40年少し昔になるが小生は東日暮里に下宿していた。今回泊した場所から100メートル以内の圏内にはあるはずだ。ただ谷中側はともかく東日暮里側は街の変容が激しい。大体、「日暮里繊維街」には驚いてしまう。これは何だと思ってしまう。外国人旅行者の数も多い。
その日暮里の下宿には3年ほど暮らした。就職で某官庁の小役人になったのを契機に横浜の独身寮に転居した。
就職直前の3月下旬、転居する少し前のことではなかったかと思うが、その頃名古屋に住んでいた父が東京へ出てきたことがある。その2年余り前に父は胃癌の手術をしていたが、既に会社は退職したと母からはきいていた。自分自身の事で頭が一杯であった小生は父の退職を記念する夕食にも戻らず、久しぶりに東京で会った父の衰え方にただ驚くばかりであった。
父は、その夜、小生の下宿に泊まったはずなのである。しかし、小生はその夜のことを覚えていない。何を話したか、夜は何を食べたのか、まったく覚えていないのだ。
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昨日は天皇即位礼で日本中が一色であった。
その一方で皇位継承のあり方をめぐって、現行憲法下の民主主義社会にふさわしい方式をめぐって議論が重ねられているようだ。「民主主義社会にふさわしい」というのは、具体的にいえば男女平等と女性天皇・女系天皇を認めるという点に集約されるようでもある。
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「その時代の社会にふさわしい天皇のあり方」などと言い出せば、絶対君主であった飛鳥時代から、藤原氏が絶頂であった平安時代を経て、戦国時代、徳川幕府の江戸時代まで日本の天皇制は色々な社会的変化をくぐりぬけてきた。そして今は大日本帝国の時代を経て、戦後の民主主義日本である。
思うのだが、その時代の社会が真に客観的にみて「正しい社会」であるのか否かという問題は、多分100年もたってからようやく歴史家が回答できる難問である。正解は永遠にないのかもしれない。
その時々の日本人がいまの社会が最良の社会であると言い出せば、後に続く世代が前の世代の社会制度を変革しようとすれば「それは間違っている」と言われるだろう。しかし、そんな歴史的判断をする資格はどの時代のどの世代の日本人にもない理屈だ。大体、戦前期の昭和一桁の5~6年の頃から日本の社会は急激に変化し始めたが、当時の現役世代は正しい革新を断行していると意識していたのは明らかで、旧世代による反発はすべて堕落した資本主義的思想の故であると非難を加えたものである。70年も過ぎてからその頃を俯瞰してみれば、間違った認識をしていたのは当時「我々が正しい」と叫んでいた人たちであることは明らかになっている ― 少なくとも現時点の日本人からみれば、だが。
社会は時代に伴って様々に変化する。その中で、皇位継承のあり方だけは一貫して男系継承原則を守ってきた。この事実を思い起こすと、いま現在たまたま日本社会が民主主義的であるからという理由で、今の社会に似つかわしい皇位継承制度に変革しようと、と。こんな発想をすれば、今後将来、天皇制はどう変容していくかがまったく予想できず、いずれ日本から天皇制はなくなるかもしれないと。そんな予想を立てるのは容易である。
故に、「それは民主主義に反するから」という非難は小生は嫌いであるし、自分でもそんな批判をしたことはない。
時代は変わり、社会も変わるが、これだけは(ほとんど)変わっていない。だからこそ、日本の天皇は今も「国民統合の象徴たりうる」のではないか。理屈としてはこう考えるのが本筋であるような気がする。そもそも天皇制と民主主義とは関係がない。こう言えば、当たり前すぎるほど当たり前の事実である。
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最近になって『そもそも民主主義によって解決するべき事柄とはどんなことだろう?』と、そんな問いかけを自分にすることが増えた。
私たちは、日常、民主主義をどの程度まで意識しているのだろうか?
上では父のことを述べたが、小生の家族は決して「民主主義的な家庭」ではなかったと小生は記憶している。何か大きな買い物をするときに父が家族の意向をヒアリングしたなどということは全くない。というか、小生が高校から大学に進学するときにも、どの学部に進むかという小生自身の希望よりは父の意志が通ったものである。現在は、マア、父が息子である小生を視ていた視点の方が、18歳だった高校生が自分をどう見ていたかよりは、余程適切で正確なものであったことを事後的にではあるが理解できている。人生経験、社会経験、総合的な判断力というのは決してダテではないのである。
いま日本の社会の中で真に民主主義的な家庭がどのくらいあるのか一度きいてみたいものである。
もう一つの代表例をあげよう。「会社組織」は「民主主義」によって経営されてはいないはずだ。文字通りの上意下達ではないにしても、そもそも会社はドイツ流にいえばゲゼルシャフト、つまり特定の目的を効率的に追求するために設立された人為的な組織体である。株式会社であれば、投票権をもつ株主による総会、その意志を体現して経営管理業務を執行する取締役会が経営上の決定を行う。社員はその決定を実行するのである。だから会社は民主主義的組織ではありえない。官庁もそうだ。在職している官僚の「自由意志」を尊重して民主主義的に官公庁を運営するなどはトンデモナイことである。
ミルグロム・ロバーツの『組織の経済学』を読むまでもなく、相互に平等な参加者の自由意志によって問題解決をはかる方が適切な場合と、組織的なマネジメント・システムによって解決するほうが適切な場合と、これら二つは状況に応じて、問題に応じて、区別していかなければならない。臨機応変に効率的に調整して資源を集中していくことが最も重要である場合には組織的管理が有効である。何も難しくはない。誰でも経験的に知っている常識である。だからこそグループが形成され、組織が生まれ、共同の目標を追うのである。会社や家族が現にある以上、自明のことだといってもよい。
解決しようとしている事柄によっては民主主義による解決がベストであるとは限らない。
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組織には特有の目的があるものだ。たとえばそれは「出資者の利益」である。家族が存在するとすれば「家族の幸福」を追い求めるはずだ。『なぜそれがあるか?』、常に最も重要であるのは、その存在意義、つまり仏語でいう"raison d'être"であろう。
思うに、特に追求するべき課題や目的があるわけではない。ただ解くべき問題がそこにある。そんな場合には「民主主義」が適切である。それでも数学の難問に民主主義によって解答するのは馬鹿な企てである。クイズに民主主義を適用するのも愚かなことだ。経済政策に最適解があるにもかかわらず、有権者多数の反対があるからといって、民主主義的にその政策上の立案を葬り去るのも考えてみれば馬鹿の極みかもしれない。
問題が紛糾した時に、国家元首あるいは代表者の意思で裁決するならそれは民主主義的ではないと小生は思う。反対に、同じ問題を一般国民の投票で裁決するならその社会は民主主義的であると思う。
国は「国益」を追求する「組織」であると認識すれば、国民は国益を最大化するための人的資源になる。これは民主主義的ではないと思う。民主主義的な国家であれば、何が国益であるかという出発点で既に投票による。小生はそう思う。
だとしても、国は「国益」を最大化する組織ではあり得ない。もし国益の追求を目標として前提すれば、国民はその目標に努力し、奉仕することが求められるかもしれないからだ。これは民主主義には反するのではないかという気持ちが小生にはある。
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結局、民主主義社会とはどんな社会なのだろう。民主主義によって人は何を決めるのだろう。
客観的に答えるのは難しい。
人々が「いまの社会は民主主義的だ」と思うなら、民主主義社会なのだろう。民主主義とは無関係の天皇制があっても、大方の日本人が「日本は民主主義的だ」と思うなら、日本は民主主義的である。
小生の頭の中の「民主主義」はこんなポジションを占め始めている。
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