる。

窮極の可能性に立って想像してみよう。フェイスブックがユーザー数を増やし続ければ、最後にはニュース源からニュース需要者に情報を直接つなぐパイプとして機能し始めることが出来るだろう。知るに値する全ての社会的情報は何もメディア企業に勤務する編集者に一枚噛んでもらう必要はない。そこでいったんフィルタリングをしてもらう必要性はない。ニュース源がその「事実」をダイレクトに発信してくれればそれが最も良い。SNS企業が全てのオリジナルな情報をカテゴリー別に見やすく整理して、需要者のニーズに応じて配信してくれれば、それが個々人にとってはベストであろう。情報のP2Pサービスすら可能かもしれない。

大手マスメディア企業は、P2PどころかB2CとB2B、その切り分け、つまり顧客セグメント別の紙面編集すら出来ていない。編集局で取捨選択した記事を一斉に紙面に載せるだけである。故に、満足度は平均的に低位に留まるのである。メディア企業としての経営戦略が陳腐化し、一部はほぼ破綻しているのだ。

繰り返すが、SNS企業はメディア企業として創業したのではない。

情報利用者が本当に必要としているのは、原情報であるはずだ。メディア企業が果たしてきた社会的役割を、SNS企業が結果的に果たしてしまうのであれば、メディア企業がSNS企業をライバル企業として敵視するのは理の当然である。

しかし、メディア企業の<社益>と社会の<公益>とは別のものである。

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たとえば・・・もしも電子レンジが更に一層進化し続け、やがて一定のレシピに沿って食材、調味料等を鍋やフライパンに入れてレンジ内に置きさえすれば、あとは人工知能(AI)が温度や水準を調節し、理想的なレベルで見事な料理を作ってくれるのであれば、究極的には厨房を差配するトップシェフのやるべきことは大いに減ってしまうだろう。要らなくなるかもしれない。

AIの進化によって侵食される職業は多々ある。人の手が入っていることに価値があるのでなければ、やがてはなくなると言っても過言ではないだろう。そんな仕事はいくらでもある。「効率的にやりたい」と意識する仕事はすべてそれに該当する。

AIで作動する電子レンジがトップシェフの存在意義を消失させ、就業機会を奪い、彼らの経済的基盤を侵食するとしても、その電子レンジを開発するメーカーはエンドユーザーの利便のために商品を開発するのであって、シェフの経済基盤を奪うこと自体に目的があるわけではない。電子レンジ自体は調理器具であってシェフではない。エンドユーザーがAI付き電子レンジを選択するから、人間のトップシェフが不要になるのである。これは技術進歩によるロジカルな結果であって、人為的な不当行為ではない。

社会が豊かになる新商品や新サービスは社会的に無くてはならないものであり、そのために消え去っていく商品やサービスがあれば、それはなくともよいものなのだ。こう考えるのが、まずはロジックだろう。

新聞、TVとSNSの関係も同じことだ。SNSはデジタル資源をアップしたり相互参照できるネット上の場であって、事実報道やオピニオン掲載を目的とするメディア企業ではない。ただSNSは極めて多機能である。

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確かに、悪意をもっている人物や組織は社会に常に存在する。その悪意がSNSの場で目に見える形で公開されるならば、それはそれでよい、と小生は思う。

というか、そもそもトランプ大統領がツイッターにアップしている投稿。ある立場の人から見れば、悪意に満ちた意見だろう。とはいえ、傷つく人がいるという理由で、SNSにそうした意見を投稿するべきではないと言い出せば、何をいえば許されるのか不安で仕方がない社会になるだろう。そんな社会で暮らしたくはない。「公開」ではなく「友人にのみ公開」と設定しておいて、仲間内では言いたい放題のことを述べ合い、社会には隠蔽すれば善いのかといえば、これもまた陰湿な社会状況であると思う。

「悪意を見える化」できるのであれば、社会から悪意を隠蔽し、悪意を潜在化させるよりも遥かに善い状態であると小生は思う。善悪をともに含んでいる現実があれば、誰もがその現実を知るところに社会的価値がある。リアリティの理解に勝る価値はない、というのが、時代や国を超えた原理・原則である。大手マスメディア企業に情報伝達を委ねておいても問題がない、とは言えないだろう。

自由に投稿してよいなら、フェイクニュースが流通するのも当たり前である。しかし、その情報がフェイクであることを指摘可能なユーザーも存在しているのが、フェイスブックの立場に立てば望ましいのだろう。本名を明示したアカウントという原則を徹底することにより、フェイクニュースを流し続けている人物なり団体をも浮かび上がらせることが可能である(理論的、技術的には)。

