<民主主義不可欠仮説>に立てば、これから中国は変わる、という予想になる。しかし、中国については
呉邦国全人代委員長は、共産党一党独裁が揺らげば内乱の可能性もあるとして「政権交代のある多党制や三権分立、二院制は導入しない」と言い切った。という紹介もある。本日の日経朝刊に掲載された「西洋の没落、東洋の復権?」(土谷英夫)である。東洋の復権とは以下の下りにあるように欧米の専門家では相当程度まで通念というか合意事項になりつつあるようだ。
ADBは先月、2050年を見通した「アジアの世紀」シナリオを公表した。アジアの勢いが続けば、1人当たり所得は今の欧州並みに、世界総生産に占めるシェアは5割を超え、産業革命以前の地位に復帰するという。(グラフ参照)
イアン・モリス米スタンフォード大学教授は、昨年出版した『Why the West Rules――For Now(西洋が支配してきた理由)』で、歴史をさかのぼり西洋と東洋のどちらが進んでいたかの判定を試みている。アジア人の小生にとっても、そしておそらくは日本語で書かれている本ブログを現に目にする皆さんにとっても、このこと自体はそれ程不愉快な予想ではないはずだ。とはいえ、元の状態に戻るだけのこと、そう言ってもいいわけで、別に奇跡的な激変が起こると言っているわけではない。それに小生が生きているうちに、そんな復権の時代は来ないと思う。
エネルギー消費、都市化度、情報技術、軍事力の4項目から成る社会開発指数で比べると、まず「西」が先行し、ローマ帝国盛期の西暦100年ごろに最初のピークをつけた。
中国が中心の「東」が初めて西を抜くのは6世紀半ば。宋の盛期にあたる1100年ごろがピークで、指数で西を4割方上回った。
1200年ほど続いた東の優位が覆されるのは18世紀後半。西が産業革命(エネルギー革命)で東を突き放し、今日にいたる「西洋支配」の時代になった。
そのシーソーが、また戻ろうとしている。
世界総生産に占める中国の国内総生産の比率は歴史統計学の所管だが、清王朝の乾隆帝時代(18世紀)に一つのピークを迎え、その時代、中国は一国で世界の生産の3分の1程度を占めていたという記憶がある - 数字が間違っていたら申し訳ありません。上図をみると、18世紀にアジア全体で50%を超えている。これにはインドが入っているのだろう。ま、これまでの理解とそれ程は違っていない。
民主主義不可欠仮説は、近代産業革命が成功した西洋と東洋の逆転劇から帰納された結論でもあろうが、理論的に人間行動を考えても、私有財産制と自由な起業を認める民主主義制度なくして、技術革新を長期的に持続的に推し進めていけるのか?私的利益の追求、幸福の追求を許容して、自由に参入する権利を認めておかないと発展は無理だろう。そう考えられるというのが、民主主義不可欠仮説の根拠であろう。
しかし、どうなのだろうなあ?ローマ帝国は共和制から帝政になってから大いに発展して生活水準も向上したそうだ。それでも3世紀までは元首政であって、世襲による絶対君主制ではなかった。しかし社会が混乱し、それをディオクレティアヌスやコンスタンティヌスが独裁制、言い換えると真実の意味における皇帝による政治体制に変革したのだった。それで社会はある程度安定した。東ローマ帝国が15世紀まで存続した一因にもなった。民主主義政体をとっていたなら空中分解したのではないかなあ、と。そうも思うのだな。
古代ギリシャのアテネは民主政治をある程度確立した。繁栄はしたが、ペロポネソス戦争で非民主的なスパルタ陣営に敗れ、以後衆愚政治が続き、最終的にギリシア世界はアレクサンダー大王による広大なヘレニズム世界として統合された。どの国も東洋の香りをもつ王朝国家である。
アジアと西洋が歴史を通してシーソーゲームを繰り返しているというが、いずれかより民主主義的であった側が他方を凌駕した。そんな法則はないようである。
大体、民主独裁制の一変種であったヒトラー時代のドイツ、社会主義時代のソ連を民主主義というか?言わないとすれば、どの国からどの国までが民主主義か?民主化インデックスを作るにしても、かなり恣意的であろう。
小生自身は、その社会が民主主義であるかどうかは、経済成長にそれほど関係ないのじゃないかと思っている - 思っているというだけのことだが。
但し、一つ思うことがある。アテネが個人主義的、自由主義的、民主主義的であったのは商業に従事する住民のシェアが農業都市国家スパルタより遥かに高かったためではないか。遊牧民族であるモンゴルは、農業国家中国に比べて、君主の絶対権限がそれほどでもなかったと耳にしているし、世襲による血統崇拝もそれほどではなかったと聞いている。
社会の産業構造、職業構造。その時代を主導するリーディング産業にとって最適である生産システムが、強い共同体を作ってしまうのかどうか、これらが民主主義思想のポジションに反映しているような気はする。だから、小生はこの問題については、マルクスと全く同一の目線をとっているわけであり、正に「下部構造が上部構造を決める」。そう思っている。
インターネットは極めて分権的なシステムである。情報が個人間を自由に流通する。この点をみると、IT技術による発展が一巡するまでは、民主主義国家の優位は続くような気がする。しかし、IT技術は経験カーブが急勾配でスケールメリットが大きい。巨額のR&Dを行い、先発企業となり、世界市場で戦略的優位を占めることが重要になる。少数のメガ企業が世界経済を支配する可能性も小さくない。そうであれば、そんな社会の正当性が理論化されよう。そして上意下達の組織の論理が社会を支配する。そんな可能性もあると思う。
だから、技術とイノベーションの果てにどんな社会が選ばれるか?それは、技術とイノベーションが生み出す果実を活用するのに最も便利な政治制度が、自発的に選ばれていく。そういうことじゃないだろうか?現に選ばれている社会制度は、その時代を生きている人にとってはベストであり、大いに賛美したくなるのも分かるのだが、その制度が永遠にベストであり続けるとは、到底、賛同できない。子孫は子孫で、一番やりやすいように社会を変えていくだろう。それは民主主義の廃棄、王政の復活、帝政の復活ですらも十分ありうる。そう思うのだな。
そんな風に思ったりもするから、しばしば小生は反民主主義者だとか、アナーキストだとか、変な形容をされたりすることもあるが、自分ではそんなに珍妙な立場に立っているつもりはなく、長い歴史を素直にみれば、誰でもそう思うのじゃないかなあと考えている。
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