2019年10月30日水曜日

一言メモ: テレビという「井戸端ゾーン」

今回開催されたラグビーW杯の盛り上がりではファンゾーンが果たした役割が無視できない。

オリンピックも理想論はともかくとして今や巨大なスポーツビジネスとして機能している。

その五輪の人気種目であるマラソン、それから日本人選手の金メダルが期待される競歩の開催場所が東京から札幌へ変更されようとしている。

決定権限のあるIOCではもう結論が出されているということだが、最終的に議決されるのは本日の調整委員会である、というので東京都関係者は「最後の籠城戦」よろしく粘りに粘るとの決意だそうで、決意表明などがネットにはあったりする。

いまテレビでは東京招致当時の知事であった猪瀬直樹氏までが座談会に招かれて丁々発止議論している。

「そもそも招致のプレゼン段階で東京の気候はどうプレゼンされたのか?」 
「その時期の東京はマイルドで温暖な気候って、そのプレゼンは適切な表現であったのか?正確ではなかったのではないか?」 (投稿者注:東京が落選していれば今回のような恥をかかずにすんだのに……という趣旨か)
「最初に企画した国立競技場はエアコン付きでしたから・・・」 (投稿者注:ただし当初案なら施工費がバカにならず膨らんでいたかもしれない)
「マラソンや競歩の話なんです」 
「まあマラソンは外に出ますけど・・・」 
「なぜこんな始末になってしまったのか?」 
「前のJOC委員長や△△さんが委員にいらっしゃればコミュニケ―ションはとれていたのでは?」 
「招致したときの都知事としてどう思うか?」

等々。最近のテレビ特有の社会的井戸端会議であるが実に見苦しい限りだ。

おそらく昔のマスコミ業界仲間で今回のIOCの仕打ちでメンツを潰された小池現知事に忖度をしたテレビ局が、今は民間人である猪瀬・元知事に集中砲火を浴びせることで知事の鬱憤を晴らして差し上げたいと、そんな阿諛追従の思惑からこういう番組を編成したのではないか、と。思わずそんな風な邪推をもってしまいました。

事がうまく運ばなくなると、そもそも最初に担当した人を呼び出して非難したり、責任を追及したり、それがうまく行かないと誰それの責任であると犯人捜しをしたりで、内ゲバが始まるのは醜い人間の さが とも言える。 内幕は週刊誌などでこれから記事になるのだろうが、あまりみっともないドタバタ劇は演じてほしくないものだ。

将来のこともあるので……。

2019年10月29日火曜日

一言メモ: 「育児」は「国事」なのか?

小生は旧い世代に属していることは間違いない。ずっと続けてきた職業生活も既に非常勤になっているから、半分以上、足を洗っている。だからというわけではないが、思想は相当に古い。保守的でもある。伝統堅持という傾向もある。

「育児」は「国事」であるという意見が一部保守系のネット界隈で盛り上がっているようだ。

流石に旧世代の小生もこれにはついてはいけぬ。

子供に一義的な責任を有し、育児について意思決定権を主張しうる人物はその子に命を与えた両親と周りにいる親族である。だから国事ではなく私事である。そう信じているし、この考え方が誤りであると指摘されれば吃驚する。

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プラトンは子供はその都市国家の公有財産であると主張した。つまり、プラトン的世界では育児は国事である。

しかし、プラトンがなぜそう考えたか、その理由とその思想を考えに入れる必要がある。プラトンはアテネを代表する名門の末裔として生まれ育ったエリートである。アテネ的な意味合いの民主主義者である。共和主義者でもある。すべての市民は国防に生命をかけて共同で敵に立ち向かう義務がある。国を守るのは国民である。共和国というのはそういう国である。だから、子供は国家で共有される人的資源であり、したがって育児は国事になる。そう考えたわけだ。

小生の立場は先日の投稿で既に述べた。国益の最大化を目的として前提すれば、国民は共同で国益を追求する人的資源になる。それは戦国時代ならまだしも、現代世界においてはおかしいと述べた。人間の命を犠牲にする意味があるとすれば人間の命を守るため以外には想像できない。国のために人間が命を賭ける必要はない。それほどの高い価値を「国家」はもっていない。地球の上の一定の限られた区域を「国」として境界付けている。その中ではメンバーが「国民」と呼ばれる。それだけである。ある区域から別の区域に移ることもある。別の区域に移れば『郷に入れば郷に従え』である。

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幸福は人間のうえにのみやってくる。国家は幸福にはなりえない。

国家が人間を幸福にできるかどうかには不確実性がある一方、国民を不幸にする国家は確かにあった。経験主義に立つべきだ。人間が国家を組織化すると便利な事は確かにあると思うが、国家を増長させるのは危険である。

小生はいつからかそう考えるようになっている。そして、こう考えても安全で平和な世界でまったく支障はない。「国」は路傍の石ならぬ漬物石くらいの存在だ。そういう世界がはやくやって来てほしいと願っている。

だから、育児は「国事」と言われても、国事にそれほどの高い価値はないでしょう、と。そう言うしかない。

2019年10月28日月曜日

感覚のズレ: 政治家 ≒ マスメディア関係者 ≒ 芸能界

政治家に失言や言い間違いが多いことは周知のことである。普通の人が聞けば、『そのくらいの言い過ぎはあるかネエ』と感じるような軽い発言であっても、マスコミはその政治家を非難し、閣僚の地位を奪い、道義的責任を追及して有権者が当選させたその議員に議員辞職を求めたりもする。

しかし、多くの場合、その議員の犯した間違いは「発言の不適切」なのである。

★ ★ ★

さて、今度は吉本興業の芸人である徳井某である。

小生も確定申告をしているが、何とこの御仁は無申告であったという。それも何年も継続して申告そのものをせずテレビ画面に出演する仕事を続けていたというのだ、な。相当の鉄面皮であることは明々白々であって、一言でいえば「脱税」である。