大体、(たとえば)フェイスブックをスタートさせたときに最初に表示されるニュースフィードに「見るのも嫌な品のないメッセージ」は自動的には出て来ない。ヘイトスピーチや社会的に許されないような発言は、求めて探さなければ見つからない。自分のタイムラインに嫌悪するべきコメントが仮につけば、ブロックしたり、更にはユーザーをブロックしたり、色々な設定をすることができる。通報も可能である。そもそも友人でもない人からコメントがつけられるようにしている人はいないはずだ。毎日約15億人が利用する広大なFB空間のある限られた空間には眉をひそめる発言もあるだろう。が、それこそが社会の現実ではないだろうか。

SNSがパワハラやネグレクトなどハラスメントのツールに使われている点が批判されることも多い。だからSNS企業が責任を問われることもある。もう言葉もない。SNSがなければ陰口や意地悪になるだけだろう。ヒトの問題をツールの適否と混同するべきではない。これは観察力の問題だ。

・・・もうキリがないが、個別にとりあげてみると最近のようなヒステリックなSNSたたきには理解できるロジックが含まれてはいないと思う。

なので、ビジネスとして、その成長性について、SNS企業をネガティブな方向で考えるべき要素はいささかもないと思っている。SNSというツールは社会的に価値のあるインフラたりうると、そうみているし、見方は変わっていない。

★ ★ ★

であるのに、企業としてはいま創業以来の逆風が吹いている。事業につきものの運や巡りあわせかもしれないが、人為的な意図が背後で働いているのかもしれない。

いずれにしても、人間は悪意をもったり、計略をもったり、何かを企てたりする。だから「アラブの春」も起こりえた。

「アラブの春」のような民主化なら認めるが、同じツールを使って「善くない事」が起こるなら許せない。そう考えるのは「結果論」に過ぎない。

アメリカの大統領選挙にロシアが介入したいという意思を持っているのであれば(当然ながら、そんな意思は持っているだろう)、フェイスブックというツールがあろうがなかろうが、何らかのツールを活用して選挙に介入したに違いないと考えるべきだ。SNSの投稿状況から選挙への介入という事実をマイニングできるとすれば、それはむしろ素晴らしいことではないか。

小生はどうしてもそう思うがねえ・・・。

★ ★ ★

フェイスブックやツイッターの場を無害な投稿一色にするために有害な投稿は削除する、「沈香も焚かず屁もひらず」という状態に抑え込んで得をするのは、大手マスメディアが発行する新聞とTVである。

不適切な投稿があれば、メディア企業自らがそれが不適切であることをSNSの場で堂々と指摘すればよい。多数の賛同・異論・反論がネット上で見える化されるだろう。不適切な投稿を放置しているという非難を自らの紙面に掲載し、あるいはインフォーマルに発言し、フェイスブックやツイッターなどのSNS企業に対していわゆる「筆誅」を加えるのは、ライバル企業を拡販のネタに使っているわけで、文字通りのネガティブ・キャンペーン。SNS企業は大手メディア企業に対してそのような行為をしていない。どうにも見苦しい。職を奪われそうになったトップシェフが「多機能電子レンジは健康に害がある」と非難するのと似ている。そう感じるのだ、な。

まあ、「敵失に乗じる好機」とみて、小躍りしながら反撃するというのも分からないでもないが・・・。見苦しいネエ。

2018年11月17日土曜日

断想: 政治学の現状と水準は?「民主主義」は本当に善いのか?

英国ではEU離脱交渉をめぐってメイ首相が苦境にあるという。離脱派、残留派双方から閣僚が任命されたものの、最近になって離脱派、残留派双方から閣僚の一部が辞任している。

一口に「離脱」と言っても、どのように離脱するのかで英国が直面する運命が異なる以上、どんな政治的選択をするにせよ反対者が閣内から出てくる事態は防ぎようがない。

とはいえ、国の運命を左右するほどの重要案件になるほど、多数の意見を反映した民主主義的意思決定が大事になる(はずだ)。

ところが、最近の英国内の世論調査では安定的に「EUからの離脱に反対する」という意見が過半数を占めているそうだ。

英国で現在、欧州連合(EU)離脱の是非を問う国民投票が再実施された場合、過半数が残留を選ぶと見られることが、5日公表の世論調査で明らかになった。2016年の国民投票以降で、残留支持率は最高となっている。
調査は調査機関ナットセンと「変わる欧州における英国」が実施し、学者が中心となって分析。残留支持率は59%と、離脱支持率の41%を引き離した。16年の実際の投票では残留支持が48.1%、離脱支持が51.9%だった。
(出所)ロイター、2018年9月6日

本当に「民主主義」は重要問題に関して適切な意思決定を行えるのだろうか?

「民主主義の失敗」という事態は起こりえないのだろうか?

