2019年11月28日木曜日

一言メモ: 意味がよく分からない言葉から2例

最近になってからというより、3,40年のスパンで聞くことの多い単語でありながら、意味がよく分からない言葉がある。メディア業界用語というより言論業界でずっと愛用されてきた言葉ではないかと推測する。戦前期にも既にあった言葉なのかどうかは確認中である。

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その一つは「反社会的」という言葉。

「それは反社会的です」という人に限って『この問題は社会的に解決する必要があると思うのですよ』という意見を述べたがるものだ。小生、何かが問題になるとすぐに「社会で(国で、政府で)」という表現を愛用する人は、信条の核心部分において「社会主義者」である、そう思うことにしている。少なくとも「集団主義者」であると思う。それで大体は間違いはないと信じている。

社会主義者は個人の自由意志に否定的だ。規律が好きで、勝手を嫌う。関係者によるローカルな問題解決方式には理解をあまり示さず、それよりは中央管理型のルール化された問題解決方式を好む。

最近のメディア情報の言葉の使用をみると、ある行為や言動をとらえて「反社会的」と形容するのは、その人物や企業を社会から抹殺したいとの願望を込めているようなニュアンスがある。不適切を怖れずに引用すれば、韓国社会で「親日的」という言葉を投げつけるのと似たような、何か「裏切者」とか「犯罪者」に通じるような意味合いがあるのじゃあないかと憶断しているのだ。

疑問に思うのだが、いわゆる「反社会的勢力」。反社会的な勢力に属している人も大半は日本国籍を有しているはずで、従って彼らは選挙権を有し、法の前の平等と基本的人権を有しているのだが、この事実をちゃんと現代社会は分かっているのだろうか?法を犯す犯罪は処罰されるが、処罰されないのであれば普通に暮らすことができ、人種が違うかのように抑圧されたり、汚物を見るがごとくに差別されたりすることはないはずである。そんな疑問を感じることがある。

小生が若い時分は「反社会的勢力」などという灰色の言葉はなく、ずばり「非合法組織」という言葉が使われていた。国際的に通用するようになった(と言われる)「ヤクザ(Yakuuza)」も「やあさん (Yahsann)」も「極道モン」も「社会の余計者」を砕けていう時の言葉であった。そのうちに「暴力団」という言葉が浸透してきた。それが今は「反社会的勢力」、いわゆる「反社」になった。

使う言葉を次々に変更してきたことに何か厳密な意味上の違いを再定義して込めているのだろうか?

特にメディア業界の人が「反社会的勢力」という言葉を使うとき、ひょっとして『彼らは非国民ですから』という戦前期の殺し文句と同じ意味合いをこめて使っているなどということはないよネ、と。そんな問いかけをしたくなることもある。いや、メディアではない。現代日本社会の普通の人はそんな風に思っているわけではないよネ、と。

特に政治家など「公職」にある人は一視同仁。罪を憎んで人を憎まず、だ。日本国内で暮らす日本人、ばかりでなく外国人も含めて、差別の心情を排して公平に接することが大事だ。いくら政党に分かれ敵対しても、異分子などとは思うことなく、これだけは忘れてほしくないものだ。

案外、大事な点ではないだろうか。

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次に「前時代的」という言葉。

『そんな家族、前時代的ですよネ……』、こんな表現も最近非常に増えてきている。『今の時代、それはもう駄目ですよ』という言い方も意味合いとしては同じである。

しかし、この論法でいけば『社会は過去、現在、未来と一つの決まった方向に進歩していくものなのだ』と。こんな命題になってくる。

本当に、社会というのは絶えず進歩し続けていくものなのだろうか?

科学や技術は進歩する。前時代の正統派が実は間違っていると指摘されることもある。いわゆる『パラダイムの転換』である。しかし、それが本当に「進歩」であるのか否かはデータに基づく厳格な確証があって初めて学会が公認する結論である。「新しくて何となく進歩した感じ」という言葉に対応する客観的存在はない。これでは単に「新し物好き」であるだけだ。「何となくの感じ」とは違って科学知識は拡大情報系というか、知識の量が単調に増大していくものだと思う ― ま、これすら古代社会の崩壊と継承の断絶があり、「ルネサンス(文芸復興)」などという時代があったりするので確言はできないが。

社会が常に進歩するのであれば10年前の社会よりは今の社会の方が進んでいる。20年先の社会は更に進んでいる。故に、先輩世代は現役世代よりは遅れた社会で活動してきたのだ。そんな理屈になる。技術的にはそう言える。が、技術だけである。信条や理念、人間観、社会観は技術ではない。

「社会は常に進歩している」というこの考え方は日本人の好むところだ。過去を水に流す性向もここに由来するのかもしれない。しかし、これを一般に広げると、それこそ戦前期の日本で「下克上」と「軍律の乱れ」が蔓延し、「革新」を唱える青年将校の跋扈を許してしまった根本的原因になる。

日本の社会は常に進歩し続けて来たわけではなかったのだ。その時、その時の社会の通念が正しいとは限らない。「時代の風を読む」ことが正しいとは限らない。何が真理なのか、何が正しいのか、何が善なのか。これらの価値を求める努力は「時代を読む」という視点とはまったく関係がない。

アメリカや中国、ロシアに『1930年代の日本社会はその時はその時で正しい行動をしていたんですヨ』と。正面から言ってごらんなさい。その時点では前の時代よりは進んでいたはずだから、その時の考え方が一番正しいんですヨ、と。

『おのれ信じて直ければ敵百万人ありとても我ゆかん』である。

さすがにそれは怖いと感じるとすれば、「正しい」という自信がないからである。

社会は常に進歩し続けるわけではない。慰めは退化し続けるわけでもないことだ。

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以下は付け足し。

真のメディアがあれば、いま社会は進歩しつつあるのか、退化しつつあるのか、普通の人にとっても有用な情報が提供されるだろう。しかし、こんな事は実は期待できないのだ。耐久性のある良質な道路を費用をかけて建設すれば利用者には有難いが、破損個所がなくなるので道路補修の仕事がなくなってしまう。同じ理由で、メディア企業は情報に飢えた視聴者が絶えることなく大量に存在する社会をつくりたい。であるので、本当の意味で有用な情報を提供する動機はマスメディア企業の側にはないと考えられる。情報に渇いた大衆に提供するべき情報は「一滴の水」にしておく。いつの時代でも、それを持っている側がそれに渇いた側から多くを奪うものである。

「前時代的」という言葉には「俺たちが正しいから俺たちの言うことをきけ」という主張がニュアンスとしては込められている。と同時に、議論は時間の無駄だと言い切る不遜な姿勢も込められている。この分だけ悪質な表現になっている。正しい社会的理解が多くの人に共有されていれば、こんな表現は必要ないのではないだろうか。




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