2019年11月17日日曜日

「絶対いやだ」という人々と討論を交わすのは不可能である

数学の問題に対する解答には〇か☓かの判定がロジカルに下せる。正しいか、間違っているかがハッキリと言える、誰もがその判定に従わざるをえないのは気持ちのよいことである。

しかし、こんなことが出来るのは限られた分野である。

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問題が数学から離れて自然科学になってくると、正しいか、間違っているかの区別はそれほど厳密ではなくなる。ニュートンの万有引力の法則は19世紀までは「絶対的真理」であったが、視野を宇宙に広げたり、速度を光速度に近づけた時にはアインシュタインの相対論で計算しなければ誤差が大きくなる(と専門外の小生は理解している)。まして自然科学から経済学や政治学などの社会科学に領域を移すと、ある結論が正しいか、間違っているかなどは異論が複数現れてきて、決め難くなる。討論しているうちに社会そのものが変容してしまう。回答するべき問題そのものが時と共に変化してしまうものだ。

土台、正しいか否かという問題は、回答不能であることの方が多い。

正しいか否かで答えが出せない時には、それこそ「民主主義的に」結論を出せばよいのだろうが、むしろ人は往々にして好きか嫌いかで答えを出すものだ。『ピンとくるよね』とか、『それ、まずいんじゃない?』といった目安も要するに「好悪」という評価尺度に過ぎないと言える。

とはいえ、ただ「好き嫌い」で答えを出すばかりでは社会はマネージできない。社会の諸問題の中にはその対策が正しいか否かなどはそもそも回答不能であるのだが ― 回答不能であるのは自然・社会の科学知識が足りないからである ― それでも正しいか否かを決定しないと困る、そんな状況もある ― 昔から病人がいれば医者と呼ばれる人物がどんな奇妙なことであれ何かをしてきたわけだ。

そんなとき社会は色々なルールを作りだす。法もその一つだ。憲法もそうかもしれない。法律を当てはめると、あらゆる人間の行為が適法か違法か、あたかも「正しいか否か」をその場で決定できるような状況をつくりだす。(その国の)法律をもってくると法に違反しているか違反していないかの答えが(その国では)出せるようになる。

法律とは、答えの出ないことが多い現実の社会において合法か違法か、〇か☓か、あたかも正しいか否かが決定できるような外観を創り出すことに存在意義があり、目的がある。法の基礎にモラルや公益へのリスペクトを置くことが多いのは法の重みを強調するためである。

以上を考えると、なんでも事柄によらず法律の話をして答えを確かめたいと願うのは人間がバカになる近道であることがわかる。というか、現在の日本社会はその近道を真面目に歩いているのかもしれない。

社会問題によらず多くの問題は、問題そのものを深く考えて、その本質を理解することが何よりも大事である。『咳がひどいようですから咳止めを出しておきましょう』という医者なら次は『熱が高いですから熱を下げましょう、それが医者の「責任」ですから……』と言い出す。これでは困るわけである。

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内閣恒例の桜の花見で総理大臣が法を犯しているのではないかとテレビなどは多くの人とカネを使って一生懸命に番組を作っているが、いかにも無駄であるこの種の番組も「アベ嫌い」の人たちには極めて重要な事柄であるようだ。

「要するに嫌いなんです」という感情からスタートさせている人と議論するのは不可能である。

議論をして対立状況を解消するには、一方が他方を論理的に屈服させるか、主要な点で妥協するか、二つの内の一つである。嫌いな人に屈服するのは耐えがたい、妥協するなど「虫唾が走る」と言うならば、もはや言葉による問題解決はこの社会において不可能になる。
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根っこの部分には「好き嫌い」があり、目的と手段との整合性を問う学問的姿勢がないと、関心があるのは「法律」を当てはめて「間違いの証明」をすることだけになる。

しかし、上述したように法律はそもそも正しい回答がないところで正しいか否かを決定するためのツールである。

もし現時点で「違法」という結論が出せるからと言って、20年前に同じ結論が出せたか、20年後に同じ結論が出せるかと問えば、それはまったく分からない。どうにでも変わりうる。変わりうるのは法律的な結論は「真理」というものではないからだ。そもそも「正しい」ことがコロコロと変わるのはおかしいと考えるべきだ。「真理」とかけ離れたものを知りたいと願うのは馬鹿である。上で何にせよ法律の議論をするのは馬鹿になる近道だと言ったのはこういうことである。

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日本で「武断主義」という言葉がある時代のある世相の中で時に登場するのは、言葉による解決を不可能にする状況を日本人自らがつくってしまうからに他ならない。

ある問題をどうしても先延ばしすることができなければ答えを出す必要がある。議論に負けても嫌いな相手に服従するのは嫌、相手も立てて妥協するのはもっと嫌となれば、あとは数の力か、でなければ武力によって決着をつけるしか残された道はない。

軍事力の誇示やテロリズムは言葉を拒否する感情に支配されている状況が背景にある。言葉による問題解決を原理とする民主主義社会で時に非民主的な暴力が横行するのは、誰が始めるのかしらないが、結局は対立している双方ともに責任があるのだろうが、意味ある言葉の応酬を拒否する心情に由来する。

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