2019年11月4日月曜日

「炎上商法」の合理性と害悪

本日の標題には矛盾がある。少なくとも逆説的である。なぜなら「合理性」に「害悪」がありうるという表現に正当性を認めると、あらゆる科学的思考を信頼する根拠が揺らいでくるからだ。

とはいえ、「暴虐な政府」というのは例えばレーニンのボルシェビキやヒトラーのナチスを引き合いに出すまでもなく、科学的合理性を少なくとも表面的には打ち出す(打ち出したがる)ものである。そもそも現代世界の最大の脅威である核兵器を生み出したのは自然科学の理論的進歩にほかならない。「合理性」という言葉の印象が悪いとしてもそれは仕方がない面もある。

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自然科学ですら人間社会でその進化が社会的害悪をもたらすことがあるとすれば、経済政策や経営管理において合理性を貫徹することがそれ自体として善いのかどうか、甚だ疑問であるという人が出てきても何もおかしくはない。

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オリンピックのマラソン開催場所変更の話題は、それ自体としてはバカバカしくて小さな話題である。バカバカしい話題は無視するに限る。しかしこれがもたらす社会的リパークッションが現実にマイナス効果を与え始めるとなると、変更の提案をした人物が悪いのか、マイナス効果をもたらすような反応をしている人物が悪いのか、ハッキリとはしなくなる。

世間では「ミヤネヤ」という低俗なワイドショーがあり、そこでメインキャスターが東京都民の心理を忖度したのか札幌市や北海道に対してネガティブな「妄言」を繰り返していたというので騒動を引き起こしている。ネットでも論争が起こり始めている。ヤレヤレ……というところだ。というか、やっぱりネ、かもしれない。

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大体、IOCが今回このような変更案を突然に提出しなければ、何事もなかったわけである。しかし、IOCが今回提出した変更案には前稿のとおり科学的根拠があり、それ自体としては一考に値する価値があると小生はみた。

東京都が拒絶し、場合によっては五輪開催自体を返上すればよかったのだという人たちもいる。仮に五輪開催返上となれば五輪中止の責任が東京都に帰せられることは火を見るよりも明白である。IOCはマラソンと競歩の開催場所変更を提案しているに過ぎないわけだ。仮にマラソンの東京開催を貫き、もしも来夏のマラソンでドーハの混乱が再現されれば、IOCはその責任を東京都に求めるだろう。これも明白だ ― もちろん何もなければ幸いである。

あるいは札幌が東京都に忖度し『東京都から依頼がない限り受けられない』と返答したとする。この場合、東京都は札幌市に開催依頼はしないだろうから、その場合も東京都に責任が帰着する。

他方、札幌市が変更受け入れを当初から拒絶するとする。その場合、マラソンは東京で開催されるだろう。真夏に公認のマラソン大会を毎年開催している都市は他に思いつかない。札幌が断れば当初プランに戻ると予想される。仮に来夏の酷暑でドーハの再現があったとすれば東京都は受け入れを拒絶した札幌市にも責任はあったと発言するだろう ― 特に現在の都庁なら。IOCは混乱の責任を回避する。

つまり東京都あるいは札幌市がIOCの変更提案を拒絶すれば、IOCは来年夏の気温にかかわりなく自らの責任を回避できる。この時期になって無理な変更をしてでもIOCは猛暑に配慮した。これが基本である。

次に、札幌市には提案を拒絶する誘因がない。なぜなら拒絶をすればマラソン大会混乱の責任の一部を負担する可能性があり、逆に受け入れるとして、もし来年夏の札幌が結果的に暑くドーハ程ではないにしても棄権率が上がったとしても、それは札幌の責任にはならない。IOCの提案を受け入れたに過ぎないからだ。それだけではなく、さらに訪問観光客数の増加などプラスの効果も見込める。何よりIOCに恩を売れるという一面もある。故に、札幌市がIOCの変更提案を受け入れる意志をまず表明したのは合理的な判断だ。

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となると、東京都の意思決定が合理的であるなら、今回の開催場所変更は全体として合理的な意思決定であった、ということになる。

小生が東京都の職員であれば『札幌市が受け入れ可能であると判断するなら、東京都はIOCの決定に従う』と最初から言明した。政治家は別の事を言うかもしれないが、放っておけばいい。

オリンピックは東京都が実施主体なのだから ― マア、正確に言えば実施主体はIOCで東京都は開催都市ということなのだろうが、少なくとも東京都民は東京都が都民のカネで実施すると意識しているのではないだろうか。

しかし……

東京都は『合意なき決定である』という立場をとった。今回提案には反対する姿勢を最後まで貫いた。多分それはカネを出すのが嫌だったからだろう。しかし、メンツは立ち、カネは節約できたが、失ったものもある。

それは「近代オリンピック運動」に占めているIOCという組織のポジションに合意しない開催都市も現れうるという前例になったことである。オリンピック運動は一言で言えば「国際平和」、つまりは「反戦運動」として発足し、必然的に国家からの独立、政治家からの独立を大原則として世界中に広がった。今日ではビジネス五輪の色彩を強めているが、政治家から嘴を出されるよりは民間ビジネスから支援を受ける方がまだマシである。ビジネスは政治よりは遥かにマシである。オリンピックの理念に合致する。これがIOCのホンネ、高尚にいえば思想であることは、行動を観ていれば分かり切ったことである。