こんな問題提起がありうるのだが、社会科学内の「所管」を言うなら、これは政治学の問題だろう。

民主主義=多数決と割り切れば経済学の純粋理論の中に「アローの不可能性定理」が既にある。定理によれば、多数決に基づいて合理的な選択を一貫して続けることは不可能である。

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経済学では、上に述べたアローの不可能性定理の他にも、市場における完全競争が全ての商品の需給を均衡させる一般均衡価格が必ず存在するという「存在定理」、更には完全競争市場が社会的厚生を最大化するという「パレート最適」が証明済みである。そして、そのような市場経済が資源配分において失敗するとすれば、それはどのような場合か。「市場の失敗」についても理論的回答を既に与えている。また、時間的な経過の中で合理的意思決定を行う経済主体が、動学的な不合理性を犯すとすればそれは何故なのかという問題も既に解明済みである。

政治学が科学であるとすれば、政治の現状分析も重要だが、政治の純粋理論が土台になければならないはずだ。とすれば、民主主義による政治的意思決定は常にその社会にとって最適な意思決定でありうるのか?民主主義が失敗するとすれば、それはどのような性質の問題にとりくむときなのか?これらの事柄に関して、確立された定理が発見されていなければならない、と。そう思うのだ。

そもそも「民主主義」という言葉の学問的な概念定義は厳密になされているのだろうか?政治学の素人である小生にとっては当然の思いだ。

たとえばミルグロム・ロバーツの『組織の経済学』では、多数の経済主体による集計的意思決定過程ともいえる市場経済が失敗する場合があるとすれば、それは特定された分量の組み合わせである諸資源を特定地点に特定時点において集中投入することが求められる場合である。この種の課題には市場による資源配分ではなく上意下達の組織的解決、つまりは軍隊のような生産管理がより適切となる・・・。そんな議論が展開されている。

つまり解決しようとしている課題の性質に応じて、市場システムが適切な場合もあれば、上意下達の組織的管理システムが適切な場合もある。

たとえば、ある国との戦争を決意する場合、それは社会にとって窮極の重要事項であるはずだ。ということは、開戦の決意もまた民主主義によることになるが、そうなのだろうか?多数決で戦争を始めてもよいのだろうか?少数者にも配慮して、全員一致で初めて開戦できるのだろうか?

政治学はこんな問題にも理論的に回答するべきだろう。

アメリカが第2次世界大戦に参戦したのは日本による先制攻撃が契機になったのだが、それはルーズベルト大統領が開戦を決意し、上院において日本への宣戦布告を求める演説を行い、議会が大統領の決意を承認し、議会がその権限を行使して宣戦したからである。以後の具体的施策は米軍を含めた上意下達の行政システムに委ねた。『いまがその時である』という決断を民主的な多数決に求めるとしても、数理的な詳細を詰める以前に、直観的にそれは無理なことだと推測がつく。キャスティングボートを握る最後の一人に議決が委ねられるからだ。結果的にであるにせよ、一人の判断で重要事項が決まってしまうほどに非民主的な状態は考えられないだろう。

***

民主主義が本当に他の社会システムに優越しているのかという点については、このブログでも投稿したことがある。

民主主義に関する証明された基本定理はあるのだろうか?

民主主義が善いのは分かり切ったことだ、と。善いものは善いから善いのだ、と。ただそれだけの理由で日本は民主主義国になっているのであれば、ただそう信じているだけのことである。目の前の現実にいつでも惑わされる。株価の乱高下に一喜一憂する素人のようなものだ。旧世代の「根拠なき信念」に疑いをもつ新世代が育って来れば、いつでも世の中の「時代の流れ」は逆転する。そんな可能性もある。

民主主義による意思決定が望ましい課題と失敗する場合があるはずだ。それは政治学の使命だろう。

宇宙人がいるとして友好関係を築くべきでしょうか?
宇宙人の存在は分かりませんが、いずれにしても民主主義で決める必要がありますヨネ

民主主義の高い理念も使いようによっては漫才に堕してしまうのだ。


2018年11月15日木曜日

一言メモ: 北方領土のこと

安倍‐プーチン会談では1856年の日ソ共同宣言の主旨を踏まえながら領土問題解決について議論を「加速」させようという話になったようだ。これは結構ビッグニュースであるから、TVでも「専門家」を呼んで突つき始めている。

そこで『北方領土をめぐるこれまでの歴史を簡単に振り返っておきましょう』ということになる。大変若い、まだ20代だろうか、都会風の好青年のアナウンサーが太平洋戦争後の経緯を要約したりする。

ただ、おそらく北海道とは縁がなさそうだネエ・・・親戚もほとんど首都圏か、関西圏か、まあ内地の大都市圏に暮らしている、そんな人なのじゃないかなあ。そもそも「北方領土問題」ってどんな問題だったか知ってた?・・・そんな風に感じながら画面を観ていたりする。

