2019年10月29日火曜日

一言メモ: 「育児」は「国事」なのか?

小生は旧い世代に属していることは間違いない。ずっと続けてきた職業生活も既に非常勤になっているから、半分以上、足を洗っている。だからというわけではないが、思想は相当に古い。保守的でもある。伝統堅持という傾向もある。

「育児」は「国事」であるという意見が一部保守系のネット界隈で盛り上がっているようだ。

流石に旧世代の小生もこれにはついてはいけぬ。

子供に一義的な責任を有し、育児について意思決定権を主張しうる人物はその子に命を与えた両親と周りにいる親族である。だから国事ではなく私事である。そう信じているし、この考え方が誤りであると指摘されれば吃驚する。

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プラトンは子供はその都市国家の公有財産であると主張した。つまり、プラトン的世界では育児は国事である。

しかし、プラトンがなぜそう考えたか、その理由とその思想を考えに入れる必要がある。プラトンはアテネを代表する名門の末裔として生まれ育ったエリートである。アテネ的な意味合いの民主主義者である。共和主義者でもある。すべての市民は国防に生命をかけて共同で敵に立ち向かう義務がある。国を守るのは国民である。共和国というのはそういう国である。だから、子供は国家で共有される人的資源であり、したがって育児は国事になる。そう考えたわけだ。

小生の立場は先日の投稿で既に述べた。国益の最大化を目的として前提すれば、国民は共同で国益を追求する人的資源になる。それは戦国時代ならまだしも、現代世界においてはおかしいと述べた。人間の命を犠牲にする意味があるとすれば人間の命を守るため以外には想像できない。国のために人間が命を賭ける必要はない。それほどの高い価値を「国家」はもっていない。地球の上の一定の限られた区域を「国」として境界付けている。その中ではメンバーが「国民」と呼ばれる。それだけである。ある区域から別の区域に移ることもある。別の区域に移れば『郷に入れば郷に従え』である。

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幸福は人間のうえにのみやってくる。国家は幸福にはなりえない。

国家が人間を幸福にできるかどうかには不確実性がある一方、国民を不幸にする国家は確かにあった。経験主義に立つべきだ。人間が国家を組織化すると便利な事は確かにあると思うが、国家を増長させるのは危険である。

小生はいつからかそう考えるようになっている。そして、こう考えても安全で平和な世界でまったく支障はない。「国」は路傍の石ならぬ漬物石くらいの存在だ。そういう世界がはやくやって来てほしいと願っている。

だから、育児は「国事」と言われても、国事にそれほどの高い価値はないでしょう、と。そう言うしかない。

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