今回の東京五輪の開催場所変更は、結局のところ、日本の政治家である森、橋本(それから首相官邸?)が進めた根回しと都知事の座にいる政治家小池との政治的格闘に訴えることで、IOCの意思を通すことができた。繰り返すが、開催都市がIOCに従わず、国家の政治家による介入によって問題を解決した。これはIOCの立場から見れば不祥事であったという受け取り方につながっていくのではないかと小生はみているところだ。

その意味では、五輪開催都市・東京都の今回の意思決定は合理性をやや欠いている。しかし、これも世間のオーディエンスを意識した「炎上商法」とみなすなら、政治的合理性はやはりあるのだ。

しかし、五輪開催都市の首長がなぜ政治的合理性を追求するのだろう。それは都知事が五輪を招致した開催都市の責任者というよりも自分自身が一人の政治家だ(と思っている)からだ。つまり五輪の理念(≒IOC、としよう)への共感よりも自分を選出した有権者の思惑をより重視する立場の人物であるからだ、と考えるのがロジカルである。

開催都市の責任者である小池氏は本当に終始一貫、いささかも「政治的炎上戦略」を採らなかったと言えるのだろうか?それを報道するテレビ放送局は視聴率上昇を目的にした「炎上商法」を採らなかったと言えるのだろうか?うちのカミさんですら『森さんや橋本さん、なんで黙っていたの?あんなにIOCにペコペコしないといけないの?』と話しているくらいだ。世界のどこでも避戦派よりは主戦派のほうが人気が出る。たとえ泥をかぶって解決に努めようとする避戦派に内心では同調しているとしても口先ではその格好悪さを罵倒するものだ。

以上のように見てくると、IOC、日本国、東京都、北海道、札幌市、マスメディア各社それぞれ、個別的な意味では合理的な意思決定をしてきたように見える。リスク回避は常に合理的行動である。しかし、全てのプレーヤーが私的な意味で合理的に行動するとしても全体最適がもたらされない可能性はある。「囚人のジレンマ」はその好例である。

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札幌はIOCの変更提案を受け入れてマラソンと競歩を開催することにした。もしも来年夏の札幌が酷暑となりドーハが再現されるとしてもIOCが招いた事態である。その意味では、IOCはリスクを負担して自身の意志を押し通したとも言える。何にせよオリンピックの開催都市を決め、準備状況をモニターし、開催の責任を引き受けているのはIOCなのである。この点に疑いをはさむ余地はないと小生は思う。大体、その年に五輪を開催する巡りあわせになった一国のたかが一つの都市が大規模な国際的イベントを平穏に開催するだけの責任を世界に対して負担できるのかと問えば、そんな世界規模の信頼がその都市にあるわけではないだろう。IOCが選び、IOCがモニターし、IOCの名で開催するが故に世界から信頼されている。これが現実ではないか。たとえカネはなくともIOCが唱える理念と意義を否定する国はそうそうはない。その意味ではIOCという非民主的な機関が有している一定の「権威」は認めざるを得ないだろう。数ある大都市の中の一つである東京都にIOCと同レベルの「国際的権威」があるとは言えないだろう。いや、いや、そんな「権威」などニューヨーク市もロンドン市もパリ市も持ち合わせてはおるまい。都市は結局のところ一つの場所であるにすぎない。故に、IOCはオリンピック開催の権限を握っている ― それは時代遅れだという人もいるが、また別の話題なので改めて。そのIOCがドーハの惨状と欧州メディアの集中砲火をみて慌てた……。今回のことはこれに尽きる。

IOCと国際陸連が揺らいだとき、東京都は先手を打って『日本は大丈夫だ』と。科学的データと併せて特集記事を海外メディアに寄稿するなど、適切に反応すればよかったのだ。少しのアクションとコミュニケーションでまったく違った状況に導けただろう。後悔先ニ立タズ。この格言を東京都は噛みしめているはずであるし、噛みしめていないとすればノー天気であると小生は思う。

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確かにIOCはリスクを負担したが、しかし真夏のマラソン大会である北海道マラソンで猛暑のあまり棄権率が異常に高まって選手など関係者から非難されたことはない。この点ではIOCは今回の変更に自信があるのだろう。

今後日本に出来ることがあるとすれば良い終わり方を目指すということ以外にあるだろうか。とにもかくにも招致運動中の贈賄容疑でJOC委員長が辞任する事態が発生するほどにまで熱意をもってオリンピックを招致したのは外ならぬ東京都なのである。招致にあれほど熱意をこめたのであれば、その実施にも同じ熱意がこもっているはずだ。

しかしながら、当然に目指すべき全体最適が本当に確実に実現できるのかと問われれば、やはり『私的合理性と全体合理性とは必ずしも一致しない』という命題を再掲しておくしかない。特に今回の日本側の混乱を観た以上、そう思わざるを得ない。

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