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聴いていると
太平洋戦争後(=昭和20年8月15日以後)の混乱に乗じて、ソ連が<不当にも>占領したまま、今日に至っています。国後島、択捉島、歯舞・色丹群島はいずれも日本固有の領土なんですね(投稿者追加:ポツダム宣言においては「本州、北海道、九州及び四国、ならびに我々(=連合軍)の決定する諸小島」の主権(=領有権)は担保されていた)。なので、まず領土返還のあと平和条約を結ぶというのがこれまでの日本の方針でした・・・
そんな解説である。

ここではソ連軍参戦後の千島列島侵攻作戦については詳細を省く(Wikipediaに詳しい)。

当然のことながら、ロシア側からみた北方領土問題、更にはロシアにとっての第2次世界大戦の「歴史的」位置づけなどは、日本国内のTV報道ではまったく考慮の外におかれている ― 日本国内で放送用周波数帯域を割り当てられている以上、日本政府が採用している公式の見解と矛盾する放送をするには極めてハイレベルの見識が要る。

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思うのだが、韓国、中国においても戦後日本と全く相似した国情というのがあるに違いないのだな。
19世紀末から20世紀初めの混乱した東アジア情勢を己が好機として日本は<不当にも>朝鮮半島を併合した。太平洋戦争後にその領有権は国際的に否定され、アジアは解放されたが、今日に至るまで日本はまだなお併合自体は合法的なものであったと主張している・・・
国際的なリーガリティの観点からいくら問題がないとしても、併合された朝鮮半島側は納得はしていないのだろう。不当だと思えばそう思った側にとってはいつでも不当である。いくら連合軍側の密約があり、降伏調印日より以前の既成事実であったとしても、国後島や択捉島の領有権は日本にあると日本人は思うはずだ。その領有権は幕府がロシアと結んだ日露和親条約にまで遡ることを知れば、北方領土は日本固有の領土だと日本人は考える。しかし、日本人ならそう主張したいと同じように、ロシア人の方もまた主張したいこともあるわけである。「外交交渉」では相手の話すことも聴いて理解する必要がある。外交は内政の延長だが、相手にとっても外交は内政の延長である。

上の北方領土もそうだが、これがすべての「歴史問題」の核である。特に戦争や占領は現状変更の最たる行為だが、変えられた現状を当事国がどう理解するかで未解決のまま残る事は多い。特に戦争は、当事国が互いに相手国を「不当」だと考える怒りや脅威、恐怖から始まる。故に、勝った側が負けた側に新たな現状を押し付けても根本的原因が消えてなくなるわけではない。

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亡くなった父も話していたが『戦争に負けて日本は領土を獲られた、戦争とはそういうもの』なのだ。小生も同感だ。日本が他国から領土を獲って喜んだ時代があった以上、とられて諦める時代もある。歴史はそんな風に歴史になるものだろう。国が丸ごとなくなっていないのは敗れた側にしては幸運だったのだ ― この点こそ旧世代の英知だったのかもしれないが。

外交交渉や法的関係においては複雑極まりない議論の積み重ねがある場合でも、認めるべき事実そのものは実に単純明解であることは世の中に多い。「戦いに負けて土地を獲られた」という現実がある。その他の現実はない。

つまり「現状」をどう理解するかに帰着するのであって、この点で「合意」に至れば「平和」が戻る。

今日は、まあ、この辺でいいか。


2018年11月11日日曜日

井戸端会議:旭日旗やら、東京医大やら

今週は金曜日に授業があった。今年度から非常勤になって楽になるはずと思いきや、日ごろのサボリ癖がついてしまうと、これまで以上に授業で疲労する。

ずっと以前は、昼まで近くのスキー場で一滑りして、午後イチで学部の統計学を講義して、引き続きゼミ。それが終わって研究室に戻り、静かな一日が戻ったところで研究を続ける・・・。平気だったけどネエ。週末には例外なく家族で遠出をして、一日ドライブをしていたものだった。

というわけで、今朝も朝食をとりながらカミさんと井戸端会議をした。

***

小生: それにしても東京医大の件ももめるネエ、うん?101人に意向調査をして、入学を認めるのは63人。何だかよく分からない方式だねえ。入れなかった人には、スイマセンってことになるのかな?

カミさん: 東京医大って私立なんでしょ?

小生: そうだよ。私立御三家(慶応、日医大、慈恵会医大)とは別にネ、戦前からあった老舗〇大学というのがあるんだよ。東京医大と、東邦かな、それから・・・

カミさん: 東京女子医大というのもなかった?よくタレントさんが入院するじゃない?

