2013年7月30日火曜日

これは日本が英国に寄せる親切心なのか

英紙Telegraphに以下の記事が掲載された。

Japan warns Britain to stay in the EU

Japan has warned Britain to stay in the European Union, hinting that tens of thousands of jobs could be under threat if it leaves.


具体的な内容は以下の通り。
Tokyo said that if the UK exits the single market it would have negative consequences for itself and, by implication, the UK.
"If the UK leaves the single market, countries investing in the UK and exporting to the EU would have to pay tariffs, and that is not good news," the Japanese embassy in London said, following an official submission by the country to a government consultation.
The UK's membership of the EU is under increased scrutiny after Prime Minister David Cameron pledged to renegotiate the relationship and hold a referendum on membership before the end of 2017.
Tokyo argued that Japanese companies see Britain as a gateway to the European market, according to a note seen by The Sunday Times.
The submission to the Foreign Office review said that the UK's membership of the EU has acted to bring Japanese investment to the country.
"The UK, as a champion of free trade, is a reliable partner for Japan. More than 1,300 Japanese companies have invested in the UK, as part of the single market of the EU, and have created 130,000 jobs, more than anywhere else in Europe.
"This fact demonstrates that the advantage of the UK as a gateway to the European market has attracted Japanese investment."
The Foreign Office declined to comment. -- Telegraph, Tuesday 30 July 2013
 イギリスは自由貿易の旗手であり、日本のよきパートナーだ、EUという共通市場へのゲートウェイとして1300社以上の日本企業が他の欧州諸国にもまして英国に投資している。これにより13万人以上の雇用が英国内に生まれている。

日本の対英投資がイギリスを豊かにしているという内容だ。いまイギリスはEU内にとどまるか、欧州大陸との関係をどうするのか、再検討を進めたいかのような雰囲気である。もし、万が一、イギリスがEUから離脱するということになれば、イギリスに投資することの旨味は消え去り、その経済的損失は莫大な額になろう。そんな趣旨である。

上の文章のUKに日本を、JapanにUSを代入できる状態では到底ないが、経済の理屈としては、アメリカ企業が日本国内に投資をすれば、豊かになるのは日本人である。であるのに、アメリカ企業が日本に進出しようとすれば大騒ぎになるのは、日本の地生えの企業の経営者にとっては脅威だからだ。しかし、従業員にとっては損ではない。上に引用したイギリスと日本の関係と同じ、進出した米企業が日本人に雇用機会を提供するからだ。打撃を被るのは、人材活用ゲームに敗れ去る日本の経営者だけである。うまくやって勝てば良いのだ。日本企業の経営者と従業員が利害を共有しているというのは、大きな間違いなのだが、しばしば日本人の多くは、自分は何も経営者ではないのに、経営者の肩をもって外国企業の対日投資を阻止しようとする。面妖な話だ。何が得で、何が損なのか、分かっているのか?怯えるばかりのJapanese Establishmentに<利用>されるのも、いいかげん大概にするべきだと、小生は思ったりするのだ、な。

ま、あくまでも経済に関すること、カネに関する事柄だが、要するに暮らしに関することは大事な話題であるはずだ。暮らしに関する話をするときに、自分の利益でなく、自分が勤める会社の社長の暮らしを心配するなど、ちょっとおかしかあ、ござんせんか?義理とか、人情とか、恩義の話しとは別の話しである。

2013年7月28日日曜日

日曜日の話し(7/28)

旭川で修習中の愚息は、中々進路が決まらなかったが、某所からやっと内々定の連絡を得て、その祝いもあって昨日拙宅に帰り、モエ・シャンドンのシャンパンを一本空けて、福島名酒「奥の松」と地元の「男山」を飲み尽くしてから、イモ焼酎「一刻者」をほとんど平らげた後、今日の昼また旭川に帰って行った。亡くなった父が愛飲していたと語って聞かせた"Jonny Walker -Black Label-"も一本カバンに入れてだ。もし就職先が決まらなければ、最悪の場合、博士後期課程の入学試験が来年2月にあるだろうから、それを受けてどこかに籍を置くしかなかろう、そして良い応募先があれば大学のポストでも探すしかなかろうなどと、カミさんとは相談していたところだ。そうなると、まだまだ授業料を払ってやらねばならなくなり、一体いつまで親の脛をかじるつもりかと。TVドラマ「半沢直樹」のカミさんではないが、『アア〜ア、ロースクールなんて行かせるんじゃなかった。カネはくうし、借金は増えるし、職にはつけねえし、屁理屈だけがうまくなってツブシはきかねえし、どうにもなりゃしない!いつまでも脛をかじってんじゃねえぞお』くらいは言ってやるかと内心思案していたところだ。

帰りしなに歴史小説は読んだことがあるかと聞いてみた。ないという。司馬遼太郎は知っているか?聞いたことはある、読んだことはないと答える。あれだね、オレくらいの世代の誰かが、入ると上の方にいるだろうが、ほとんど全てが司馬遼太郎の何かを読んでいる、そんな時代だったよ。まず読むとすれば、『坂の上の雲』か、『龍馬が行く』のどちらか一つから入るのがいいだろうねえ。更に、それから藤沢周平の『市塵』か、山本周五郎の『ながい坂』にいけば、宮仕えの何たるかが分かるかもな、そんな雑談もしておくかと思ったが、カミさんが何かの話しで割り込んだので、途中でとぎれてしまった。ま、今度にするか。

藤沢周平『市塵』、出版社:講談社、1989年

新井白石が好きである。入門は『折たく柴の記』であるので月並みだ。


白石がこの自伝を書き遺した動機は、自分は両親が年をとってから生まれた子であり、そのため比較的若く親を亡くし、父母の記憶が少ないのを淋しく思っていたことから、息子には自分や父(=息子の祖父)がどんな人物であったのかが分かるようにしておきたい。そんな気持ちからだそうだ。『折たく柴の記』は自分の死後、家族のために遺された自叙伝であり、何かを世間に主張するための本ではない。書き出しは両親の記憶である。
むかし人は、言ふべき事あればうち言ひて、その余(よ)はみだりにものいはず、いふべきことをも、いかにも言葉多からで、その義を尽くしたりけり。わが父母にてありし人々もかくぞおはしける。父にておはせし人のその年七十五なり給(たま)ひし時に、傷寒(しやうかん) をうれへて、こときれ給ひなんとするに、医の来たりて、「独参湯(どくじんたう)をなむすすむべし」と言ふなり。よのつねに人にいましめ給ひしは、「年若き人はいかにもありなむ。よはひかたぶきし身の、命限りあることをも知らで、薬のためにいきぐるしきさまして終はりぬるはわろし。あひかまへて心せよ」とのたまひしかば、「このこといかにやあらむ。」と言ふ人ありしかど、「疾喘(しつぜん)の急なるが、見まゐらすもこころぐるし」といふほどに、生薑汁(しゃうがじる)にあはせてすすめしに、それより生き出(い)で給ひて、つひにその病癒(い)え給ひたりけり。(出所)古文の部屋『折たく柴の記』(新井白石)
タイトルの『折たく柴の記』は、承久の変に敗れて隠岐に流された後鳥羽上皇の御製
思ひ出づる 折りたく柴の 夕煙 むせぶもうれし 忘れ形見に
による。この作品の内容は、全て、一人の人間の<記憶>である。そこに、小生、非常に近代化された人物を見る思いがするのだ、な。だから好きで仕方がない。