国税庁が「脱税」という呼称で検察には告発していないので「脱税」ではないと言うとすれば、それは詭弁である。「納税」、「延滞」、「脱税」のいずれに該当するかといえば無申告が「非納税」、つまり「脱税」に該当する事実に変わりはない。全ての申告漏れは大なり小なり「脱税」であるというのが基本的な理屈だ。行政上の呼び名が「脱税」ではないことに安堵するのは役所の顔色をみて善悪を判断しようとする幼稚な姿勢である。

ところが・・・マスメディアの報道を連日視聴せざるを得ない状況なのだが、どのテレビ局も「申告漏れ」という言葉で表現している。中には、『重加算税という形ではありますが、既に修正申告をして納税はすませております。社会的責任は果たしているわけですから、他の犯罪行為をした人との線引きをどこに引けばよいのか考えてしまいます……』などと語るキャスターすらいる。マア、そんなご時世であるといえばその通りだが、小生、感覚が旧いので絶句するばかりだ。

バレなければ「脱税」、バレた「脱税」は「申告漏れ」というなら、それは詭弁である。徳井某は申告ミス(=申告漏れ)ではなく、無申告であった。「脱税」の意図は明らかである。

繰り返すが、「脱税」というのは違法行為の中でも重大な部類に属する。今回、犯罪者として立件されずにいるのは脱税額が1億円にみたず、当局が「お目こぼし」をしているからに過ぎない。納税を済ませたので社会的責任をとっているという表現は「不適切」であって、無申告即ち「脱税行為」であり、今回は「脱税未遂」であったという単純な事実から報道をするのが本筋である。

なぜ微温的なソフトな語り口で今回の件を報道しているかと言えば、脱税をした本人がマスコミ関係者であり、同じ業界で仕事をしてきた仲間であるからだという点は容易に想像がつく。

脱税行為が当局から摘発され、重加算税が課されたことをもって「社会的責任は果たしているわけですから…」と解説するキャスターは、失言をした政治家と同じ理由で、発言の不適切を非難されるべきだと偏屈な小生は感じるのだが、どのメディアも実は概ね同じである。そんなものかと思ってしまうのだ、な。

それにしても、サラリーマン、自営業主、開業医のガラス張り所得度をさして「クロヨン(9対6対4」という言葉が流行したり、そのうち政治家(?)を加えて「トーゴーサンピン(10対5対3対1」と言ったりしたものだが、その当時は納税の不公平、不公正に対する多数国民の非条理感が蔓延していたように覚えている。今回の件は、無申告、つまりトーゴーサンピンならぬ、トーゴーサンピンゼロのゼロである。完全隠蔽。透明度ゼロの暗幕所得。あまりにブラックである故にかえって目立ち税務当局の目を引いたということだろう。メディア関係者が小生とは違って絶句していない様子であるのは、こちらにより大きな絶句感を覚えるのだ、な。

マ、ご時世である。

マスコミ界は「世論が……」と言いたいかもしれないが、その「世論」は次期首相には誰がよいと思いますかと聞かれて、今回初めて入閣した小泉家の御曹司が次期首相にふさわしい、と。その程度なのだ。「世論が…」ではなく、ここはやはりロジカル・シンキングが求められている。

にもかかわらず・・・メディア関係者の感覚のズレ。そういうことであろう。

メディア関係者は、ある時は「世論の先導者」を演じるが、困ったときは「世論に従います」といった姿勢をとる。これでは「お上に従う」と言いつつ、やりたいことがあれば「お上の目の曇りをぬぐって差し上げたい」として勝手自儘を通した戦前・軍国主義下の軍部と本質は同じであろう。

これまた日本の歴史に残っている感覚のズレの好例である。

★ ★ ★

そういえば、小生の親戚には金融機関関係者が多い。亡くなった父の弟たちである。父は応用化学を専攻したエンジニアであったから、いまでいう「理系」である。

『銀行で仕事をしている人の家庭はすぐに分かりますよ』というのは、母が病気でふせっていた頃、うちに来てくれていた家政婦さんが語っていたことだ ― 随分後になってから母が教えてくれた。お金に対する感覚が普通の世帯の人とはどこか違うというニュアンスなのだろう。

そういえば、誰であったか、これも近所の奥さんだったのだろうが、『学校の先生のうちって、分かるよね』と。こんなやりとりも井戸端会議では出ていたよし。

その「学校の先生」になって世過ぎをしてきたが、小生自身を振り返っても夏や冬には休みに入りノンビリ過ごす。長い旅行はする。スーツを着てキチンとした格好で仕事に行ってはいない。一日中、普段着のままだ。時々、大量に資料のような風呂敷包みを自宅に持ち帰ってくる。あの人は学校の先生かネ、という憶測はそれほど難しくはない。自分では、みんなと同じサラリーマンのつもりであったが、やっぱり違っていたのかも……。今ではそうも思われるのだ、な。

★ ★ ★

どの職業の人間にも感覚のズレというのはあるものだ。

それでも「口先の不適切」と、「不適切な行動」とをごっちゃ混ぜにしては駄目だろう。

口で言った・言わないは、言葉が大事なメディア人や芸能人にとっては大問題だろうが、社会の現実とはあまり関係がない。

世の中はアクションで成り立っている。実際にとった行動が違法である事実は、言い過ぎ・言い間違いと同列にしてはいけない。



2019年10月25日金曜日

一言メモ: マラソン・競歩開催場所変更についての感想

来年の「東京五輪」の人気種目であるマラソンと競歩の開催場所を東京から札幌へ変更するというIOCの方針が報道されてから、マスコミ界では連日大騒動が続いている。中でも、ホストシティである東京都が変更には同意していない、東京でも真夏のマラソン大会は出来る、準備はしてきたということを小池東京都知事がテレビ画面に久方ぶりに出張ってきて東京の立場を力説している。まあ、そのこと自体は当然であるが、それをまたキャスター、番組スタッフが「応援」する……。いやはや、典型的な井戸端会議である。あまりの水準の低さに聴くに堪えない心持になる、そんな「雑談」である。