小生: そうそう、それも入っていると思うよ。ちょっと待って。いま調べるから・・・「医学部」で検索してト・・「旧6医専」。あっ、これは国立か。私立はト、戦後にGHQからA級判定された医学専門学校だから・・・まず岩手医大、それから東邦大学。これは戦前の帝国女子医専だね。おふくろが行きたいって思っていたところだよ。それと順天堂、昭和、東京医大、東京女子医大、大阪医大、関西医大。ここも戦前は女子医専だね。それから久留米。これだけが私立だね。

カミさん: それにしても入学してもいいよって言われる人、入学するのかなあ?

小生: 土台、101人が救済対象者だと言っておきながら、63名までは認めます。定員がありますからって言うのは、理屈の通らない話さ。

カミさん: 全員は入れないのかな?

小生: 全員は無理だろ?教員の数や教室、実習室の数は変わらないんだから、あぶれちまうよ。もし僕だったら、これは慰謝料ですますね。そもそも誰を合格とするかは、私立大学の裁量にまかせるべきだよ。だからこそ医師国家試験もある。ただ、今回のケースは、募集要項に記載していなかった方式でこっそり、闇でやっていた合否判断だからね。アンフェアと言われても仕方がない。ただ、いまからその合否判断を覆して「大学に入れろ」と言われて、「分かりました入れます」、というのは無理な話しだと思うよ、現実的には。まあ、ざっと示談金50万円か・・・それで合計5050万円。1年間の予備校代にはなるんじゃないかなあ・・・世間の評判は悪いと思うけど、お金で納得してもらうしか仕方がないのじゃないか。そう思うんだよね。だって101名とは別の人がもう入ってるんだから。「出ていけ」とは言えないだろ。才能と入試の得点は正比例するものでもないしネ。大体、出来る人なら何校か医学部を受験した中で他に合格しているよね?結果的には、それが良かったと言えるかもしれないしネ、「不正」のあった東京医大を含めて全部落ちていた人なら、たとえ東京医大に入っていても留年したかもしれないし、国家試験にうからないかもしれないし、将来の逸失利益なんて計算不能だよ。僕はそう思うけどネエ・・・

カミさん: でもあなたの言うようにはしなかったよね。

小生: まあ、評判悪くなるからねえ、カネで済ませるのかってね。でも大人数を入学させて、劣悪な医学部教育をその学年だけ押し付けるよりは、よほど現実的な解決策だと思うよ。

***

小生: ん? 徴用工ももめてるし、かと思うと韓国でマスカットを無断で栽培か・・・また紛糾しそうだねえ。

カミさん: この夏には、自衛隊の旭日旗も何だかもめていたわねえ。

小生: マスカットもさ、経緯はなにも報道してないけど、種(挿し木その他もありうるが、ここではタネということで割り切っておく)を分けてくれとかさ、色々あったんじゃないの?向こうが頼んできても『これは当地の特産品ですからお分けはできません』ってさ、断ってきたから、じゃあ無断でとってくるかと。それを「盗んだ」とこちらがいえば、「泥棒呼ばわりするとは無礼な!」って、そうなるさね。

カミさん: でも許可なく取っていったんなら、盗んだことになるんじゃない。

小生: 簡単に盗まれる状態にしていた側にも責任はあるさ。大体、種が手に入ったからって、それだけで簡単にコピーされる品種なんて、大した価値はないよ。育成技術、栽培技術が核心なんじゃないの?技術はなかなか真似できないよ。だけど、これで友好関係はもうありえないなあ、度量を広く持って「おわけしましょう、技術指導もしましょう」って言っておけばさ、それこそ『情けは味方、仇は敵なり』を地でいく例になっていたんだけどね。

カミさん: それにしても韓国の「反日」も限界がないわね。

小生: 外交は内政の延長って言葉があってね。韓国の反日は、韓国の国内政治の延長なんだよ。日本人は、韓国が反日的なことを言うと「その反日主義が怪しからん」ってね、すぐに主義や理念の話にもっていくけど、「それがどうして得になると向こうは考えるのか」という方向で分析しないとダメさ。大体、理念とか、主義とかさ、どうでもいいって言うとアレだけどさ、実際の政治では意味ないだろ?

カミさん: そうなの?

小生: 大体、僕たちが普通の生活をしているのだって、いつも損得を考えてるだろ?韓国が旭日旗を掲げた海上自衛隊の軍艦を嫌がるのは、旭日旗を掲げた日本軍艦の入港が脅威に感じる人たちがいるからだよ。脅威に感じるということは、立場が危ういことを意味するよね。つまり、旭日旗に影響されてしまう韓国人の一部が怖いってことさ。

カミさん: そうなのかなあ?