『折たく柴の記』は、絶妙なワインの味わいに似ているが、『読史余論』もまた幕末のベストセラー『日本外史』より遥かに文章の格調が高く、事実認識のバランスもよく、論理のよく通った歴史書だと思う。専門家ではないので、精読してきたわけではないが、今の時代、ほとんど読む人がいないというのは全くおかしな話しだ。 もっと読まれていれば根拠のない尊皇思想が野方図に広まる状況にはならなかったろう。

愚息に勧めようと思っていた藤沢周平『市塵』の新井白石像は、少々、偏屈で人好きのする人物ではない。妥協を知らない始末に困る人物で、およそ江戸城中で穏やかに生きて行く人物でなかったことは確かだが、単なる気難し屋では六代将軍徳川家宣からあそこまで信頼されるはずはない。実際には、科学的好奇心にあふれた合理的な百科事典的な人物であり、理屈の裏付けのないしきたりとか、非合理な偏見に接すると、我慢がならない、前例ばかりを言い募る幕閣が愚かに見えて、情けないあまりにきついことを言う。そんな人物であったのだろう。ま、「改革」の名を借りた松平定信の保守反動政局までは、元禄・正徳・享保・天明と幕府政治には大いに活力があった。そんな良き時代を背景にしている。

2013年7月26日金曜日

一流の仕事をすれば、すべて<タレント>、<政治家>として見なされるのか?

一流の仕事をして世界で有名になれば、日本では-というか、アメリカでも欧州でもどこでも-マスメディアが放っておかない。

「いやあ、私は人見知りですので、取材は全てお断りしているんです……」といって、断ること三回に及べば、今度は高慢であるとか、何様と思っているのか、更には<国民の知る権利>を何と心得ているのかとか、反社会的な思想をもっている歓迎されざる人間という評判を、知らないうちに世に広められてしまうことがある。

幸い日本で育った人なら、一人の人間の胸の内よりも<世間様>の感覚を上位におくという甚だ生きにくい側面をよく認識しているので、それほど下手をうつことはない。

しかし、外国人がどう思うかということまで考えながら、この国で生きていくとなると、一体どこまで、何人の人まで気づかいながら、仕事をしていけばいいのかキリがなくなってくるのも真実だろう。

そんなことを思わせるのが、ふってわいたような以下の報道。
慰安婦問題で「日本は謝罪して賠償すべき」、領土問題は「半分に分けるか、あるいは両方で管理しましょう」などとスタジオジブリの冊子に談話を掲載して韓国で大絶賛されていたはずの宮崎駿監督(72)だが、翌日には一転し、韓国でバッシングに晒されているという。
(中略)
宮崎監督といえば「風立ちぬ」公開直前の18日に、ジブリが無料の小冊子「熱風」7月号をウェブに公開したためネットで大バッシングを浴びることになった。憲法改正を特集した記事の中で、戦争放棄をしたにもかかわらず憲法第9条などを変えることには反対だなどと安倍首相を非難し、戦争中に近隣諸国に酷いことをしたのは明らかだから、慰安婦問題もきちんと謝罪し賠償すべきであり、半分に分けるか「両方で管理しましょう」という提案をすべき。国際司法裁判所に提訴しても収まるはずがない、などと主張した。
(中略)
ところが21日、韓国経済新聞のウェブサイトにこんな記事が掲載された。日帝時代の戦闘機「零戦」を美化した宮崎監督の新作映画「風立ちぬ」に韓国のネチズンが批判を強めている、という内容だった。零戦はアメリカのハワイ島への奇襲と神風特攻に使われたもので、現在ユーチューブには韓国語の字幕付きで予告編が公開されているが「殺傷用兵器を作った人を描くなんて宮崎監督に失望した」「慰安婦問題の批判は、映画の韓国上映を狙った擦り寄りだった」「零戦を組み立てたのは徴用された朝鮮人、中国人だ」などといったコメントが付いている。そして、まるで戦争を美化したり日本の戦争責任を誤魔化したりするようなフレーズが使われている、などと説明した。
(出所)J‐Castニュース、7月23日 

宮崎監督は、本日記者会見して
当時、飛行機を作ろうと思ったら、軍用機を作るしかなかった。時代の中で生きて、自分の仕事を一生懸命やって、その結果が判断されるが、一つのことを仕事にし続けると、マイナスを背負ってしまう。堀越二郎が正しいと思って、映画を作ったのではないが、彼が間違えたと簡単に決めつけたくなかった
こう語ったとのことだ。 (出所)Yomiuri Online、7月26日

小生が少年であった時代は、TVのアニメ、雑誌の連載漫画の相当数は戦記マンガだった。「紫電改のタカ」は最近になってまた読み返したほどだ。だからといって、小生が戦犯国で生まれ育ったことを忘れた好戦主義者だと非難されれば、それはもう耐えられないほどに腹が立って仕方がないだろう。そんな泥沼状態に落ちずにすむのは、小生がたまに書く論文も多くの人は読まないし、そもそも戦争とか、平和とか、国際政治などという事柄と全く関係のないことをやっており、総合月刊雑誌にオピニオンなる寄稿をすることもない、ごくごく普通の平凡な日本人であるからだ。これはもう自明のことだ。

確かにゼロ戦という微妙な素材を選んで、予想興行収入100億円にも達するビジネス的な成功を狙うなどは、それ自体、軽率な営業姿勢であるとは思う-小生なら怖くてそんなことはしない。

× × ×

とはいえ、そんなことを言い出せば、現在のロシアではロマノフ王朝時代を舞台とした歴史画は不適切であり公の場には出品できないことになろうし、腐りゆく死体を精密に描いた作品を公募展に出品することも甚だ非道徳的であると非難されることになる。