***

この変更提案のきっかけが先に開かれた世界陸上ドーハ大会のマラソン、競歩の状況であったことは言うまでもない。

科学的観点から判断できる際には、倫理や規則、手続き等々ではなく、科学的に結論を出さなければならないというのは現代社会の鉄則である。非科学的な結論は反対や論難に対して常に脆弱である。

その科学に従事する人たちの立場は、大なり小なり「経験主義」に帰着する。何より「観察事実」がポイントになる。弁論、ご卓説はともかく、データが何よりも重要だと言うことだ。

この点を考慮すると、重要なことは多くはなく、たった一つである。

東京では真夏にマラソン大会を開催していない。暑いからである。つまり開催経験がない。札幌は8月下旬の真夏の時期にもう30年以上も「北海道マラソン」を開催してきている。北海道マラソンではランナーが大量に棄権をするなどはなく、マラソン大会として正常に成立してきている。
 この開催実績はキーポイントたりうる実験的事実であろう。


東京がいかに暑さ対策を進めていると主張しても、それは担当者の主張であって、開催実績として何もその安全性、信頼性が観察されているわけではない。ドーハ大会の観察事実は東京でのマラソン、競歩に抱く不安を更に高めるものであった。

今回の開催場所変更はドーハの経験から導かれた帰納的な結論である。ただ、サンプルは1回である―それはそうだろう。真夏にマラソンを挙行する際の実績サンプルはそうそう多くは収集できまい。

ドーハのたった一度の経験から「東京は危険だ」と結論するのは、余りにサンプルが少なすぎるきらいはある。それでもなお、今回の変更に手続き上の問題が多々あることは認めるとしても、実績と事実に基づけば東京ではなく札幌を採ったというIOCの判断には相当な合理性がある。

2019年10月23日水曜日

「民主主義」が基本である分野はどれほどあるのか?

週末には東京へ往復してきた。これまではANAに乗って品川でプリンスに泊まるというパターンを続けてきたが、そろそろビジネスモードからは卒業したい。そんな動機から、今回は東日暮里のマイステイズに泊まった。飛行機はジェットスターである。これまた中々オツな旅程である。

40年少し昔になるが小生は東日暮里に下宿していた。今回泊した場所から100メートル以内の圏内にはあるはずだ。ただ谷中側はともかく東日暮里側は街の変容が激しい。大体、「日暮里繊維街」には驚いてしまう。これは何だと思ってしまう。外国人旅行者の数も多い。

その日暮里の下宿には3年ほど暮らした。就職で某官庁の小役人になったのを契機に横浜の独身寮に転居した。

就職直前の3月下旬、転居する少し前のことではなかったかと思うが、その頃名古屋に住んでいた父が東京へ出てきたことがある。その2年余り前に父は胃癌の手術をしていたが、既に会社は退職したと母からはきいていた。自分自身の事で頭が一杯であった小生は父の退職を記念する夕食にも戻らず、久しぶりに東京で会った父の衰え方にただ驚くばかりであった。

父は、その夜、小生の下宿に泊まったはずなのである。しかし、小生はその夜のことを覚えていない。何を話したか、夜は何を食べたのか、まったく覚えていないのだ。

★ ★ ★

昨日は天皇即位礼で日本中が一色であった。

その一方で皇位継承のあり方をめぐって、現行憲法下の民主主義社会にふさわしい方式をめぐって議論が重ねられているようだ。「民主主義社会にふさわしい」というのは、具体的にいえば男女平等と女性天皇・女系天皇を認めるという点に集約されるようでもある。

★ ★ ★

「その時代の社会にふさわしい天皇のあり方」などと言い出せば、絶対君主であった飛鳥時代から、藤原氏が絶頂であった平安時代を経て、戦国時代、徳川幕府の江戸時代まで日本の天皇制は色々な社会的変化をくぐりぬけてきた。そして今は大日本帝国の時代を経て、戦後の民主主義日本である。

思うのだが、その時代の社会が真に客観的にみて「正しい社会」であるのか否かという問題は、多分100年もたってからようやく歴史家が回答できる難問である。正解は永遠にないのかもしれない。

その時々の日本人がいまの社会が最良の社会であると言い出せば、後に続く世代が前の世代の社会制度を変革しようとすれば「それは間違っている」と言われるだろう。しかし、そんな歴史的判断をする資格はどの時代のどの世代の日本人にもない理屈だ。大体、戦前期の昭和一桁の5~6年の頃から日本の社会は急激に変化し始めたが、当時の現役世代は正しい革新を断行していると意識していたのは明らかで、旧世代による反発はすべて堕落した資本主義的思想の故であると非難を加えたものである。70年も過ぎてからその頃を俯瞰してみれば、間違った認識をしていたのは当時「我々が正しい」と叫んでいた人たちであることは明らかになっている ― 少なくとも現時点の日本人からみれば、だが。

社会は時代に伴って様々に変化する。その中で、皇位継承のあり方だけは一貫して男系継承原則を守ってきた。この事実を思い起こすと、いま現在たまたま日本社会が民主主義的であるからという理由で、今の社会に似つかわしい皇位継承制度に変革しようと、と。こんな発想をすれば、今後将来、天皇制はどう変容していくかがまったく予想できず、いずれ日本から天皇制はなくなるかもしれないと。そんな予想を立てるのは容易である。

故に、「それは民主主義に反するから」という非難は小生は嫌いであるし、自分でもそんな批判をしたことはない。

時代は変わり、社会も変わるが、これだけは(ほとんど)変わっていない。だからこそ、日本の天皇は今も「国民統合の象徴たりうる」のではないか。理屈としてはこう考えるのが本筋であるような気がする。そもそも天皇制と民主主義とは関係がない。こう言えば、当たり前すぎるほど当たり前の事実である。

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最近になって『そもそも民主主義によって解決するべき事柄とはどんなことだろう?』と、そんな問いかけを自分にすることが増えた。

私たちは、日常、民主主義をどの程度まで意識しているのだろうか?

