2019年10月4日金曜日

政治からの独立とは? 五輪の場合

柔道の山下氏が全盛期の頃、モスクワ五輪での金メダルが確実視されていたが、たまたまソ連(当時)がアフガニスタンに侵攻してアフガン戦争が始まった。それに抗議して西側諸国はモスクワ五輪をボイコットした。

それより前、ソ連がチェコスロバキアの第一書記であるドプチェク氏を追い落とすために首都プラハに戦車部隊を派遣した。ソ連はその後のメキシコ五輪に参加したが、ソ連選手には観衆からブーイングが浴びせられた。

また、いつの五輪だったか、男子200メートルで金、銀メダルを獲得した米国のスミスとカーロスの両選手は表彰式で奏せられるアメリカ国歌と星条旗に対して拳を突き出して米国内の黒人差別に抗議する意志を表現した。

いずれも五輪の場に国際政治、国内政治を持ち込む行為であり、五輪憲章や五輪精神に反する「不祥事」である。ポリティカリー・コレクトであっても、近代五輪運動の趣旨に照らせば「不祥事」と結論することが求められる。

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いままた五輪の場で戦前日本の軍旗であり、現自衛隊旗でもある「旭日旗」を使用禁止にするべく韓国政府はIOCに対して働きかけている。IOCは五輪憲章の上に存在する組織であるから政治的意味合いを込めた要請は、その要請がその国にとっていかに重要な事項であっても、受け入れないと小生個人は予想している。

仮に旭日旗の使用が来年の東京五輪で容認されるとして、それに抗議して韓国が五輪をボイコットするとすれば、上に述べたソ連に対する西側諸国の抗議と軌を一にする不祥事であるはずだ。

国が資金を出すからには五輪参加にも<当然に>その国の政治事情が反映される。もしこんな思想が世界で浸透すれば、もはや巨額の資金を投入してオリンピックという祭典を開催する意義はほぼなくなったと言い切ってもよいのではないだろうか。

五輪憲章に共感して開催に協力する国はどこであれ敵対国や外交上の危機に陥っている国をもっているものだ。五輪が政治の場になりうるなら、求めて開催費用を自ら負担する国は出ては来なくなるだろう……、全くの無駄である。政治的対立勢力に利用されるだけでカネの無駄である。戦前のヒトラー政権下のドイツのように何らかのプロパガンダをしたいという政治的意図をもっている国を除けば、お目出たくも開催を引き受ける国があるとは思われない。そんな「祭典」は不必要だろう。

もちろん上のロジックは日本側にも当てはまるわけであって、平和の祭典である五輪の競技の応援に戦争の象徴である「軍旗」を持って応援する必要はない。右翼勢力が自らを誇示する場に五輪を利用するとすればこれ自体が国内政治活動にあたる。普通に「国旗」で応援すればよいことだ。ただ「旭日」という意匠は大漁旗などにも使われている。これも「軍旗」であると強弁すれば、他国の文化的表現を中傷する行為になるのも事実だ。批判するなら批判する側が批判の対象を厳密に定義したうえで批判するのが筋道というものだろう。

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