芸術は芸術のためにのみ存在するという芸術至上主義者であるつもりはないが、間違っていることはとにかく駄目、正しいことだけを行いなさい、と。政治があらゆることを律すると言いたげな<口うるさい21世紀の儒学者たち>にも、小生、実に辟易するところである。正しいことを求めること自体は間違っていないが、世の中を自分の意に沿うように矯正しようとすると、そんな人はいないほうがよい。この暑い中、五月蠅くて叶わん。そう感じるのは小生だけではあるまい。歴史家でも、政治家でもない人に歴史や政治を関連づけて非難するのは、『野暮だねえ、ほんとに』と呆れるのが、水に流すことを好む日本人の感性だろうと思う。タレントでもない人をタレント扱いして、何かというと世間に露出させるのは『ひどいねえ、ほんとに』というところだ。

<人意>よりも<自然>に従うナチュラル志向が、日本文化のかなりなコアを占めているのだと思う。忘れていくのは、忘れようとする怠慢ではなく、生きて行くための知恵であり、社会の和を維持するための摂理だと、多くの日本人は考えるはずだ。

栄枯盛衰は人の行為の結末であるには違いないが、究極的には自然の摂理の一断面だろう。蟻の盛衰に蟻の戦略や蟻の歴史を投影するのはバカバカしいわけであり、すべての生物集団は誕生・持続・衰退・消滅に至る自然のプロセスをたどるとみるのが客観的な真実だ。蟻の巣の盛衰を蟻の歴史や蟻の意志から考察しても時間の無駄であろう。そんな蟻の盛衰と人間社会の盛衰は非常によく似ているのだ。国家千年。これが人間の歴史に誕生したあらゆる国家の中では長寿の目安だろうとみている。ほとんどの国家は小規模、短命でまさに泡沫、<バブル国家>である。こうした観察事実こそ、諸行無常にくくられる歴史の実態だと、小生は日頃思っているのだ、な。

× × ×

嫌いなものがあれば、
あれは嫌いだ、見たくはないねえ
ただ、そう言えば、それで十分ではないか。好き嫌いだけは、人間固有の権利なのだから。

2013年7月23日火曜日

お世継ぎ誕生を喜ぶのは典型的祝賀行事であるようだ

英王室に若君御誕生ということでイギリス国内は大いに盛り上がっている。

キャメロン英首相は、早速、これは英国家の盛衰にとって重要な瞬間だと語っているそうだから、大時代的だ。
“It is an important moment in the life of our nation but, I suppose, above all it is a wonderful moment for a warm and loving couple who have got a brand new baby boy.
“It has been a remarkable few years for our royal family: a royal wedding that captured people’s hearts, that extraordinary and magnificent Jubilee and now this royal birth, all from a family that has given this nation so much incredible service.
“They can know that a proud nation is celebrating with a very proud and happy couple tonight.”
最後にあるように、現代民主主義国家が王室を戴く理由は、それがプライドの象徴、未来への自信の象徴である、ということなのだろう。
The baby, who will be called Prince (his Christian name) of Cambridge, replaces Prince Harry as the third in line to the throne.
It is the first time for more than 100 years that three direct heirs to the throne have been alive at the same time.
Source: Telegraph, Tuesday 23 July 2013 
男系王位継承順位者が3代にわたって健在である。この状態は100年以上遡らないとないそうだ。

日本の皇室も羨望を感じているかも。継承を直系男子に限定しているから尚更だ。時折不思議になるのは、ヨーロッパには反王室感情を露骨に表現する発言が時に報道されるが、ここ日本で反皇室感情をあからさまに、メディアに向かって述べる人がほとんど、というかまず絶対に現れないことだ。国民には色々な意見や思想、感情や思いを持っている人が多いはずであるのに、皇室尊崇に限ってはなぜここまで全員が一致するという形をとりたがるのか?小生にはいま一つ分からない。

カミさんと、先日、こんな話しをした。
カミさん: 今日、大学に迎えに行った時に、国旗があったけど、なんで?
小生: 大学の誕生日だよ
カミさん: あっそうか、今日なんだね。
小生: そうそう…だけど、昔は家の門の前に日の丸を掲揚していたけど、最近はしないよねえ、みんな持っているのかな、旗とさ、それとなんて言ったっけ?竿と端っこにつける金の玉 (^^;;;)
カミさん: うちだってないんだから。
小生: 実家でも日の丸あげてた?
カミさん: あげてたよ。習慣だし。
小生: だけどね、うちの親父、国旗をあげてはネ、『天ちゃん、今年でいくつになったんだっけな』ってさ、オフクロが『あなた、そういう呼び方、やめなさい』って言ってたよ。
カミさん: うちのお父さんも「天ちゃん」って。同じなんだねえ、あの世代。
小生: そりゃあ、直接当人ではないにしてもサ、軍の命令は天皇の命令って時代に、命を差し出せって命令されて死んで行った学校の友達は、数知れないんだから。とてもじゃないが、戦争が終わって「陛下」って尊敬をこめて口にする心理にはなれなかったろうねえ…
カミさん: うちのお父さんも中国から帰ってきた時は骨と皮で栄養失調だったんだって。

確かに反皇室発言を繰り返す際物的人物は見ないが、国旗掲揚の習慣が風化しつつあるのは、歴史の自然な流れであるのかもしれない。となると、いまの右傾化現象はどんな中身を持っているのか、これまた小生にはいま一つ分からない。

2013年7月21日日曜日

日曜日の話し(7/21)

19世紀の半ばに日本が開国してから30年程度、というか一世代分の間、ヨーロッパではジャポニズムが大いに盛り上がった。もちろん欧州の異国趣味は日本だけに関心を寄せたわけではなく、第一次グローバル経済が文化面に投影された現れだったのだろう。その意味では、最近10年の日本の韓流ブームも同類だし、エスニック料理好みも同じである。

異国趣味と既存芸術の破壊という点では、仏人画家ゴーギャンなどは最も過激な道を歩いた人ではなかったか。


ゴーギャン、自画像、1893年
(出所)WebMuseum

画家の背景に鎮座している南太平洋的でポリネシア的な偶像(Idol)の方により存在感を感じる―ゴーギャンはビジネスマンをやめて、苦労の多いプロの画家となり、<非常識な>作品を描いては酷評、嘲笑され続け、最後はタヒチで死ぬという自爆型人生を送った人なのだが、そんな人物がいかにも好みそうな代物ではないか。タヒチ島か…小生も欲しいねえ……、こんな感じの置き物。ま、ジャポニズムと言っても、要するに「いいねえ、こんな感じ」。その程度の美意識から広まった流行だった、そんな側面もあるのだろうが、作家ピエール・ロティやポール・クローデルが日本に向ける眼差しには理解と共感がある。印象というのは、やっぱり大事であって、真面目な動機につながることもあるのだ。

