2019年10月7日月曜日

ビッグデータ活用とワイドショーに共通する一面について

スマホなる物が日常生活に浸透してからもう相当の年数がたつ。小生も初代iPhoneには興味を抱いた一人であり、早速注文し、それまで使っていたガラケーとの違いに爆発的飛翔感を感じたものである ― いまではその独占価格の高さに辟易し"android"に移ってしまったが。

そのスマホで例えば鉄道人身事故などを<大っぴらに隠し撮り>してそれをSNSにアップして拡散する、そんな<非道徳的行為>がこのところ非難されているそうである。

周囲の人たちは『昔はスマホがなかっただけ』、『マスコミも同じことをやっている』などと語り、鉄道会社が撮影を止めるようにアナウンスしても怯むそぶりを見せないそうである。

これを非道徳的と言うべきなのだろうか?モラルに反していると言うべきだろうか?

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『マスコミも同じことをやってる』というのは、当のマスメディア関係者には頭が痛いかもしれない。

特にテレビ局を念頭に置いて述べることにする。

実際、この20年ほどというべきだろうか、何か事件があると、テレビ各局のワイドショーがそれぞれレポーターを多数派遣して、現場の風景や行きかう人々を無遠慮に撮影する。近隣の人にインタビューを申し込んだりする。それも相当強引である。近隣の人はテレビカメラを向けられることには慣れていない様子でトツトツと質問に答えていたりする。その様子がまたテレビ受像機の前にいる全国視聴者に臨場感を感じさせるのだろう・・・確かにこんな理屈はあるのだろうが、上に述べたように『じゃあ、自分も同じことをやってみるか…』と、そんな誘因を社会に醸し出している、これも事実だろう。

『私たちには伝える義務がある』とメディア関係者は言うのだろうが、それは現場の人たちがデスクなり、プロデューサーなりに指示されたから「義務」だと言っているのであって、指示したプロデューサーやデスクは自社の利益とは無縁の社会的使命感ではなくて視聴率アップや部数増加にどんな映像、紙面が必要かという視点から指示を出すわけである ― もしこれが間違いであれば寧ろ喜ばしいことだ。

このブログでも何度か投稿していることだが、近年のワイドショーは、現実に社会で生活している人たちをそのまま番組素材に組み入れるという手法で編集されるようになってきている。ネット経由で得られる素材をそのまま利用していることも多い。確かにニュースといえばこれも「ニュース」である。テレビ画面の映像と現実の生活空間はますます密着しつつある。日常の生活空間の延長にTV画面があると言っても過言ではなくなってきた。一つながりになりつつある。この意味でTVのワイドショーはネット化した。TVとYouTubeでは本質的違いがあるはずなのだが、違いが理解できる人は少ないかもしれない。傷ましい事故を「取材」するのはいいが、スマホで「隠し撮り」するのはモラルに反すると言われても理解できる人は少ないだろう。

さてテレビである。

民間TV局が追求する作業目標は理念はともかく先ずは視聴率であるから、要するに普通の人たちがテレビ番組の視聴率向上努力にいつ巻き込まれてもおかしくはない。そんな時代になってきた。そう言ってもよい時代だと思う。

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こう書くと、どこかで出会ったロジックと同じことに気がついた。

個々人の行動パターンがビッグデータとしてあらゆる場所で蓄積されて、そのデータが売買され、民間企業が自社利益を拡大するための資源となる。個々人のデータがマネタイズされる。故に、ますます企業は個々人に密着しようとする。微細な行動までも記録しようとする。この企業行動が人権保護、個人情報の財産価値横領という観点から大きな問題になってきている。

人が人の行動を付け回せばストーカーになるが、企業が個人の購買履歴を微細に追跡すればそれはビッグデータの活用になるという理屈を理解できる人は少ないかもしれない。

ビッグデータの活用と個々人の権利・財産とのバランスは今後の社会で大きな問題であり続けるだろう。こんな観点にたつと、個々人の生活空間の風景がそのままの形で民間テレビ局(に限った話ではないものの)という企業の利益拡大に一方的に利用されるようになってきているというこの側面がビッグデータをとりまく最近の問題と同じ構造になっている。

企業は生産の場、日常生活の場は消費の場であった。消費の場に溶け込むように混在する小売店もあるが、これまでは小さな鮮魚店であったり、八百屋であったり、文具店であったり、あるいは建築、板金、塗装業者であったりして、生きている人間がそこにはおり感情の交流があった。ところが、そんな空間に入ってくるメディアはそこで暮らしている人ではなく、企業が送っている現場担当者であり、指示されたミッションを遂行しているに過ぎないわけである。もちろんメディアだけではない。家の中からPCで接続する先のAmazonや楽天は人間ではない。しかしその町の住人のことをよく知っている。が、生きている人間として寄り添っているわけではない。微細なデータを人の記憶であるかのように活用して利益を引き出すことに目的がある。生活空間の場で生まれる個人情報を活用するか、個人個人のあり方を映像として活用するか、活用方法は違うが事業のロジックは同じである。その事業のミッションはそこで暮らしている人の幸福向上ではなく、所属している組織の利益である……、多少アニメ風に叙述すればこんな語り方になる。

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以前の投稿で日本の公共放送とされるNHKに関連してこんなことを書いたことがある:

もう一つ。良い放送サービスが公共財的な側面を持つからと言っても、単独の公的企業を一社だけ設置する方法が最善であるという理屈にはならない。良質な番組を編成するための<受信料>を業界団体である<放送連盟>がプールして、それを各社が制作する公共放送の企画に配分する方式でも目的は十分に達成できるはずだ。既得権益が構造化しやすい特別会社を設けるより、そのほうが遥かに効率的であるばかりではなく、資金の使徒をモニタリングすることによって受信料の支払い側と受け取り側との相互信頼が守られるはずだ。真に緊急性のある報道、真に中立的かつ正確な解説番組など、公共的視点から提供が望まれる番組編成については、NHKであるかないかとは別に、また視聴率とは別の基準で、多数の事業者が受信料を活用できる体制にしておく方が国民の便益にかなうのではないか。

報道とは国民の知る権利に応える行為であり、一人一人の個人が自由意志で観るか観ないかという選択からは独立している。視聴率の高低と報道の重要性は本質的には無関係である。伝えることにこそ社会的価値がある。

小生は、全放送局を対象に「公共放送」のカテゴリーを設け、何らかの公的メカニズムを通して徴収された資金を財源として「報道番組とそれに準じる番組」を編集する方式が社会的にはずっと良いと思っている。

もちろん、こうしたからといって上に述べたような粗暴な取材や隠し撮り、眉を顰めるような強引な取材を行うレポーターや取材記者がゼロになるわけではない。しかし、品質が公的に保障された事実報道が一定の分量提供されれば、低品質のワイドショーはニュースとしては信頼性を失い、加えて編集コスト面の制約から元のバラエティ路線に戻っていくであろう。

とはいえ、これもまた「腐蝕の構造」ではないが、一朝一夕には変わらないとは思うが……。

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