2019年11月19日火曜日

法律と善悪、「ご禁制品」の科学的根拠について

映画『パッチギ!』も『クローズド・ノート』のどちらもずっと前に観たが素晴らしい佳品であった。だから、というわけではないが、今回の逮捕劇は実に残念で、これから営業自粛などという仕儀になる事態は理解できないと語る人達の側に小生はいる。

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本日の投稿は、最近相次いで逮捕されている芸能界の人たちを弁護しようとしているのではない。

この種の摘発劇についてずっと抱いている疑問である。

いま、「薬品」、「薬物」、「ドラッグ」、「嗜好品」、「サプリ」等々、日常的に摂取する穀物、肉類、野菜などとは区別され、栄養以外の例えば気晴らしや疲労解消などを目的に摂る生産物を合併した集合をとってみよう。これらを「非栄養摂取物」と総称してもいいかもしれない。

そうすると、この「非栄養摂取物」の中には風邪薬や消化薬のほかに、睡眠剤、精神安定剤も含まれるし、酒や煙草(食べるわけではないが体内に摂取するという意味で)、清涼飲料水もあり、果ては大麻、コカイン、覚醒剤、MDMA/LSDなどの「ご禁制品」も入ってくる。

この「非栄養摂取物」のどこかに「医療用vs非医療用」、「健康増進vs非健康増進」などの線引きがあり、いずれの線引きにおいてもプラス効果が認められない摂取物は「ご禁制」として使用を禁止するというのは、なるほど合理的であるような一面もある。

しかし、本当に禁止するべきかどうかについては真に厳密な科学的根拠と判別のバランスが必要である。

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なぜこんな事を書くかと言えば、最近になって続々と逮捕されている人達の中には、20年に及ぶ長期間、ドラッグを服用していた人物もいる。ところが、その人物が逮捕されたあと、本人の健康状態については続報がマスメディアからサッパリ出てこないのだ。健康状態を報道しないのは、本人がほぼ健康であるからではないかと。そう小生は邪推しているところだ。

「健康に害悪を与えるが故に禁止する」という取り扱いが本当に不可欠で切迫した判断であるなら、それでは「大麻」という生産物が海外では合法化される例が相次いでいるのは何故なのだろうか?それが疑問の第一である。おそらく小生の理解力が不足しているのだろう。

日本人にとっては健康に害悪があり、アメリカ人にとっては健康に害悪がないということなのか?あるいは、アメリカ人にとっても健康上の害悪はあるが、別の考慮からやむを得ず合法化しつつあるというのだろうか?もしそうであれば、最近になってから一部の電子タバコが健康上の理由からアメリカでは使用禁止になった。日本では電子タバコの健康上の害悪はそれほど議論されていない。思うのだが、日本は健康に非常に関心があり、アメリカは無頓着であるということではないだろう。そのアメリカで大麻を使用禁止にしないのは科学的観点にたてば奇妙であると思う。

本当に健康上の害悪がある非栄養摂取物であれば、長年それを摂ってきた来た人には必ず何らかの健康障害が認められるはずである。もし認められないのであれば、その摂取物には深刻な負の作用はないということではないのか?

要するに、法律上の「ご禁制品」であるからという議論ではなく、「科学的に」議論をすることが最も大事であると小生には思われるのだ、な。

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毎年、飲酒運転や泥酔の上の暴行など、酒をきっかけにしたトラブルは多数発生している。先日も泥酔の果てに路上で眠りこんだところ轢き逃げにあって公務員が死亡するという事件が北海道であった。過度な飲酒が肝硬変や肝臓癌を誘発することは誰もが知っているし、認知症などの健康障害を招く可能性もあると小生は聞いたことがある。酒類には明らかにマイナスの作用があると言うべきである。しかし、現在の日本で成人ならば誰でも酒を買える。飲酒は禁止されていない。

法律上の「ご禁制品」、例えば「大麻」や「コカイン」、今回の「MDMA」を摂取した作用が原因になって、どんな傷害事件がどの程度発生してきているのだろうか?現代はオープンデータ化の潮流にある。行政当局は犯罪統計の一環としてこの辺のデータを提供しなければなるまい。

「ご禁制品」として指定されれば売買は闇取引になる。闇取引を行政機関が摘発するのは当然である。しかし、ブラック・マーケットで営利活動をしている「ブラック企業」を摘発せずして、それを購入した消費者を摘発し逮捕するのはバランスを欠いている。まして、摂取した人物に健康上の被害が出てはおらず、かつ摂取の副作用で不当な行動をとっているなどの履歴がないのであれば、法律上の制裁を加えるべきかどうかすら小生には疑われる。

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禁止されているドラッグであると知りながらそれを買う買い手も法を犯しているという意見もあるだろう。しかし、本来、消費者は消費者主権を持つことが現代社会の原理・原則である。買うか・買わないかは本来消費者の側が決めるべき事柄である。「健康に害悪があるご禁制品」を所持・使用すること自体が犯罪になるのであれば、毒物を服用して自殺する事すら犯罪になってしまう理屈だ。無茶苦茶であろう。