上では父のことを述べたが、小生の家族は決して「民主主義的な家庭」ではなかったと小生は記憶している。何か大きな買い物をするときに父が家族の意向をヒアリングしたなどということは全くない。というか、小生が高校から大学に進学するときにも、どの学部に進むかという小生自身の希望よりは父の意志が通ったものである。現在は、マア、父が息子である小生を視ていた視点の方が、18歳だった高校生が自分をどう見ていたかよりは、余程適切で正確なものであったことを事後的にではあるが理解できている。人生経験、社会経験、総合的な判断力というのは決してダテではないのである。

いま日本の社会の中で真に民主主義的な家庭がどのくらいあるのか一度きいてみたいものである。

もう一つの代表例をあげよう。「会社組織」は「民主主義」によって経営されてはいないはずだ。文字通りの上意下達ではないにしても、そもそも会社はドイツ流にいえばゲゼルシャフト、つまり特定の目的を効率的に追求するために設立された人為的な組織体である。株式会社であれば、投票権をもつ株主による総会、その意志を体現して経営管理業務を執行する取締役会が経営上の決定を行う。社員はその決定を実行するのである。だから会社は民主主義的組織ではありえない。官庁もそうだ。在職している官僚の「自由意志」を尊重して民主主義的に官公庁を運営するなどはトンデモナイことである。

ミルグロム・ロバーツの『組織の経済学』を読むまでもなく、相互に平等な参加者の自由意志によって問題解決をはかる方が適切な場合と、組織的なマネジメント・システムによって解決するほうが適切な場合と、これら二つは状況に応じて、問題に応じて、区別していかなければならない。臨機応変に効率的に調整して資源を集中していくことが最も重要である場合には組織的管理が有効である。何も難しくはない。誰でも経験的に知っている常識である。だからこそグループが形成され、組織が生まれ、共同の目標を追うのである。会社や家族が現にある以上、自明のことだといってもよい。

解決しようとしている事柄によっては民主主義による解決がベストであるとは限らない。

★ ★ ★

組織には特有の目的があるものだ。たとえばそれは「出資者の利益」である。家族が存在するとすれば「家族の幸福」を追い求めるはずだ。『なぜそれがあるか?』、常に最も重要であるのは、その存在意義、つまり仏語でいう"raison d'être"であろう。

思うに、特に追求するべき課題や目的があるわけではない。ただ解くべき問題がそこにある。そんな場合には「民主主義」が適切である。それでも数学の難問に民主主義によって解答するのは馬鹿な企てである。クイズに民主主義を適用するのも愚かなことだ。経済政策に最適解があるにもかかわらず、有権者多数の反対があるからといって、民主主義的にその政策上の立案を葬り去るのも考えてみれば馬鹿の極みかもしれない。

問題が紛糾した時に、国家元首あるいは代表者の意思で裁決するならそれは民主主義的ではないと小生は思う。反対に、同じ問題を一般国民の投票で裁決するならその社会は民主主義的であると思う。

国は「国益」を追求する「組織」であると認識すれば、国民は国益を最大化するための人的資源になる。これは民主主義的ではないと思う。民主主義的な国家であれば、何が国益であるかという出発点で既に投票による。小生はそう思う。

だとしても、国は「国益」を最大化する組織ではあり得ない。もし国益の追求を目標として前提すれば、国民はその目標に努力し、奉仕することが求められるかもしれないからだ。これは民主主義には反するのではないかという気持ちが小生にはある。

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結局、民主主義社会とはどんな社会なのだろう。民主主義によって人は何を決めるのだろう。

客観的に答えるのは難しい。

人々が「いまの社会は民主主義的だ」と思うなら、民主主義社会なのだろう。民主主義とは無関係の天皇制があっても、大方の日本人が「日本は民主主義的だ」と思うなら、日本は民主主義的である。

小生の頭の中の「民主主義」はこんなポジションを占め始めている。

2019年10月15日火曜日

「食う寝るところ、住むところ」を選ぶにもロジカルシンキングが必要だ

昭和40年春から43年夏までの3年間余り小生の家族は東レのエンジニアであった父を追って元住吉にあった社宅で暮らした。東横線で元住吉の隣駅が武蔵小杉である。当時の武蔵小杉は駅前から閑散とした通りが続き、賑わいもなく、住みたいと思うような界隈ではなかった。だから近年になって高層マンションが立ち並ぶお洒落な街に変貌したことには驚異を感じるばかりであった。ところが今度の台風19号による水害を蒙ってマンションに住む人たちが停電や断水に苦しんでいるという。この世の中では色々な事が起こるものである。

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日本の食生活の中心は米であった。米を作るには水田がいる。良い水田は水を引きやすく、土質が適していることが必要だ。良い土質は好い土壌が堆積されることで形成される。よい土壌は氾濫した河川が運んでくるのである。氾濫する水は低地に流れていく。故に、日本の集落は川に近く、土質がよく、稲作に適した低地から先に形成されることになった。

利水と治水は日本人にとって最優先の事業であったのだ。日本人の生活は水と離れて存在しえなかった。水と共に生きてきたのが日本人である。

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水と縁の深い地域から先に集落が形成され、そこに富と賑わいが生まれ、町が発展した。これが日本社会の歴史の基本である。

米作りに適した良質の水田は最後になってはじめて宅地に転用される。高台から先に宅地開発されたのは、高台は水を引くことが出来ず、土地が痩せて農業には不適であったためである。生産活動には従事しない高級官僚や経営者が暮らす高台は高級住宅地イメージの核となっていった。

小生が元住吉で暮らしていた頃、まだ周囲には水田が多く残っていた。武蔵小杉界隈にもまだ多くの農地が残されていた。中原街道沿いのあの一帯は多摩川に近く江戸期からずっと良い農地だったのだろう。
  
