2018年11月24日土曜日

随想: <天才>についてまた思う事

本ブログでも何度も書いているように、小生が大変好きで、よく使っている言葉は
秀才はなしうる事を為すが、天才はなすべき事を為す
「なすべき事」とは、現に生きている国なり、社会なりが直面している課題を解決して、新たな時代に進むことである。

こう考えると、小生がこれまで生きてきた中で、文字通りの「天才」にお目にかかったことは、一人もいない。

何も「物足りない」とか、人物のレベルが低かったとか、そのような事を言おうとしているわけではない。むしろその方が有難いと思う位だ。

自分にも理解可能な人というのは、何より安心できる、というものだ。

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経済学界というか統計畑でメシを食ってきたが、小生が仕事をしてきた畑には、天才は一人もいないのではないか、と。そう感じる。日本国内を振り返ってみても、「あの人は天才である/だった」と思う人はいないと思う。戦前・戦後を通して、どの人も、才能の範囲で、最も聡明に自分にとって解決可能な問題を選択して業績を重ねた人のように思われるのだ。

国を問わず、時代を遡ってみても、経済学の分野でただ一人だけ「天才」という表現をしてもよいとすれば、ケインズしか思いつかない。

小生が昔学んだ大学では、ちょうど一般均衡型計量モデルを研究グループを挙げて共同開発しつつあったさ中であったためか、ケインズ流マクロ経済理論には極めて冷淡だったことを記憶している。専門家であればあるほど、経済学者としてのケインズに批判的な人は相当数いたことが想像される。後の時代の視点から前の時代の人を批判するというキライがあったのだが・・・。ではあるが、曲がりにも当時直面した経済問題に対する解答を提供し、学問的パラダイムを変え、その行動が後世の新たな学問的発展の契機となり、政府の経済政策の在り方までを変えたという点では、やはりケインズは真の天才だったと言わざるを得ないと思っている。

他にはいない。ケインズしか思い付かない、「天才」という名を与えうる経済学者は。つまり、経済学の世界で活躍した人々は、その学問的水準において、超秀才、大秀才、秀才の名に値する人たちであった、と。そう感じるのだな、どの人も。

統計畑では、これはロナルド・フィッシャーの決め打ちでもよいのではないか。

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「天才的将軍」という概念は世間では明確である。戦術、戦略の革新を断行し、世界を変えるという事例は、年表の中から特定しやすいのだ。

それに比べると「天才的政治家」というのは存在するはずなのだが、輪郭が曖昧である。マックス・ウェーバーが言ったように、政治家とは固い岩盤に鑿を何年も打ち続けても決してヘコタレルことのない性格でなければならない職業である。つまり、天才的将軍が短期的に颯爽として栄光に包まれるのに対して、天才的政治家は何年もかけて上り坂をゆっくりと上っていく、そんな姿になる。

天才的政治家は天才であるとしても、まったく天才的な印象を与えない。なので、事後的に「あの人は天才的な政治家であった」と振り返って、はじめて天才であった事実がわかる。それが天才的政治家だろう、もしいればの話だが。

天才的政治家は、その時には周囲からそうは見られないはずなのだが、誰もが回避する時代の問題を見事に解決し、新しい時代をもたらすという点では他の分野における天才たちと同じである。まあ、その「新しい時代」が魅力ある時代であるかどうかは、人による。ともかくも、直面していた難問に対する一つの合理的解決策を提示したということである。その一つの解決をきっかけにして、歴史が前向きに歩み始めるのである。

つまり、天才的政治家は歴史家によって発掘される対象である。

が、日本の近現代史を通して、というか日本の全歴史を通して、天才的政治家の名に値する人はほとんど特定されていない。

まあ、世俗的にして歴史小説のレベルから名を挙げるとすれば、せいぜいが織田信長と豊臣秀吉くらいだろう。この二人にしても、本当に時代を超越した革新的政策を断行した人物であったのか、最近になって様々な批判が加えられているようだ。歴史の古層に忘れられた天才的政治家が日本にもいるのかもしれない。政治の分野でも100年か200年に一人くらいは日本にも政治的天才が登場していたのだと思われる。他に多くの「天才的政治家」をもっと発掘し、いかなる点において「天才」」であったのか、どのような難問を解決し、時代を進展させていったのか。この辺りを国民向けに解説してほしいものである。

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