小生: 大体、旭日旗が本来的に許されない旗であれば、戦後になって海上自衛隊の軍艦旗のデザインを決めるときにアメリカが認めるはずがないさ。アメリカは旭日旗をみても平気だ。平気というより、自分たちが完膚なきまでに叩いた敵国の旗だから、「また使うの?」くらいの気持ちだろうね。旭日旗に苦しんだ中国だって「使うな」なんて言ってないだろ?言ってるのは韓国だ。要するに、旭日旗を眼前で使われると恐怖を感じる階層が韓国ではいま支配的地位に多いってことさ。まあ、戦後の歴史をみれば、当たり前の事だね。朝鮮半島は、1910年の併合で一度ひっくり返って、戦後にまたひっくり返ったからネ。まあ、ちょっと入ってみると、複雑なんだよ。

カミさん: なんだかねじ曲がってるよ、その見方!

***

井戸端会議も文章に書き直すと、なかなか水準の高いことを話していたんだなあ、と。そんな気持ちになることも多い。

2018年11月8日木曜日

一言メモ: 一貫した「自己責任論」とは?

内戦の続くシリアに入り3年余りの軟禁を経てこのたび解放され帰国したフリージャーナリスト・安田純平氏に対しては、激しい毀誉褒貶があるようで、特に「自己責任ではないか」という非難は多く見受けられる。

拘束されたこと自体は「(誰のせいでもなく自分のせいであり)自己責任です」とご本人が認めている。結果として、どこかが身代金を負担したからには、日本社会がその金額に相応するコストを負担することになるので、今回のことで社会に迷惑をかけたことは間違いない。この点についても、既にご本人は謝罪し、関係者には感謝の意を表している。

それでも「政府が入国しないように」と注意を促している「危険な国」に入るからには、何があっても自己責任だろうと厳しく指摘する人はまだなお多い。

★ ★ ★

英語に"Monday Quarterback"という表現がある。要するに、試合が終わってからプレー中のエラーを色々と批評しては、敗因をつくった選手を非難する人たちのことをいう。簡単に言えば「結果論を言うな」という意味合いだ。

「結果論」という言葉を使ったのは、<仮に>安田純平氏が予定通りの取材を終えて、無事日本に帰国していれば、大手マスメディアは勇敢なジャーナリストとして安田氏を称え、持ち帰った現地レポートを争うように高値で買っていたに違いないという事だ。その「高値」は、情報自体が稀少であるからであり、何より取材したフリージャーナリスト本人が自ら負担したリスクへのプレミアムが加算されるからだ。

本来なら、インドへの西回り航路を開拓しようと出帆したコロンブスをスペインのイサベラ女王が支援したように、冒険的ビジネスは事前にリスクプレミアムに見合う報酬が払われるか、約束され、それと同時に失敗した時には落命の不運をも甘んじて受ける。そんな合理的枠組みがなければならない。安田氏は、冒険的フリージャーナリストであるが、取材に伴うコストは(原則としては)個人が先行負担していたのだと想像する。まるでカネを借りて金鉱を掘り当てるようなものだ・・・いやいや、シリア情報はゴールドラッシュとは違う。強欲ではなく、人類愛が発端にはなっているに違いない。

つまり、意図としては日本社会も(国際社会も)望んでいる情報、報道価値のある情報を取材するために、危険を冒して行動したということである。そもそも価値が認められないことに対して命を賭ける愚か者はいないわけである。そして、「報道価値」というものは、国を問わずヒューマンな価値であり、普遍的に評価されると言ってよいだろう。だから、日本人でなくとも、色々な国籍のジャーナリストが生命の危険をおかして入り、不運な人は犠牲になったりする。

問題は失敗して結果を出せずに終わった冒険的ビジネスマンを、何度も失敗したコロンブスを支援し続けたイサベラ女王のように、自国の社会が支援するかどうかである。支援しなければ、アドベンチャーはどこかで失敗して終わる運命にある。それでもいいと考える社会もあるだろうし、15世紀のスペインのような国もあるだろう。土台、危険を顧みない冒険的山師というのは、いかがわしく、面の皮が厚く、鈍感で、常識は持ち合わせていない人が多いものだ。それでも、危険なプランは魅力的であることが多い。

結果として、貴重な現地レポートを持ち帰ったフリー・ジャーナリストに対して、それでもなお『政府が入国を控えるように注意を促していたにもかかわらず、危険を冒して入国し、今回の現地レポートを高額な金銭で販売している。これは一種のギャンブルであり、日本社会としては容認できないルール違反だ!!』と強く非難できる人は、まさに「本物」である。