良い農地は水を引きやすいということだ。だから本来は好い宅地ではない。特に電気・ガス・水道が整備された現代日本では高台でも何も不便ではない。むしろ高台の方が安心だ。しかしこれは現代日本になってから当てはまるようになった新しい理屈である。農業が主たる産業であった長い日本の歴史において人々が生きてきたのは水の豊富な低地であった。水に近いところに住むからには洪水は常に意識されるリスクとなる。水害の多い濃尾平野で「輪中」が多いのはそのためだ。リスクに備えるには知恵がいる。低地に高層マンションを建ててそこで住むにもやはりリスクに備える知恵が必要だということだ。

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江戸の武士は主に山の手に住んだ。サムライは農商工業の生産活動をしないからである。山の手に住んでも不便ではなかったのだ。下町には商人が暮らした。それは水運によって周辺の農村地域との間で物資の集散が容易であるからだ。低地では生産活動が行われた。田舎の小藩の屋敷は下町に近いところにあったりした。好い場所がなかったからである。逆に、市場が高台にあれば商売にならないだろう。

武蔵小杉は低地である。低地で暮らすなら低地であることが利点になるような暮らし方をする。これが基本的なロジックである。しかし、おそらく武蔵小杉で高層マンションを購入して暮らす人々は、眺望がよく、お洒落でもある生活空間に魅力を感じ、そこを住生活の場にしたのであろう。だとすれば、低地のメリットである親水性が実はデメリットになっていたわけだ。

どこで暮らすかは何をして暮らすかで決まってくるものだ。そこにはやはりロジカル・シンキングが要るということなのだろう。

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ロジカルでない国土利用が横行しているのは、小生の個人的印象だが国土庁という官庁が廃止されたからである。いわゆる「橋本行革」でなくなった中央官庁には「いまあったら」と思いたくなるものが複数ある。国土庁もその一つだ。

そういえば国土庁には「防災局」もあった。現在は内閣府の中にある。内閣府の予算で防災行政が本当にできるのだろうか。

当時は政治的偉業と称えられた「橋本行革」ではあったが、100点満点である改革などはありえない。普段に見直していく問題意識はPDCAサイクルの一環をなす。本当は、こういう事柄をワイドショーではとりあげてほしいものだ。井戸端会議では情けない。


2019年10月13日日曜日

一言メモ: 日本的精神論は右も左も問わずに出てくる

台風19号による記録的豪雨が各地で河川氾濫をひきおこした。先日は千葉県で台風15号の強風が吹き荒れ多数の家屋の屋根を吹き飛ばし長期停電をひきおこした。

専門家は地球温暖化が背景にある、その原因は二酸化炭素排出にあると明言している。

その二酸化炭素排出の主因の一つである火力発電所を日本は増設・拡大している。原子力の未来に疑いを持ち始めたからだ。

小泉新環境相は「脱・化石燃料」を語り始めた。と同時に、「脱・原発」も口にしている。他に話していることはない。ということは「入・再エネ」なのだろう。

日本の上層部が「脱〇入▲」を語り始めるとロクな事がない、というのは歴史が証明する帰納的事実である。

これから乱伐、農地転用、地下水脈喪失等々が加速されるだろう。

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今日のワイドショーでもその話がされていた。『一体どうするんでしょうか?』と司会者が問いかけると、『頑張っていく、知恵を出していく、とにかく頑張るということですネ』と繰り返す。

戦争中の東條首相は多くの人が「いい奴」だったと評している。昭和天皇もむしろ良い印象をもっていたと伝えられている。面倒見の良さを慕う部下も多かったらしい。1+4は80になると応えるのも真面目で諦めない善人だからである。飛行機は高射砲で撃ち落とすのではない、精神で撃ち落とすんだというのも「君なら出来る」、「あきらめるな」と言いたかったからだろう。

善い指導者や、善いコメンテーターは「私たちには出来る」と常にいうものである。そして、最初に心配したとおり事がうまく行かなかった時には最初に言った人はどこかに消えているものである。

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何であれ成功に至るには事業と同じく「PDCAサイクル」を避けることはできない。苦労はつきものだ。『いけるぞ』という気合に『ハイ!』という返事をきいて安心するだけではこれは応援団長の行動パターンであって、問題解決には全くつながらず、これでは覚束ないわけである。

2019年10月12日土曜日

雑感: またモーツアルトをよく聴くようになって

高校生の頃からモーツアルトが好きになった。どの先生であったか思い出せないが『君たちの年齢でモーツアルトが好きにになるのは私はあまり感心はしないナア』と言っていたので、その頃の小生、17、8歳の我鬼にしては余程ひねくれていたのだろうと思う。

その後、成長してからはモーツアルトから疎遠になっていたが、どうしてだか最近になってまたモーツアルトに戻ってきた。多感な思春期より老いたる駑馬になった今になって寧ろ微細な箇所のニュアンスが鋭敏に感じとれるようになった感覚がするのは実に不思議である。昔と違って管弦楽をよく聴くようになっている。モーツアルトが若かった時分の作品に遡って聴くことも増えた。母の生前に聴いていたレコードは全て傑作との評価が定まったピアノ曲である。一人で下宿をしていた大学生の頃はオペラが好きだった。このところよく聴いているモーツアルトは母は一度も耳にしたことはないはずだ。モーツアルトは時に現代の映画音楽作曲家も顔負けするようなポピュラーな旋律を創っているので母が『これなんて言うの?』と聞くのに対して小生が『これモーツアルトだよ』と応えると驚くに違いない。とはいえ、いま聴いているのは、どちらかといえば地味で、多くの人は知らず、小生が勝手に探し出してくるような作品が多い。