人と人の関係だけではなく、国と国の関係においても、印象はとても大事だ。その印象を形成するのは<ありのままの真実>ではなく、手元にある<サンプル>である。サンプルは真実とは違う。一部の情報をどう受け取るかが大事になるのは、何も統計学を勉強している時だけではない。いくらビッグデータの時代になっても、情報すべてを一度に見ることはできない。見ているのは常にサンプルだ。印象が先入観や偏見になると修正したり除去するのは容易ではない。

10人程度の伝言ゲームでも情報エラー、意図せざる誤解が簡単に起こる。10人が社会という場に広がると、利己的な情報操作― 政府公報やCMもその一種には違いない ―完全匿名の流言飛語が生まれてくる。流言飛語は、物でも生物でもない単なる情報だ。情報はソーシャル・ネットワークを流れる血流であろう。その中に入る情報ウィルスが流言飛語などの<負の情報>なのだな。

データ解析では、情報全体をシグナルとノイズの二つに分ける。シグナルは情報の内容で、ノイズは情報価値ゼロの雑音である。しかし、S+Nの2分類では社会的な情報処理を記述できないのじゃあないか?ノイズ未満の<負の情報>が現実にはあるような気がするのだな。

いや、いや、またホラを吹いてしまった。情報価値を定義することなく、負の情報を語ってもしようがない。ゴーギャンから情報価値まで話しが漂流してしまった。この辺でやめておこう。

2013年7月20日土曜日

China as Number One (CNO)は、JNOと相似形かもしれない

カミさんがいないので時間があってしょうがない。しゃべらないだけで、時間はできるものだと、改めて思う。もしカミさんに先立たれたら、毎日が永いだろうねえ……。で、何気にネットをみていた。
デンマーク紙ポリティケン(Politiken)の調査では、53%のデンマーク人が「中国は10年後に超大国として世界をリードする」と回答。「米国がリードする」と答えたのは30%だった。オバマ氏再選後、ポリティケンは中国共産党指導部の交代劇について特集を組んだが、コペンハーゲンの北欧アジア研究院のオスターガード研究員は「われわれはかなり前から北京の動向に注目していた」と話す。同研究員によれば、デンマーク経済は輸出に依存しており、国民の生活水準を維持するためには、世界第2位の経済大国であり、欧州全体の総人口に匹敵する中間所得層を有する中国に期待すべきだという。

コペンハーゲン大学の中国問題専門家、ビヨルン・ドルマン教授は「米国はデンマークにとって重要な貿易相手国だが、中国との長期にわたる発展的な関係はデンマークの未来にとって重要だ」と述べ、中国の新指導部と早急にパートナーシップを結ぶよう提言している。デンマーク人にとってオバマ氏は面白いテレビドラマであり、EUは退屈で味気ない存在だが、中国はデンマークの未来なのだ。(翻訳・編集/本郷)
(出所)レコード・チャイナ
しかし、小生は常識的に考えて、「いずれ最終的には」というならともかく、近い将来に中国が政治的、経済的な超大国になるという予想は、 実現困難だと思う。以下にその理由をあげて、覚え書きとしておきたい。
  1. 高度経済成長は、生産力の拡大だけではなく、需要がそれに伴って拡大しなければならない。Made in Chinaは、世界市場に浸透したが、世界市場が中国製品を買うことができたのは、それが安価であったと同時に、世界市場も高度成長していたからだ。世界市場の高度成長の背景として、金融技術と国際金融の発達があり、それを支えた欧米の金融機関がある。これらの金融基盤の生産性が2008年から2009年の危機以来、障害を起こしている。したがって、中国が旺盛な投資を継続して、生産力を拡大しても、世界市場の需要がついてきてくれない可能性が高い。
  2. 中国は国内市場で需要を創出することが、今後の経済成長には不可欠である。しかし、そのためには層の厚い中間所得層を形成しなければならない。それには所得分配をより平等化し、資産課税を強化する必要がある。この経済的平等は政治的平等に通じる道であるが、その道は中国共産党の一党独裁制とは相容れないと思われる。中国の国内市場を育てる上で、どこかで現在の政治制度と経済の現実との矛盾が破断界に達すると予想する。
  3. 中国も高齢化が進行している。アメリカは高齢化による<人口オーナス>の被害をこれからも回避できる見込みである。何よりも海外から人的資源を受け入れられる開放的な社会的基盤が整っているのが強みである。そんな開放的社会に中国がなっていくとは思えない。古(イニシエ)の世界帝国・唐王朝と、いまの中国共産党は全く違うのだ。既に共産党インターナショナルは消え去っているのだ。その世界性は幻想となっており、中国共産党の唯我独尊になり果てている。

社会学者エズラ・ヴォーゲルが、"Japan as Number One"を刊行したのは1979年である。この年、イラン・イラク戦争に端を発し、第二次石油危機が進行した。<官民一体>となった日本の際立った適応力が世界の注目をあびたことも今は懐かしい。確かに、なるほど、その後10年少しは<経済大国日本>が健在であり、ヴォーゲルの観察も的を射ているように見えたものの、Japan as Number Oneと言われてから11年後の1990年に東京バブルは突然破裂して、その後<デフレと停滞の20年>に入っていくのである。

2013年7月19日金曜日

統計ブームが統計バブルになる可能性

カミさんの母の三十三回忌が四国・松山で執り行われるので新千歳空港まで送って行った。母を亡くしたのはカミさんが23歳のときで、さらにそれより前、まだ東京の某女子大在学中に父を亡くしている。小生と初めてあった時には二親ともいなかったわけだが、小生の父がカミさんの父と同じ小学校、旧制中学校、旧制高校出身で、カミさんの父の方が2年先輩であった。そんなこんなで縁があったのだろう、ずっと法事がある度に松山に里帰りしていたが、一人健在だった兄も昨年他界して、カミさんが家族の中で一人残ることになった。今度の法事で永代供養にして終わりにしようと話しながら正午前の飛行機で帰って行った。

こんな家族状況はあまりないなあと、昨晩、カミさんに話しかけると「いつも話している▲▲さんと○○さんも、もうご両親いないんだよ、四人とも」、「そうなの?意外といるんだなあ」。長寿社会の中で、小生と同世代の人間の多くは老親の介護で大変苦労している。そんな世情の中で拙宅が歩んできた道のりは、どちらかと言えば、少数派だと思っていたが、案外いるものなのだなあ、しかし2シグマ範囲の中には含まれていないのじゃあないか……、こんな言い回しをするようじゃ、統計をメシの種にしていることが直ぐに分かってしまう。

