2018年11月8日木曜日

一言メモ: 一貫した「自己責任論」とは?

内戦の続くシリアに入り3年余りの軟禁を経てこのたび解放され帰国したフリージャーナリスト・安田純平氏に対しては、激しい毀誉褒貶があるようで、特に「自己責任ではないか」という非難は多く見受けられる。

拘束されたこと自体は「(誰のせいでもなく自分のせいであり)自己責任です」とご本人が認めている。結果として、どこかが身代金を負担したからには、日本社会がその金額に相応するコストを負担することになるので、今回のことで社会に迷惑をかけたことは間違いない。この点についても、既にご本人は謝罪し、関係者には感謝の意を表している。

それでも「政府が入国しないように」と注意を促している「危険な国」に入るからには、何があっても自己責任だろうと厳しく指摘する人はまだなお多い。

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英語に"Monday Quarterback"という表現がある。要するに、試合が終わってからプレー中のエラーを色々と批評しては、敗因をつくった選手を非難する人たちのことをいう。簡単に言えば「結果論を言うな」という意味合いだ。

「結果論」という言葉を使ったのは、<仮に>安田純平氏が予定通りの取材を終えて、無事日本に帰国していれば、大手マスメディアは勇敢なジャーナリストとして安田氏を称え、持ち帰った現地レポートを争うように高値で買っていたに違いないという事だ。その「高値」は、情報自体が稀少であるからであり、何より取材したフリージャーナリスト本人が自ら負担したリスクへのプレミアムが加算されるからだ。

本来なら、インドへの西回り航路を開拓しようと出帆したコロンブスをスペインのイサベラ女王が支援したように、冒険的ビジネスは事前にリスクプレミアムに見合う報酬が払われるか、約束され、それと同時に失敗した時には落命の不運をも甘んじて受ける。そんな合理的枠組みがなければならない。安田氏は、冒険的フリージャーナリストであるが、取材に伴うコストは(原則としては)個人が先行負担していたのだと想像する。まるでカネを借りて金鉱を掘り当てるようなものだ・・・いやいや、シリア情報はゴールドラッシュとは違う。強欲ではなく、人類愛が発端にはなっているに違いない。

つまり、意図としては日本社会も(国際社会も)望んでいる情報、報道価値のある情報を取材するために、危険を冒して行動したということである。そもそも価値が認められないことに対して命を賭ける愚か者はいないわけである。そして、「報道価値」というものは、国を問わずヒューマンな価値であり、普遍的に評価されると言ってよいだろう。だから、日本人でなくとも、色々な国籍のジャーナリストが生命の危険をおかして入り、不運な人は犠牲になったりする。

問題は失敗して結果を出せずに終わった冒険的ビジネスマンを、何度も失敗したコロンブスを支援し続けたイサベラ女王のように、自国の社会が支援するかどうかである。支援しなければ、アドベンチャーはどこかで失敗して終わる運命にある。それでもいいと考える社会もあるだろうし、15世紀のスペインのような国もあるだろう。土台、危険を顧みない冒険的山師というのは、いかがわしく、面の皮が厚く、鈍感で、常識は持ち合わせていない人が多いものだ。それでも、危険なプランは魅力的であることが多い。

結果として、貴重な現地レポートを持ち帰ったフリー・ジャーナリストに対して、それでもなお『政府が入国を控えるように注意を促していたにもかかわらず、危険を冒して入国し、今回の現地レポートを高額な金銭で販売している。これは一種のギャンブルであり、日本社会としては容認できないルール違反だ!!』と強く非難できる人は、まさに「本物」である。

しかし、ここまで強く言える人は日本には少ないだろう。何故なら、シリア国内のリアルな情報が喉から手が出るほどに欲しい。そう願っている人、会社、公的機関が日本には多いからだ。インドへの西回り航路が本当にあれば助かると思っていた人は15世紀のスペインに多かった。発見できれば大きな価値となった。故に、コロンブスは冒険をした。繰り返すが、何の見返りもない無意味な冒険をする人はいない。人間は誰しも集団生活をしている以上、誰かが危ない行為をすれば、何らかの社会的関連性をもっているものなのだ。そこを見ない人は不誠実だろう。
成功すれば皆さんのお陰、失敗したら自己責任
これは流石に虫のいい話だと笑う人は多かろう。そのおかしな話を安田氏は(多分)それでいいというはずだ(後半部分は既にハッキリそうだと言っている)。

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上で「本物」といったのは、いかにハイレベルの目的があろうとも、「政府が危険である」と注意をした国には絶対に渡航するべきではないという一貫した理屈になるという意味だ。ということは、政府職員もまた(本当は)滞在するべきではない、少なくとも人命のリスクを冒しても職員を彼地に派遣するべきではないという結論にはならないのだろうか? おそらく、(本当は)なるのだろう、現代日本社会では。

「一定の度合いを超えた危険は全て回避するべきだ」という命題を一般通則にしてもよいのだが、そうすると戦闘に巻き込まれるリスクは回避できるが、いよいよ日本の国土が危なくなってきたときに、公務員(=自衛官、警察官等々)は人命リスクを負担して職務にあたる義務がある、しかし一般人はいかなる目的があろうと、危険からは身を避けるべきである、と。そんな風な話になるのではないか?というより、これが現代日本社会の合意であるような気がしているのだが、だとすればどこかが奇妙なモラルであると思う。

そう簡単な話にはならないのではないか?

所詮、リスクとはコスト概念に含まれるものであり、ベネフィットとの数量的バランスの下で、そのリスクを負担するかしないかを判断する、というのが基本的なロジックである。大きなリスクは全て避けるべきであるというロジックは成り立たない。

人命リスクのある公務につく公務員の存在に現代日本人が異和感をもたないのは、大きなリスクの裏側に公益という大きなベネフィットがあるためだ。であれば、巨大な私益が期待できる場合には、巨大なリスクを引き受ける人がいても、それは合理的な行動と言えるだろう。そして、巨大な私益はそのまま国益だと考えてもよいのだと小生は考える。この点を考慮する人が多いか少ないかによって、その国の社会的雰囲気は大いに異なるだろう。

標題の「自己責任論」からは脱線してしまったが、要するに冒険的ビジネスに身を投じる人を社会がどこまで支えるかであり、これには正解はない。社会的選択の問題だ。

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最後に一つだけ加筆したくなったのだが、いま使われている「自己責任」という言葉。アサド政権と反政府派との内戦に苦しむシリアという国のことだ。確かに、シリアから逃げ出すこともせず国内に留まっている人たちは気の毒だ。が、もしここで真の「自己責任論者」がいれば、『シリアは気の毒だけど、所詮はシリア人たちの自己責任なんじゃない?』と他人事として言い放つのではないだろうか?

ということは、危険を冒してシリアに行って取材しようとした安田氏は、その行動を見るだけでも100パーセントの自己責任論者ではないような気がするのだ。別のモチベーションが働く人物なのだろう。安田氏は、自分自身に関連するところで、自己責任という言葉を使っている。その逆のケース、つまり他人には自己責任を言いながらも、自分の事になると社会的責任という言葉を使う輩もいる。そんな人物に比べれば、安田氏の方がまだしも品格のある「紳士」ではないか、と。そんな印象も小生は持っている。

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