掘り出しては悦に入るのが年をとってから好きになってきたのかもしれない。時間がだんだん出来たことの単純な表れかもしれない。人の行動変化の背景は案外に単純なものだ。

ヴィオロンと ヴィオラのごとし 歩み来し
   夫婦二人の  せい のえにしは
幼少の頃から戦中戦後を経て生きぬいた父と母の人生は必ずしも幸福な期間が長くは続かなかったと子である小生は思っているのだが、それでも父と母は一様に不幸であったわけではなく、むしろ幸福感が勝ったときも家庭では確かにあったのである。

『ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲』(K.364)を聴きながら両親の人生を思い出して上の一首が頭に浮かんだのだが、ひょっとすると小生とカミさんが歩いてきた道にも当たっているのかもしれない。

それにしても、昔の高価なLPからCD,レンタルCD,デジタル音楽サイト、そして無料のYouTubeと変遷してきた音楽世界の進化は驚異である。

2019年10月7日月曜日

ビッグデータ活用とワイドショーに共通する一面について

スマホなる物が日常生活に浸透してからもう相当の年数がたつ。小生も初代iPhoneには興味を抱いた一人であり、早速注文し、それまで使っていたガラケーとの違いに爆発的飛翔感を感じたものである ― いまではその独占価格の高さに辟易し"android"に移ってしまったが。

そのスマホで例えば鉄道人身事故などを<大っぴらに隠し撮り>してそれをSNSにアップして拡散する、そんな<非道徳的行為>がこのところ非難されているそうである。

周囲の人たちは『昔はスマホがなかっただけ』、『マスコミも同じことをやっている』などと語り、鉄道会社が撮影を止めるようにアナウンスしても怯むそぶりを見せないそうである。

これを非道徳的と言うべきなのだろうか?モラルに反していると言うべきだろうか?

★ ★ ★

『マスコミも同じことをやってる』というのは、当のマスメディア関係者には頭が痛いかもしれない。

特にテレビ局を念頭に置いて述べることにする。

実際、この20年ほどというべきだろうか、何か事件があると、テレビ各局のワイドショーがそれぞれレポーターを多数派遣して、現場の風景や行きかう人々を無遠慮に撮影する。近隣の人にインタビューを申し込んだりする。それも相当強引である。近隣の人はテレビカメラを向けられることには慣れていない様子でトツトツと質問に答えていたりする。その様子がまたテレビ受像機の前にいる全国視聴者に臨場感を感じさせるのだろう・・・確かにこんな理屈はあるのだろうが、上に述べたように『じゃあ、自分も同じことをやってみるか…』と、そんな誘因を社会に醸し出している、これも事実だろう。

『私たちには伝える義務がある』とメディア関係者は言うのだろうが、それは現場の人たちがデスクなり、プロデューサーなりに指示されたから「義務」だと言っているのであって、指示したプロデューサーやデスクは自社の利益とは無縁の社会的使命感ではなくて視聴率アップや部数増加にどんな映像、紙面が必要かという視点から指示を出すわけである ― もしこれが間違いであれば寧ろ喜ばしいことだ。

このブログでも何度か投稿していることだが、近年のワイドショーは、現実に社会で生活している人たちをそのまま番組素材に組み入れるという手法で編集されるようになってきている。ネット経由で得られる素材をそのまま利用していることも多い。確かにニュースといえばこれも「ニュース」である。テレビ画面の映像と現実の生活空間はますます密着しつつある。日常の生活空間の延長にTV画面があると言っても過言ではなくなってきた。一つながりになりつつある。この意味でTVのワイドショーはネット化した。TVとYouTubeでは本質的違いがあるはずなのだが、違いが理解できる人は少ないかもしれない。傷ましい事故を「取材」するのはいいが、スマホで「隠し撮り」するのはモラルに反すると言われても理解できる人は少ないだろう。

さてテレビである。

民間TV局が追求する作業目標は理念はともかく先ずは視聴率であるから、要するに普通の人たちがテレビ番組の視聴率向上努力にいつ巻き込まれてもおかしくはない。そんな時代になってきた。そう言ってもよい時代だと思う。

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こう書くと、どこかで出会ったロジックと同じことに気がついた。

個々人の行動パターンがビッグデータとしてあらゆる場所で蓄積されて、そのデータが売買され、民間企業が自社利益を拡大するための資源となる。個々人のデータがマネタイズされる。故に、ますます企業は個々人に密着しようとする。微細な行動までも記録しようとする。この企業行動が人権保護、個人情報の財産価値横領という観点から大きな問題になってきている。

人が人の行動を付け回せばストーカーになるが、企業が個人の購買履歴を微細に追跡すればそれはビッグデータの活用になるという理屈を理解できる人は少ないかもしれない。

ビッグデータの活用と個々人の権利・財産とのバランスは今後の社会で大きな問題であり続けるだろう。こんな観点にたつと、個々人の生活空間の風景がそのままの形で民間テレビ局(に限った話ではないものの)という企業の利益拡大に一方的に利用されるようになってきているというこの側面がビッグデータをとりまく最近の問題と同じ構造になっている。

企業は生産の場、日常生活の場は消費の場であった。消費の場に溶け込むように混在する小売店もあるが、これまでは小さな鮮魚店であったり、八百屋であったり、文具店であったり、あるいは建築、板金、塗装業者であったりして、生きている人間がそこにはおり感情の交流があった。ところが、そんな空間に入ってくるメディアはそこで暮らしている人ではなく、企業が送っている現場担当者であり、指示されたミッションを遂行しているに過ぎないわけである。もちろんメディアだけではない。家の中からPCで接続する先のAmazonや楽天は人間ではない。しかしその町の住人のことをよく知っている。が、生きている人間として寄り添っているわけではない。微細なデータを人の記憶であるかのように活用して利益を引き出すことに目的がある。生活空間の場で生まれる個人情報を活用するか、個人個人のあり方を映像として活用するか、活用方法は違うが事業のロジックは同じである。その事業のミッションはそこで暮らしている人の幸福向上ではなく、所属している組織の利益である……、多少アニメ風に叙述すればこんな語り方になる。

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以前の投稿で日本の公共放送とされるNHKに関連してこんなことを書いたことがある:

もう一つ。良い放送サービスが公共財的な側面を持つからと言っても、単独の公的企業を一社だけ設置する方法が最善であるという理屈にはならない。良質な番組を編成するための<受信料>を業界団体である<放送連盟>がプールして、それを各社が制作する公共放送の企画に配分する方式でも目的は十分に達成できるはずだ。既得権益が構造化しやすい特別会社を設けるより、そのほうが遥かに効率的であるばかりではなく、資金の使徒をモニタリングすることによって受信料の支払い側と受け取り側との相互信頼が守られるはずだ。真に緊急性のある報道、真に中立的かつ正確な解説番組など、公共的視点から提供が望まれる番組編成については、NHKであるかないかとは別に、また視聴率とは別の基準で、多数の事業者が受信料を活用できる体制にしておく方が国民の便益にかなうのではないか。

報道とは国民の知る権利に応える行為であり、一人一人の個人が自由意志で観るか観ないかという選択からは独立している。視聴率の高低と報道の重要性は本質的には無関係である。伝えることにこそ社会的価値がある。

小生は、全放送局を対象に「公共放送」のカテゴリーを設け、何らかの公的メカニズムを通して徴収された資金を財源として「報道番組とそれに準じる番組」を編集する方式が社会的にはずっと良いと思っている。

もちろん、こうしたからといって上に述べたような粗暴な取材や隠し撮り、眉を顰めるような強引な取材を行うレポーターや取材記者がゼロになるわけではない。しかし、品質が公的に保障された事実報道が一定の分量提供されれば、低品質のワイドショーはニュースとしては信頼性を失い、加えて編集コスト面の制約から元のバラエティ路線に戻っていくであろう。

とはいえ、これもまた「腐蝕の構造」ではないが、一朝一夕には変わらないとは思うが……。

2019年10月4日金曜日

政治からの独立とは? 五輪の場合

柔道の山下氏が全盛期の頃、モスクワ五輪での金メダルが確実視されていたが、たまたまソ連(当時)がアフガニスタンに侵攻してアフガン戦争が始まった。それに抗議して西側諸国はモスクワ五輪をボイコットした。

それより前、ソ連がチェコスロバキアの第一書記であるドプチェク氏を追い落とすために首都プラハに戦車部隊を派遣した。ソ連はその後のメキシコ五輪に参加したが、ソ連選手には観衆からブーイングが浴びせられた。

また、いつの五輪だったか、男子200メートルで金、銀メダルを獲得した米国のスミスとカーロスの両選手は表彰式で奏せられるアメリカ国歌と星条旗に対して拳を突き出して米国内の黒人差別に抗議する意志を表現した。

いずれも五輪の場に国際政治、国内政治を持ち込む行為であり、五輪憲章や五輪精神に反する「不祥事」である。ポリティカリー・コレクトであっても、近代五輪運動の趣旨に照らせば「不祥事」と結論することが求められる。

***

いままた五輪の場で戦前日本の軍旗であり、現自衛隊旗でもある「旭日旗」を使用禁止にするべく韓国政府はIOCに対して働きかけている。IOCは五輪憲章の上に存在する組織であるから政治的意味合いを込めた要請は、その要請がその国にとっていかに重要な事項であっても、受け入れないと小生個人は予想している。

仮に旭日旗の使用が来年の東京五輪で容認されるとして、それに抗議して韓国が五輪をボイコットするとすれば、上に述べたソ連に対する西側諸国の抗議と軌を一にする不祥事であるはずだ。

国が資金を出すからには五輪参加にも<当然に>その国の政治事情が反映される。もしこんな思想が世界で浸透すれば、もはや巨額の資金を投入してオリンピックという祭典を開催する意義はほぼなくなったと言い切ってもよいのではないだろうか。

五輪憲章に共感して開催に協力する国はどこであれ敵対国や外交上の危機に陥っている国をもっているものだ。五輪が政治の場になりうるなら、求めて開催費用を自ら負担する国は出ては来なくなるだろう……、全くの無駄である。政治的対立勢力に利用されるだけでカネの無駄である。戦前のヒトラー政権下のドイツのように何らかのプロパガンダをしたいという政治的意図をもっている国を除けば、お目出たくも開催を引き受ける国があるとは思われない。そんな「祭典」は不必要だろう。

もちろん上のロジックは日本側にも当てはまるわけであって、平和の祭典である五輪の競技の応援に戦争の象徴である「軍旗」を持って応援する必要はない。右翼勢力が自らを誇示する場に五輪を利用するとすればこれ自体が国内政治活動にあたる。普通に「国旗」で応援すればよいことだ。ただ「旭日」という意匠は大漁旗などにも使われている。これも「軍旗」であると強弁すれば、他国の文化的表現を中傷する行為になるのも事実だ。批判するなら批判する側が批判の対象を厳密に定義したうえで批判するのが筋道というものだろう。

2019年10月2日水曜日

一言メモ: "Business of America"は何?

来年の米大統領選挙に向けて誰が優勢であるか混とんとしている。このままではトランプ大統領の再選は覚束ないという予測がある。一方で、バイデン元副大統領はともかく、本当に民主党のウォーレンやサンダースでアメリカは大丈夫なのかという心配もあるようだ。

こんな報道がある:
(前略)
ウォーレン氏はすぐさまツイッターで「本当に最悪なのは、フェイスブックのような巨大企業による不正な反競争的慣行を許し、個人のプライバシー権の侵害を招くような腐敗した制度を放置することではないか」と反論した。 
また、フェイスブックが近年、ワッツアップやインスタグラム買収を通じて市場支配力を一段と強めてきたとし、「ソーシャルネットワークに絡むトラフィックの85%以上はフェイスブックが保有または運営するサイトを通る」と指摘。「同社は強い力を持ち、ほとんど競争にさらされず、説明責任もほぼ問われない」とした。 
さらに「同社は競争を排除し、ユーザーの個人情報を利益のために利用し、民主主義を弱体化させた」などと批判した。
(中略) 
フェイスブックなどハイテク大手を巡っては、他の民主党大統領選候補者も批判的な見方を示しており、サンダース上院議員はフェイスブック、アルファベット(GOOGL.O)傘下のグーグル、アマゾン・ドット・コム(AMZN.O)の解体を検討する考えを示している。ハリス上院議員も解体を「真剣に」検討する必要があるとしている。
出所:ロイター、2019年10月1日