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総務庁統計局が定期的に出している『統計調査ニュース』の今月号(No.320)に文科省初中局の長尾視学官が「高等学校における統計的な内容の意義と指導」という巻頭言を寄せている。曰く
高等学校では,新学習指導要領に基づき数学と理科が昨年度(平成24年度)から他教科に先駆けて学年進行で実施されています。数学科では,必履修科目数学Ⅰに「データの分析」という統計的な内容が含まれています。現場の先生方に「データの分析」について聞くと「どのように指導すればよいか分からず苦慮している」という返事が多くの場合,返ってきます。
(中略)
例えば,平均や分散,標準偏差などの知識があってもそれらの知識は適切に使われなければ意味はありません。これらの知識が適切に使われるためには,それらの知識の意味理解をきちんとすること,これらの知識を使う場面を設けてどのように使うかを実際に経験することが必要です。 
よく分かります……。平均はともかく、いや平均は最も大事なのだが、それとペアで活用する標準偏差。概念を説明して、計算方法を説明して、基本的な性質を説明して、さてこんなクイズを出す。

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ある遊器具の利用者全体の体重分布は、平均が50Kgで、標準偏差が15Kgだと想定しています。これはまあ、現実にかなり近いのじゃないかと思いますけど、いま想定どおりだとして、ある日に開催した試乗会に来た人は、どの位の体重の人が多いでしょう?目安はつきますか?あなたはどう思う?
「???……、50キロなんですかね?」
「5人をランダムに選びましょう。その5人の体重はどの位になりますか?見当がつきますか?」
「50キロですか?」
「みんな?」
「…そうです…ネ」
「みんな50キロの人になるんですか!?」
★ ★ ★

以前頻繁に投稿したテーマであるのだが、日本人は几帳面なせいか、確実な議論が大好きである。「こうなりそう」とか、「ああなりそう」という話しは、ホンネでは軽蔑しているというか、意味がないと考えている節がある ― よくそれでもって「計画」とか「戦略」を語れるものだと、小生は逆に不思議なのだが。日本人のこの潔癖症を小生は<確実な議論をしましょうよ症候群>と名付けている。純粋数学などをやると、日本人は高度の研究成果を出す。100%論理の世界には強い。

しかし、無作為にとった9人のサンプルはどの位の体重になるか?そんなの確定的には言えませんよ。当たり前でしょう。色々な9人がいるんだから。「なあんだ、分からないわけじゃないですか」。ここなんだ、な。統計を担当していて多数の人に共通のウィークポイントがあると思うのは。確実なことが言えないときは、ただちに「分からない」と答える。どうなるか分からないことは、要するに分からないのだ、と。

これが間違いだ。というより、確率的な考え方を感覚的に受け付けない。こう言う方が実態に近い。

どんな9人がとられるにせよ、その9人の平均体重は45キロから55キロまでの範囲におさまる確率が高い。安全を考えるなら40キロから60キロまでの範囲に収まるでしょうと予想しておけば、まずは確率95%でバッチリのはずだ。
「いわゆるルートNの法則と呼ばれているものですが、簡単な計算で、サンプルの平均値がこの程度の値になる確率がこの位ある、と。確率を数理的に評価できるのですね。確率が分かれば、事態の推移をマネージできるでしょう」。
どんな結果になるか分からないが、確率だけは数理的に求められて出てくる。本来は分からないのに、あたかも結果が分かっているように語る。変だ。おかしい。まやかしだ。そう感じる人は<確実な議論をしましょうよ症候群>にかかっている。

★ ★ ★

統計ブームは、多くの人が科学の目を開くのに絶好のチャンスだ。しかし、何事も確実であることを好む。こうなれば、こうなる。それこそ真理であって、それのみが真理であり、そうならなくても、ならない確率がわずかであれば、そんなことはないと割り切ればよいのだ。そう話すと、いや、それはおかしいと。じゃあ、原発はどうなる?大震災はどうなる?可能性があるなら、起こりうると考えるべきだ。

理屈の筋が通っているから、尚更、厄介な議論であるが、こんな議論に現在の統計ブームが埋没してしまうと、いまの統計ブームは槿花一朝の夢、はかないバブルとなる。そんな可能性もあると見ているのだ。

ひょっとしてビッグデータは、怪しげな統計的推測と違って、「データから本当のことを教えてくれる技術」だと期待されているのかもしれない。


2013年7月16日火曜日

自国首相の海外での不人気を気にするべきなのか

数日前にこんな報道があった。
 【ワシントン時事】米調査機関ピュー・リサーチ・センターは11日、アジア太平洋地域で行った対日意識調査の結果を発表した。それによると、「過去の軍事行動に対する日本の謝罪は不十分」との回答は韓国で98%、中国で78%に達した。
 また、安倍晋三首相の印象を尋ねたところ、好ましい印象を持つ人は中国で9%、韓国で12%にとどまった。「好ましくない」との答えは中韓両国とも85%。
(出所)時事ドットコム、2013/07/12-01:13
 同種のアンケート調査は(当たり前のことだが)ギリシアでも実施されているわけだ。
Noch führt die Bundeskanzlerin, doch ihr Finanzminister holt auf. Als die seriöse Athener Tageszeitung „Kathimerini“ und der zum gleichen Haus gehörende Fernsehsender „Skai“ im April wieder einmal eine Umfrage zur Popularität griechischer und ausländischer Politiker erheben ließen, gaben 87 Prozent der Befragten an, eine negative Meinung von Angela Merkel zu haben. Auf Platz zwei folgte Wolfgang Schäuble, über den sich 82 Prozent ablehnend äußerten – ein neuer Rekordwert für ihn.
Source: Frankfurter Allgemeine Zeitung, 16.07.2013
ギリシアの国内メディアが国内・海外政治家の印象をきいたアンケート調査によれば、今回もメルケル独首相がトップで、87%のギリシア人が独首相を支持、いやさ忌避しているとのこと。この忌避率は、中韓両国の安倍首相に対する忌避率を上回っているから大したものである。ギリシアによる忌避度No2もドイツ人であり、ショイブレ蔵相が第2位を占めた。忌避率は82%でこの数字は同蔵相にとっても新記録。メルケル首相の忌避率も前回より上がったが、ショイブレ蔵相が次第に差をつめており、デッドヒートになっているようだ。

ちょうど中韓の忌避率No2も日本人政治家であるようなもので、まあ小生が想像するに尖閣国有化を実施した野田佳彦前首相が選ばれるかもしれず、きっかけを作った石原慎太郎前都知事が忌避率第2位を占めるかもしれない。