しかし、ここまで強く言える人は日本には少ないだろう。何故なら、シリア国内のリアルな情報が喉から手が出るほどに欲しい。そう願っている人、会社、公的機関が日本には多いからだ。インドへの西回り航路が本当にあれば助かると思っていた人は15世紀のスペインに多かった。発見できれば大きな価値となった。故に、コロンブスは冒険をした。繰り返すが、何の見返りもない無意味な冒険をする人はいない。人間は誰しも集団生活をしている以上、誰かが危ない行為をすれば、何らかの社会的関連性をもっているものなのだ。そこを見ない人は不誠実だろう。
成功すれば皆さんのお陰、失敗したら自己責任
これは流石に虫のいい話だと笑う人は多かろう。そのおかしな話を安田氏は(多分)それでいいというはずだ(後半部分は既にハッキリそうだと言っている)。

★ ★ ★

上で「本物」といったのは、いかにハイレベルの目的があろうとも、「政府が危険である」と注意をした国には絶対に渡航するべきではないという一貫した理屈になるという意味だ。ということは、政府職員もまた(本当は)滞在するべきではない、少なくとも人命のリスクを冒しても職員を彼地に派遣するべきではないという結論にはならないのだろうか? おそらく、(本当は)なるのだろう、現代日本社会では。

「一定の度合いを超えた危険は全て回避するべきだ」という命題を一般通則にしてもよいのだが、そうすると戦闘に巻き込まれるリスクは回避できるが、いよいよ日本の国土が危なくなってきたときに、公務員(=自衛官、警察官等々)は人命リスクを負担して職務にあたる義務がある、しかし一般人はいかなる目的があろうと、危険からは身を避けるべきである、と。そんな風な話になるのではないか?というより、これが現代日本社会の合意であるような気がしているのだが、だとすればどこかが奇妙なモラルであると思う。

そう簡単な話にはならないのではないか?

所詮、リスクとはコスト概念に含まれるものであり、ベネフィットとの数量的バランスの下で、そのリスクを負担するかしないかを判断する、というのが基本的なロジックである。大きなリスクは全て避けるべきであるというロジックは成り立たない。

人命リスクのある公務につく公務員の存在に現代日本人が異和感をもたないのは、大きなリスクの裏側に公益という大きなベネフィットがあるためだ。であれば、巨大な私益が期待できる場合には、巨大なリスクを引き受ける人がいても、それは合理的な行動と言えるだろう。そして、巨大な私益はそのまま国益だと考えてもよいのだと小生は考える。この点を考慮する人が多いか少ないかによって、その国の社会的雰囲気は大いに異なるだろう。

標題の「自己責任論」からは脱線してしまったが、要するに冒険的ビジネスに身を投じる人を社会がどこまで支えるかであり、これには正解はない。社会的選択の問題だ。

***

最後に一つだけ加筆したくなったのだが、いま使われている「自己責任」という言葉。アサド政権と反政府派との内戦に苦しむシリアという国のことだ。確かに、シリアから逃げ出すこともせず国内に留まっている人たちは気の毒だ。が、もしここで真の「自己責任論者」がいれば、『シリアは気の毒だけど、所詮はシリア人たちの自己責任なんじゃない?』と他人事として言い放つのではないだろうか?

ということは、危険を冒してシリアに行って取材しようとした安田氏は、その行動を見るだけでも100パーセントの自己責任論者ではないような気がするのだ。別のモチベーションが働く人物なのだろう。安田氏は、自分自身に関連するところで、自己責任という言葉を使っている。その逆のケース、つまり他人には自己責任を言いながらも、自分の事になると社会的責任という言葉を使う輩もいる。そんな人物に比べれば、安田氏の方がまだしも品格のある「紳士」ではないか、と。そんな印象も小生は持っている。

2018年11月3日土曜日

電力問題: 「日本的政治風土」イコール「ご都合主義」の一例

日本人は韓国流の政治をよく「情緒主義」であると言って批判する。もし韓流政治が情緒主義であるとするなら、日本的政治は「ご都合主義」だろう。つまり「自らに都合の悪いデータを都合がいいように隠蔽する」という意味合いである。情緒にはまだ人間の実存というものが含まれる。それがいかに夢想的で、客観的なデータを無視するものだとしてもだ。そこには一部でも共感可能な感情がある。しかし「日本的ご都合主義」はデータを無視するのではなく、隠蔽するのである。「頭がいい」という向きもあるかもしれないが、小生にはこちらのほうが陰湿であり、決して人好きのするものではない、と。そう感じられる。

★ ★ ★

2、3日前の北海道新聞だったか、9月のブラックアウトの原因は「京極の水力発電所が稼働していなかった」ことにあった、と。北海道電力の副社長がそう語ったという記事が載っていた。引用するとこんな記事だ:

苫東厚真3基が停止しただけでは全域停電はおきなかった。京極発電所が結果として動いていればよかった。

(出所)北海道新聞、2018年11月2日

副社長がこう語った由。

技術的検証委員会でもそんな見解をとっているとも述べられていた。
10月23日にまとめた中間報告で、京極水力発電所が稼働していれば、防げた可能性が高いと指摘。
とある。

