2019年10月28日月曜日

感覚のズレ: 政治家 ≒ マスメディア関係者 ≒ 芸能界

政治家に失言や言い間違いが多いことは周知のことである。普通の人が聞けば、『そのくらいの言い過ぎはあるかネエ』と感じるような軽い発言であっても、マスコミはその政治家を非難し、閣僚の地位を奪い、道義的責任を追及して有権者が当選させたその議員に議員辞職を求めたりもする。

しかし、多くの場合、その議員の犯した間違いは「発言の不適切」なのである。

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さて、今度は吉本興業の芸人である徳井某である。

小生も確定申告をしているが、何とこの御仁は無申告であったという。それも何年も継続して申告そのものをせずテレビ画面に出演する仕事を続けていたというのだ、な。相当の鉄面皮であることは明々白々であって、一言でいえば「脱税」である。

国税庁が「脱税」という呼称で検察には告発していないので「脱税」ではないと言うとすれば、それは詭弁である。「納税」、「延滞」、「脱税」のいずれに該当するかといえば無申告が「非納税」、つまり「脱税」に該当する事実に変わりはない。全ての申告漏れは大なり小なり「脱税」であるというのが基本的な理屈だ。行政上の呼び名が「脱税」ではないことに安堵するのは役所の顔色をみて善悪を判断しようとする幼稚な姿勢である。

ところが・・・マスメディアの報道を連日視聴せざるを得ない状況なのだが、どのテレビ局も「申告漏れ」という言葉で表現している。中には、『重加算税という形ではありますが、既に修正申告をして納税はすませております。社会的責任は果たしているわけですから、他の犯罪行為をした人との線引きをどこに引けばよいのか考えてしまいます……』などと語るキャスターすらいる。マア、そんなご時世であるといえばその通りだが、小生、感覚が旧いので絶句するばかりだ。

バレなければ「脱税」、バレた「脱税」は「申告漏れ」というなら、それは詭弁である。徳井某は申告ミス(=申告漏れ)ではなく、無申告であった。「脱税」の意図は明らかである。

繰り返すが、「脱税」というのは違法行為の中でも重大な部類に属する。今回、犯罪者として立件されずにいるのは脱税額が1億円にみたず、当局が「お目こぼし」をしているからに過ぎない。納税を済ませたので社会的責任をとっているという表現は「不適切」であって、無申告即ち「脱税行為」であり、今回は「脱税未遂」であったという単純な事実から報道をするのが本筋である。

なぜ微温的なソフトな語り口で今回の件を報道しているかと言えば、脱税をした本人がマスコミ関係者であり、同じ業界で仕事をしてきた仲間であるからだという点は容易に想像がつく。

脱税行為が当局から摘発され、重加算税が課されたことをもって「社会的責任は果たしているわけですから…」と解説するキャスターは、失言をした政治家と同じ理由で、発言の不適切を非難されるべきだと偏屈な小生は感じるのだが、どのメディアも実は概ね同じである。そんなものかと思ってしまうのだ、な。

それにしても、サラリーマン、自営業主、開業医のガラス張り所得度をさして「クロヨン(9対6対4」という言葉が流行したり、そのうち政治家(?)を加えて「トーゴーサンピン(10対5対3対1」と言ったりしたものだが、その当時は納税の不公平、不公正に対する多数国民の非条理感が蔓延していたように覚えている。今回の件は、無申告、つまりトーゴーサンピンならぬ、トーゴーサンピンゼロのゼロである。完全隠蔽。透明度ゼロの暗幕所得。あまりにブラックである故にかえって目立ち税務当局の目を引いたということだろう。メディア関係者が小生とは違って絶句していない様子であるのは、こちらにより大きな絶句感を覚えるのだ、な。

マ、ご時世である。

マスコミ界は「世論が……」と言いたいかもしれないが、その「世論」は次期首相には誰がよいと思いますかと聞かれて、今回初めて入閣した小泉家の御曹司が次期首相にふさわしい、と。その程度なのだ。「世論が…」ではなく、ここはやはりロジカル・シンキングが求められている。

にもかかわらず・・・メディア関係者の感覚のズレ。そういうことであろう。

メディア関係者は、ある時は「世論の先導者」を演じるが、困ったときは「世論に従います」といった姿勢をとる。これでは「お上に従う」と言いつつ、やりたいことがあれば「お上の目の曇りをぬぐって差し上げたい」として勝手自儘を通した戦前・軍国主義下の軍部と本質は同じであろう。

これまた日本の歴史に残っている感覚のズレの好例である。

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そういえば、小生の親戚には金融機関関係者が多い。亡くなった父の弟たちである。父は応用化学を専攻したエンジニアであったから、いまでいう「理系」である。

『銀行で仕事をしている人の家庭はすぐに分かりますよ』というのは、母が病気でふせっていた頃、うちに来てくれていた家政婦さんが語っていたことだ ― 随分後になってから母が教えてくれた。お金に対する感覚が普通の世帯の人とはどこか違うというニュアンスなのだろう。

そういえば、誰であったか、これも近所の奥さんだったのだろうが、『学校の先生のうちって、分かるよね』と。こんなやりとりも井戸端会議では出ていたよし。

その「学校の先生」になって世過ぎをしてきたが、小生自身を振り返っても夏や冬には休みに入りノンビリ過ごす。長い旅行はする。スーツを着てキチンとした格好で仕事に行ってはいない。一日中、普段着のままだ。時々、大量に資料のような風呂敷包みを自宅に持ち帰ってくる。あの人は学校の先生かネ、という憶測はそれほど難しくはない。自分では、みんなと同じサラリーマンのつもりであったが、やっぱり違っていたのかも……。今ではそうも思われるのだ、な。

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どの職業の人間にも感覚のズレというのはあるものだ。

それでも「口先の不適切」と、「不適切な行動」とをごっちゃ混ぜにしては駄目だろう。

口で言った・言わないは、言葉が大事なメディア人や芸能人にとっては大問題だろうが、社会の現実とはあまり関係がない。

世の中はアクションで成り立っている。実際にとった行動が違法である事実は、言い過ぎ・言い間違いと同列にしてはいけない。



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