メルケル、ショイブレ両氏ともギリシアでは忌避されているが、欧州のために貢献している側面も大きい ー 「欧州のため」というより「ドイツのため」と言う方が正確ではないかと小生は感じているが。これとギリシアでの評価。「カネを借りたことを忘れたか」と言いたいにちがいないドイツと「返せないことを知っていて貸したのだろうが」と言いた気なギリシア。ま、相手に好印象をもつわけがないわ、な。

これほど悪印象を持っていながらも政治としては両国ともEU連合に一緒に入っている。日本が中韓両国と<和>を醸し出すような雰囲気は、近い将来とても望めそうにもないが、それでも経済的なWin-Winを加速する多国間システムを構築して行く位のことは、可能ではないかと思うし、日本の政治家に委任されている課題でもあると思うが、どうだろう。


2013年7月14日日曜日

日曜日の話し(7/14)

前週の話題は歌川(安藤)広重だった。その後また確認したのだが、広重が死んだのは安政5(1858)年である。黒船来航は1回目の浦賀が1853年、2回目の横浜が1854年である。当然のこと、『東海道五十三次』や『名所江戸百景』を制作した広重も、黒船の図を描いているに違いない、と。そう思ったのだが、これまで一度も見たことがない。そう言えば、安政2(1855)年10月2日の安政江戸大地震も広重は経験している。半壊した江戸城・半蔵門を絵にしたところが幕府から発禁処分となったことは耳にしたことがある。とすれば、黒船を絵にして販売するなど、幕府が赦すはずがない。下手をすると首がとぶか、遠島だ。「だから、ないのかなあ」と思い至った次第。

ただ、迂闊なことにいま調べて分かったことだが、広重は浦賀に行ったことがある。


歌川広重、相州浦賀、制作年:??

江戸期は上方から江戸に膨大な量の物資が船で運送されていた。「お船改め」を行う番所は浦賀に置かれていた。だから浦賀は江戸に至る「海の玄関」であったわけだ。いまは全くの田舎になっていて米海軍のペリー提督はなぜ浦賀のような辺鄙な村に行ったのか、これまで不思議に思わなかったことこそ、全く迂闊というか、だから新しく分かる事実はいくらでも残っているのだ、な。船で江戸を目指すなら、幕末の時代、まずは浦賀に行くのが当たり前であったのだ。アメリカは幕府の海上保安体制をよく調査していたわけだ。

当時の老中・阿部正弘は慎重審議を理由にとりあえずかえってもらうことにしたが、翌年また来るといったペリーは今度は江戸湾に入って砲艦外交に出るつもりだった。幕府は大急ぎでお台場を築き、横浜を新たな港湾として建設することにした。この辺の事情は、よく出てくるのだが、さて…上の作品は黒船来航の前に描かれたのか、後なのか?やはり黒船が来る前なのだろうなあ。

いずれにしても、広重が没してから10年後に幕府は瓦解して明治維新となった。黒船がきて15年が過ぎたことになる。歴史の授業を聴いていた頃、1853年から1867年までの間は<瞬時>のように思われたものだ。毎年のように起こった事件の前後関係が中々頭に入らなかったものだ。しかし「十年一昔」ともいう。小生がいま暮らしている町に来てから、ようやく21年である。その間に幼かった愚息はすっかり大きくなって一人暮らしをしている。エコノミストがいう<長期>とは、普通は5年か10年程度の時間を指して言っている。15年はそれなりに長い。赤ちゃんが思春期にまで育つ。

黒船が来たあとの15年は「あっという間の15年」ではなく、むしろ「長かった15年」、「色々あった15年」であったと言うほうが、その頃の人たちの実感に近いかもしれない。

広重はコレラ(ころり)で病没したそうだ。これまた外国からやってきた伝染病だ。コミック「Jin –仁–」の世界と同じであるわけだ。広重の絵を特徴づけた"Hiroshige Blue"が欧州に輸入されてジャポニスムの波となったのは、以前投稿したこともあったし、また別の時に。日本よりも先に欧州と接触していた中国から、書や南画・北画が輸出されていたと思われるが、ヨーロッパの感性を刺激したのは中国の陶磁器と日本の絵画だ。文化的な多様性と言っておこう。



2013年7月13日土曜日

この相続課税は道理に合わぬ

こんな速報があった。
シルクロードを描き続けた日本画家で文化勲章受章者の故平山郁夫氏の妻、美知子氏(87)が、相続財産から現金約2億円を除外して申告したとして、東京国税局から遺産隠しを指摘されていたことが、関係者の話でわかった。
(中略)
平山氏の関係者の話などによると、2009年12月、脳梗塞のため79歳で死去した平山氏の遺産のうち、絵画など約9億円相当の美術品や、アトリエなどに使われていた約2億3000万円相当の土地・建物など計約11億4000万円分は、公益財団法人「平山郁夫シルクロード美術館」(神奈川県鎌倉市)に寄付され、非課税となった。同財団代表理事の美知子氏は、鎌倉市の自宅を長男と2分の1ずつ相続したなどとして、翌10年に税務申告したという。
しかし、12年に行われた税務調査で、平山氏の死後、自宅の洋服ダンスにあった紙袋の中から現金が見つかるなどしていたにもかかわらず、美知子氏がこうした現金計約2億円を申告から除外していたことが発覚したという。現金は平山氏が絵画などを売却した際に得た収入だったとみられる。
(出所)読売新聞、2013年7月13日08時00分
先日、小生が親しくしている損害保険代理店の経営者の方と雑談する機会があった。その時にも上と類似の話しをしたばかりだ。やはり亡くなった会社社長の未亡人から電話があって「困ったことが起きた」という。行くと押し入れの中の鞄から現金が出てきたというのだ。数えると▲▲千万円の札束があった。多分、自分がいなくなった後の妻の暮らしを案じて、ご主人がしまっておかれたのでしょう、と。いつからあったのかは分からないという。「他にこういうのはありませんか?家の中を全部調べましたか?」そう聞くと、二階は見たことがない。二階にも押し入れがあるからあるかもしれないという。このご夫人は80歳近い年齢で子息もいるのだが、時たま訪れるだけであるという。相続手続きをすませた後の現金なので、面倒になるということであった。ご夫人の印象も甚だ悪いというのだな。迷惑でもあろうし、気の毒でもある。

それにしても、上の記事がしらせている事情だが、ちょっと酷くはないか。

絵画を売却すれば、カネはもらうが、作品は世に出る。世間は作品を得るかわりに、夫人は生計費を得る。道理にかなっている。絵画を美術館に寄付をすれば免税で、カネなら税をとるというなら、売った見返りのカネも美術館に寄付をすれば免税とする理屈だ。遺された美術作品は遺族のものではないという思想がそこにはある。しかし、画伯が遺した美術作品は、まずは<全て>人生をともにした夫人の所有とするのが筋ではないだろうか。夫の遺した美術作品は、「社会のものだから社会に返しなさい」という権利が、正当だと言う論理はあるのだろうか。いま、カミさんとそんな話しをしたばかりだ。