また、禁止ドラッグを販売している人物を当局に「通報・密告」せずして購入すること自体が犯罪を幇助しているという一見正当な議論も予想される。しかし、これもまた自由社会の原理・原則を侵害している。自らが必要性を感じ、欲し、健康上の害悪はなく、かつそれを使用することによって他者に損害を与える意志がなく、その対価を支払う意志があるのであれば、売り手から購入できる機会を提供するのが現代社会の原理・原則ではないのだろうか。売り手に対して「これは売買が法律上禁止されている」と通告するのは当然だ。しかし、消費者の側に向かって「買うな」と命じるのであれば、戦争直後の東京の闇市で「ヤミ米を買うな」と国民を指導した政府と同じである。そもそもブラック・マーケットで闇商品を購入する買い手には価格交渉力がある理屈はなく、不当な対価を支払わされているに違いない被害者である。本当に健康障害があるなら猶更のこと被害者である。「保護」なら分かるが、なぜ「逮捕」という手続きになるのだろうか。

サッパリ分からねえってのは、ここでござんす。

いま政府が禁止している「ご禁制の品」を国民が求めていないのは必要性を感じていない人が多いからに過ぎない。しかし、特定の職業の一部の人物たちは求めている。「買うな」と法的に命令するのであれば科学的根拠がやはり必要だろう。いかなる条件下においても消費不可と規定するなら、海外では可とする取り扱いとは矛盾する規定を何故あえて置くのか、その理由を示すのは立法側、行政側の責任であろう。説明もなく法を犯した「犯罪者」をつくるのは非条理だ。

「一定の条件下で消費するべし」と規定するのであれば、消費者が利用できる情報の不完全性から了解できる。が、いかなる条件下においても消費を禁じるなら、その理由は取引の形態ではなく、その商品の属性自体にある理屈だ。それは何か。科学的根拠は明白なものでなければならない。

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データに基づく行政が叫ばれてからもう何年もたっている。『法律で禁止している以上それは悪いことだ』と言われて、『それはそうだ』と思うとすれば、その思考回路はまるで江戸時代の「隠れキリシタン狩り」と同じだ。戦前期日本で吹き荒れた「赤狩り」とまったく同一の論理である。

実際には、キリスト教そのものに社会を破壊する要素はない。社会主義・共産主義思想そのものから破壊活動を予測できる見方は成立しない。根拠もなく単なる恐怖の心理から特定の思想なり表現、趣味、嗜好を禁止するような政治は不適切であったことは歴史の証明することであり、このことは現在に生きている私たちは理解しているはずである。

前回の投稿でも述べた事だが、法律に適合しているが故に正しい、法律に違反しているが故に間違いという修辞は論理としては実は通らないのだ。もしこの論法でいけば、優生保護法の下で実行された不妊化手術は法律の命じる所であったが故に正しかったという理屈になる。法律に従うのは善であると考える人すらいるだろう。明らかに誤った理屈だ。善は善であるのであって、いつの間にか善は悪となると考えだせば、そもそもモラルや倫理そのものの意味がなくなってしまう。法律はソーシャル・マネジメントである。管理のためのツールである。企業組織を管理するための内規と本質は同じだ。規則自体に真、善などという価値はない。目的を追求するうえでそのツールは最適化されているのかどうかという視点が何よりも重要だ。優生保護法という法律に則した判断であっても、それは戦後日本社会のマネジメントとしては誤りであった、と。そう現在では結論を出しているのである。

仮に近年の世界的潮流を日本も考慮して、「比較的害悪の少ない一部の」摂取物については「合法化」するとの法律改正をするとしよう。そうすれば、合法化以前に「不法所持」を理由に職業生命を奪われた人にはどう賠償すればよいのだろう。おそらく非常に多数の行政訴訟が為されることは必至であろう。優生保護法の二の舞にならないことを祈るばかりだ。

議論をするときに『法に適合しているか、違反しているかによって善悪は定まる』という単細胞的思考を反復していると、前回にも書いたことだが、それは社会全体がバカになる近道である。法律ではなく、科学的な視点から事実だけを追うことが大事だ。

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まったく話は違うが、何事にも手っ取り早く正しいか、間違いかの答えを得たいと望む心理があって、「ここで法律を…」という議論になるのだろうと小生は個人的に推測している。

現実にはこの世に答えのある問題は実は少ない。しかし、ルールさえ決めておけば、法律さえ作っておけば、本来は答えのない問題でも正解を決めておくことができる ― 要するに、ルールをつくっておけば勝敗の決まるゲームを自由につくることができる。

このような<正解願望症候群>は社会心理上の病気であると小生は思う。その遠因として、客観評価法(=クイズ式)に基づく現行の「大学入試センター試験」が挙げられるとすれば、なるべく早期のうちに改善するべきだ、というのは実際に大学で仕事をしてきた身にとっては本音なのである。

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