製造業が衰えたアメリカ経済がまだなお世界で優勢であるのは、1990年代以降に成長したIT企業があるからだ。GAFAを解体するのはアメリカの自傷行為である。産業組織に問題があれば適切に誘導すればよい。1990年代にマイクロソフトは解体の危機に瀕しながらもそれで成長を続け、今日のアメリカ経済を支える柱にもなってきた。

"The business of America is business"と語ったのは1920年代に米大統領であったカルヴィン・クーリッジである。 前任者ウォーレン・ハーディングが民主党から政権を取り戻したとき彼が言ったのは"America First!"であり、"Return to Normalcy"だった。その時代にアメリカが追求するべき政治課題をよく認識していたと小生は考えている。

どうやら現在の米民主党の政治家が言いたいことは
The business of America is democracy.
こちらであるとみえる。

「普遍的価値」もよろしいが、またぞろ世界中の他国に押し付けてくるかもしれないと思うと、今から辟易たる気分になる。アメリカではもう普通の人は政治家になろうとはしないのか……


2019年10月1日火曜日

一言メモ: 日本の民間放送局の無責任さの一例

香港は大変である。同じデモであっても韓国内の色々なデモンストレーションとは風景が違う。硝煙も漂っている。正面衝突である。警察による実弾発射も発生するなど予断を許さない。

ところが事態を報じる某民間テレビ放送局の報道番組を聴いていると耳を疑った。女子アナウンサーが最後に

この事態に日本政府にできることはあるのでしょうか?

日本政府が何か行動したり言明するとすれば、日本を代表するものと理解されるだろう。うまく行けば日本人の善意、失敗すれば日本政府と日本人は別ですと言い訳をするつもりだろうが、そうそううまくは行くまい。

ここは自分たち自身をも含めて

この事態に私たち日本人に何かできることはあるのでしょうか?

問いかけるならこちらの台詞だろうと思う。ずっとリアリティがある。これを言う勇気がないのであれば、『今後の推移が心配されます』と冷静に言っておけばよいのである。報道として何もおかしくはない。

どうも最近のテレビの悪い癖で「口だけ寄り添う、言葉の友」を演じたいようである。報道担当者は何か居心地の悪い後ろめたさを感じているのだろうか。むしろこちらの方を憶測してしまう。

電力業界: この典型的な「腐蝕の構造」

松本清張に名作『腐蝕の構造』というミステリーがある……、とここまで書いた所で念のために確認すると、森村誠一の作品であると分かった。いや、よかった。それにしても、松本と森村。二人が関心を寄せるテーマは相当重なり合っていたんだなあと改めて実感する。

関西電力経営陣が原発の町である福井県高浜町の元助役、別名「Mさん」という陰の権力者から多額の金品を受け取っていたそうである。「Mさん」は懇意の事業会社から裏金を受け取り、その金で関電幹部に金品を送り、関電はその事業会社に原発関連事業の発注を増やしていた。

これはもう典型的な「腐蝕の構造」である。小説の世界でもやはり核融合、つまり原子力産業の汚れた構造がテーマとなっていた。違うのは、小説では汚れた構造が事件捜査を通して露見して解決されて行ったに対して、現実の世界ではMさんが他界した後、事業会社の税務調査が行われ、そこから不透明なカネの流れがやっと明るみに出たという点だ。

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「Mさん」は、原発を高浜町に誘致した頃は町の助役であったが、その後は退官し一介の民間人であった。にもかかわらず、関西電力はその後もMさんにずっと気を使い、金品を送られるとそれを受け取らざるを得なかったと、そんなことを話しているようだ。

どちらが犯罪の主導者であり、どちらが共謀に巻き込まれた側なのかは今の段階では分からない。文字通りの「構造」である。

まあ、多少同情的な視点をあげるとすれば、20世紀半ばから後半の日本の最大の問題は「エネルギー危機の克服」であったという事実だ。太平洋戦争開戦の動機も正にそうであった。1970年代には石油危機が二度にわたって発生した。安定したエネルギー自給こそ最優先の国策であったのである。そのために確立された「国体」として機能したのがエネルギー産業であったとすれば、それを現在の技術と倫理から「腐蝕の構造」と断罪するのは、自分が立っている足場が誰によって築かれたかを省みない幼稚な正義感であると。ひょっとすると、旧世代の闘士はこんな憤りの心情を抱くかもしれない。ま、小生の近親者に電力産業従事者が一人もいないのは幸いかもしれない。

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人によっては、民間企業が勝手に渡したカネをつかって民間の個人が親しい民間企業の取締役に勝手に贈答品を送りつけた。それをわざわざ返すと付き合いづらくなるので受け取っておいた。それだけだ、と。こんな表現をする人もいる。

しかしながら、自由市場の効率性とは財貨サービスの品質で真に競争力のある企業が勝ち残ることによってもたらされるものだ。事業実施の熟練度を吟味することなく、人的コネクションによって事業を発注するという行為は、市場経済の最終目的である経済・産業の成長を阻害するものだ。健全な経営にも反する。

罪は深い。

この種の経営行動をとる背景は、決して倒産することはない現在の電力産業の構造にある。これ自体が「腐食の構造」かもしれない。

1990年代から2000年代初めにかけて金融産業は破綻と合併の嵐が吹き荒れた。電力産業、いや広く公益事業全般について産業の規律付けと必要な部門は国有化を検討する議論が求められている。そんな方向への契機になるなら、今回の騒動も無駄ではない。