絵画作品の<原価=制作コスト>などたかが知れている。市場価値があると騒いでいるのは社会の方だ。市場価値がない三流画伯の妻は気楽だが、「価値がある」と社会が勝手に騒いで、一流画家の未亡人に限って大枚のカネを払えと命令するのはヤリ過ギではないか。芸術家は、土地や工場など転用可能な生産要素を占有してきたわけではなく、大量の資源を費やしてきたわけでもなく、人を使ってきたわけでもない。社会に返すべきものを使ってきたわけではない。無から有を生み出したようなものだ。遺された作品は、遺族にとっては何よりも夫を、父を、母を、親しい家族を偲ぶよすがであって、他には代えられないものだ。一流だからといって、社会が遺族から没収する道理はない。

優れた美術作品を社会に還元するのが社会的利益であるというなら、寄付をさせるのではなく、遺族に市場価格を支払って、国家が買い上げるべきだろう。

2013年7月12日金曜日

米国FRB – 国際通貨体制はいま現在ベストでないことだけは確かだ

米国FRB議長のバーナンキ議長の講演がどんな内容になるのか衆目の関心を集めていたが、次のようであった。
[ケンブリッジ(米マサチューセッツ州)/ワシントン 10日 ロイター] - 米連邦準備理事会(FRB)のバーナンキ議長は10日、米インフレ率は依然低水準で、失業率は雇用情勢を誇張している可能性があるため、当面は金融緩和策を継続する、との方針を示した。
経済に悪影響を及ぼすほど金融の状況がひっ迫した場合は、それに対処する姿勢も示した。(出所)ロイター、2013年 07月 11日 06:59 JST
これを受けてNY市場のダウ平均は169.26ドル上昇して15460.92ドルになった。本日の東京市場もこの数日は不安気であったが微騰に転じた。威力抜群のバーナンキ講演なのだ。

しかし、こんなことでいいのか?疑問をもつ人も多かろう。いまは変動相場制なので、第二次大戦末期に行われた戦後の国際金融システムをめぐるケインズ対ホワイト論争は遠い時代の昔話しになってしまった。それでもドル基軸体制に対してケインズがもっていた心理的な懸念はいまの時代にも共有されている―特に中国やロシアにとっては―かのようだ。

China und Russland haben Angst um ihre Devisenreserven


Fed-Chef Bernanke will zunächst an seiner niedrigen Zinspolitik festhalten. Während sich die Märkte freuen, warnen China und Russland vor plötzlichen Veränderungen. Sie wollen eine berechenbare US-Geldpolitik.

WashingtonIn China und Russland wächst die Sorge vor den Folgen eines Ausstiegs der US-Notenbank Federal Reserve (Fed) aus ihrer ultralockeren Geldpolitik für die Weltwirtschaft. Der chinesische Finanzminister Lou Jiwei sagte am Donnerstag in Washington, sein Land unterstütze die Pläne der USA für ein Ende des Anleihenkaufprogamms, sobald es die Umstände zuließen. 
Source: Handelsblatt, 2013,7,11 

市場は歓迎しているようだが、今後突然の方針変更は困る、中ロにとって<予見可能>な形でアメリカの金融政策転換は行われるべきである。ま、そういうことを言っている。事前に日欧などには説明があると思うが―ないとは考えられないので―中・露当局にもFRBの政策方針を事前通知しているのかどうか、田舎で暮らしている小生にはよく分からない。

どちらにしてもケインズ案のように、新・国際通貨の発行、預金、貸し出しを行う国際中央銀行がもし設立されていれば ― 総裁にはアメリカ人が任命されているだろうが、それでも ― アメリカのFRB議長の一言半句がこれほどまで注目されることもなかったろうなあ……と思われる。

2013年7月11日木曜日

消費税率引き上げに踏み切れるだろうか?

国民の概ね半分は財政再建が必要だと考えていることは、(ずいぶん以前から)多くの世論調査が示してきた。

消費税率を8%に上げて、その後また10%にまで上げることは既定路線なのだから、あとは淡々・粛々と実行して行けばよい、というのが現時点のオーソドックスな考え方だろう。

とはいえ、経済成長の実現を目指すうえで、本当に<いま>増税を実施するのがベストなのか、というと様々な異論が―国内はもとより、海外からも―出てきて、百家争鳴の状況になっている。Yahoo!のトピックスのトップに以下の報道が出てきた。
今年の秋にはいよいよ消費増税の最終判断が行われる。消費増税に関する法律には景気条項がついているとはいえ、基本的に来年4月からの引き上げはほぼ規定路線となっている。その最大の理由は限界まで来たといわれる日本の財政問題である。
(中略)
一方、日本の公的債務のリスクが強調されるのは増税を主導したい財務省の意向が強く反映されており、世界最大の債権国である日本は、それほど公的債務を気にする必要はないとの見解もある。果たして日本の公的債務は本当に危機的な水準にあるのだろうか?
そりゃまあ、上にも書かれてあるが、増税に財務省の意向が強く働いているのは、当たり前である。一体、財務省以外の誰が<増税>をしましょうと言い出すだろう?

ただ増税は景気回復を台無しにするのか、景気回復の追い風になるのか、この論点はこれから議論を重ねて行くべきだろう。

マクロ経済学の初歩に「均衡財政乗数」というのがある。政府が100の増税をして、100の支出を行うと、100のカネをとられて、とったカネを政府が使うだけだから、差し引きチャラになるかどうかという問題だ。回答は、GDPは最終的に100だけ増える、だ。もちろんケインズが言った<乗数効果>は、状況を単純にする多くの仮定がある。あくまでも授業の中の話しの一つだが、それでも『増税路線が景気の足を引っ張ることはない』という一例にはなっている。

しかしながら、いまの日本経済に上の議論は当てはまらない。増税をした分、政府はそのカネを使うわけではないからだ。政府は、国債(=借金)で資金を調達して、支出をまかなっている。増税をすれば、カネを借りなくてもすむというだけで、使う金を増やすつもりはない。政府が借りたカネ(=国債)は後で戻ってくる建前だが、税はとられっぱなしだ。だから、民間で使うカネは必ず減る。政府が使う金は同じで、民間は減るので、ほかに何もしなければ必ず景気にはマイナスになる。ヨーロッパの<財政緊縮路線>が、経済成長をおさえ、所得をおさえ、税収も増えず、増税の目指す結果が中々出てこないのはそのためだ。