(出所)上と同じ。

京極発電所(1,2号機総出力40万KW)が稼働していなかったのは定期点検中だったためだ。

★ ★ ★

電力需給の供給側の数字は保有発電能力ではなく、定期点検による遊休化を織り込んだ平常時稼働率を前提とするべきだ。

また今年の厳冬期を乗り切るうえで十分な発電能力が確保されたとしているが、それは石狩に新設中で来春に運用開始予定のLNG発電所の試運転を供給側の数字に加えている点が大きい。

試運転は、安全管理のために行うものであるから、それを電力供給量に上乗せするのはデータ・クッキング、というか電力データの隠蔽に極めて近い行為だ。

★ ★ ★

アメリカを相手に太平洋戦争開戦を日本が決断する根拠として物資動員計画という数字の裏付けがあった。

しかし、その数字は極めて楽観的な輸送船損耗率の大前提があってのものだった。

実際には、米海軍の潜水艦によって想定を上回る隻数の輸送船が撃沈され、特に南方最前線では補給が困難になり、飢餓、病気による死者が膨大な数に上った。こんな惨状は、近代化された軍隊同士が戦った戦争では見られなかった。

日本人は、一度決めた方針を変更することを非常に嫌う傾向がずっとある。それは時に「信念」となり長所として働くことがある。特に、研究者や芸術家など個人として活動する分野では長所として作用することが多いのだろう。しかし、同じ傾向が組織の中で働くと、方針変更を促すデータが数字に現れても、その事実を認めることを嫌い、都合の良い数字に作り替える意志として働くことが多い。

データを頭から無視する夢想家ではない。日本人は、本質はリアリストである、と。小生は感じることが多い。しかし、人間集団が組織となるに伴って、どういうメカニズムかは詳細に調べたことはないが、データ分析が従属的な位置に置かれ始め、大事な真相が隠蔽され、問題解決への道を自らふさいでしまう・・・。そんな国民性がいまなお認められる。

このプロセスでいわゆる「忖度」が働いているのであれば、面白い研究テーマを提供するだろう。

日本人の国民性は、戦争以来、いや明治維新以来、というか幕末、歴史全体を通してずっと変わってはいない。同じである。そう思うようになった。



2018年11月2日金曜日

これは「丁寧」ではなく「バカ丁寧」だ

上の愚息は小生と同じ市内で、「地道に」といえば聞こえはいいが、あまり収入にならない雇用形態の下で独立して生計を営んでいる。マア、合格ではあるのだが、物足りないのも事実だ。

その上の愚息が勧誘(?)されたというのでNHKの放送受信料を払うつもりになった。それで、金融機関からの自動振込みと併せて所定の用紙に記入して郵送したのである。すると、新しい用紙とともに返送されてきたというのだ、な。

小生はそれを見ていないのだが、カミさんによると、金融機関に回付する自動振り込み申請欄で、支店名を「奥沢口」と書くところを、奥の字を書き損じてしまい、二重線で消し、その上にハッキリと「奥」と書き直したところ、修正印が押されていないという理由で差し戻しになったらしいのだ。

きけば、書き損じたという「奥」の字は、みれば「奥」と読めるという。ただ、正しい字体にはなっていないので、清書の意味をこめて二重線で消して、奥の字を書いたという。

それが金融機関の手続きではねられたのだろうと、そうカミさんは推測しているのだ。

★ ★ ★

小生、思わず絶句したのだ、な。

確かに記載事項を修正するときは、申請者本人が修正印を押して、本人が修正したことを証明(になるかどうかは微妙だが)しておく規定になっているのだろう。

しかし、汚く書いた「奥」の字のうえに綺麗に「奥」と書き足した個所が「修正」に該当するかは、愚息にはまったく想定外であったらしい。

というか、その用紙をみた銀行の担当者は、「奥」の字の上にもう一度「奥」の字が書かれているのが分かるわけであるし、支店名を間違って記載したり、書き直したわけではないことは、自明である。

★ ★ ★

明らかな事であるにもかかわらず、規定上は修正印がいるからという理由で、わざわざコストと時間をかけて、返送し、もう一度提出してもらう。

「丁寧」といえば、通りはよいが、これでは「バカ丁寧」だと指摘されても不思議ではない。不効率であり、無駄である。担当者に何の裁量も与えられていないのだろうが、そんな機械的作業を人間にさせているのも人出不足の時代に大変な不効率である。

この間、何の価値も生産されていない。丁寧に物事を進めれば間違いは予防できる。しかし、間違いがないことが明らかな状況で、なおかつ間違いをなくそうとするのは無駄である。銀行の一人相撲につきあわされたようである。

こんな非効率を残しているから日本の金融機関は今一つ成長せず、株価もさえないままなのだ。そう感じた今日のことであった。