他方、『財政再建』はその国の経済成長にとってプラスであるという研究成果もある。増税をする場合も含まれる。需要は減るはずなのに、なぜ成長するのか?それは、<財政破綻リスク>が低下し、その国でビジネスをする企業が増えるからである。投資が増えるからである。ちょっと考えれば、当たり前の話しだ。インフレ率がゼロ%のまま、日本の国債がいきなり売り浴びせられるとしよう。長期金利は今の0.8%から5%に跳ね上がるかもしれない。もしそうなったら、利益はふっとぶし、事業にカネを使おうとするお目出度い人もいなくなる。円高になるかもしれないし、経済混乱をみて資金が流出し、円安が進み、金利はもっと上がるかもしれない。ま、地獄絵である、な。その時になって、<年金>などを論じた幸せだった時代を、多くの日本人は懐かしむであろう。

ということは、増税・財政再建路線のコアとして、企業の投資促進、日本への資本流入を促進して、経済成長を追求する姿勢を明らかにする必要がある。日本企業に対するM&Aを「黒船来襲」呼ばわりするようじゃ、覚悟が足りない。企業優遇なき、投資優遇なき増税路線は、愚かな自滅路線になるだけだ。国民は、本当にここまで十分理解しているだろうか?
財政再建?だから増税でしょ。子供の世代から借金するなんてよくないからネ。それでも足りなきゃ、年金を減額するしかしょうがないっしょ!だって、年金生活者が財政赤字の原因なんだから…
これぞまさしく「金庫番経済」です、な。そもそも「モラル」に適っている。平成の松平定信だ。もっと景気は悪化する理屈である。この程度の浅知恵でマクロ経済を運営しようとすれば、流言飛語で政治を行うデマゴーグ―具体的に誰がそうだとは言わないが―が活躍するだけである。

上に引用したYahoo!の記事も、成長重視の観点から次のように結んでいるので、まだまだ正論が絶えたわけではない。
カナダでは1990年前半に政府債務のGPD比が100%を超え、財政再建を決断した。だが緊縮財政で景気に悪影響を与えないよう、成長率がプラスになるタイミングを見計らって、支出の抑制を断行した。(中略)
 高齢化が進み、極めて重い社会保障負担に苦しむ日本と単純に比較することはできないかもしれない。だがカナダの事例は、財政再建を実現するには、順調な経済成長が何よりも重要であることを示している。

2013年7月9日火曜日

新興国ブームの終焉?

BRICS(=ブラジル、ロシア、インド、中国)の黄金時代もすっかり色あせて、いまはせいぜいがプラチナ時代となった感がある。

本日の日本経済新聞にも次のように語られている。
 「BRICs」という言葉を見聞きする機会がめっきり減ったように思う。ブラジル、ロシア、インド、中国の頭文字を組み合わせた略称で、一時は毎日のようにメディアに踊っていた。存在感が薄れつつあるのは、命名者の米運用会社会長が引退したから、という理由だけではないだろう。そこにはBRICsに代表される新興国が世界経済のけん引役から、リスクに変質してしまったという現実がある。 
(中略) 
米国経済が弱ってもBRICsを筆頭に新興国の経済は影響を受けない。そんな「デカップリング論」がもてはやされたのは、リーマン・ショックが起きた2008年のことだ。それから約5年が経過した今は、BRICsがふるわない中で米国が世界経済の下支え役となる「逆デカップリング」(7月4日の日経夕刊コラム『十字路』)の状態だ。 
(中略) 
4カ国の経済はそれぞれに問題を抱える。例えば中国はシャドーバンキング(闇の銀行)を通じてインフラや不動産に資金が流れ込んだ結果、大規模な設備余剰の問題が生じた。今後は投資の大幅な減少が予想されるが、「中国で固定資本への投資が40%減ればGDPは20%減少するだろう」(フィナンシャル・タイムズ)といった指摘もある。誰だって株式市場からマネーを引き上げたくなる。
(出所)日本経済新聞、7月9日
固定資本形成が40%減ならGDP全体が20%減となる。ということは、総需要全体に占める投資比率が50%に達しているわけだ。固定投資の寄与度は
GDPへの寄与度=固定投資の構成比×固定投資の伸び率
である。


日本の総固定資本形成(官+民)の対GDP比は、2001年に23%、2011年に21%。日本の固定投資が40%減少しても、GDPへの寄与度は8%にしかならない。

そもそも日本の固定資本形成は減るところまで減っているはずだ。国内の生産基盤を拡大すれば、生産能力が拡大するので、その分、国内で販売するか、海外に輸出するかしなければならない。日本は、産業構造が遅々として進化しないから、高齢化が進む社会で以前と同じビジネスをする企業が多い。国内では利用価値のない生産施設が残っていた。なので商品を海外で乱売する。新興国との競争は熾烈だ。だから円安を求める。国内では賃金をカットする誘因が出てくる。賃金がカットされるから国内でもなお一層のこと安値競争が進む。すると意に反して円高になる。

悪循環に落ちるわけだが、20年のデフレも、根本的原因は『進まない産業構造転換』であることは、もはや全てのエコノミストが合意しているはずだ。ま、経済産業省と厚生労働省の責任が大きいのだ、な。意見の違いは、ではどうするかという治療策である。

× × ×

まあ話しはさておいて、新興国がいまやリスクであるとは…、リーマン危機後の「デ・カップリング論」が転じて、アメリカが機関車。「逆デ・カップリング現象」が顕著になるとは…、一体、2009年初めに誰が想像したであろうか?

これも<バブル崩壊への臨床的治療法>がマクロ経済政策領域で確立されてきたことの証拠なのだろう。

とすれば、「もはやバブルは怖くない」。日本の1990年代とは違って、これからは金融バブルが崩壊したとしてもすぐに治せる…、本当にそうなら、バブルでも何でもいいから、とにかく経済を早く回復させてよ、と。そんな圧力に政府は抗しきれなくなるのではないだろうか。

国民は、結局はインフレを願望するものだ。オールド・マルクシストとして著名な大内兵衛氏の自伝『経済学五十年』を読むと、大内博士のケインズ評が出てくる。覚え書きとして引用しておこう。
何しろアメリカという国はチャップリンを王様にする国だから、ケインズもアメリカでは革命家になるのだろう。彼は確かにイギリスの貴族だ。彼はイギリスの坊さんマルサスによって、需要が生産を規定すると考えた。第一これからが変だが、作った品物は何でも人間にとって大切であり、人は不用のものを作るはずがないのであるから、それを作るための資本が過剰などということはない、それが過剰なら、政府がその品物を買って使えばいい、それで停滞した資本は動くのであり、資本が動けば商品は売れるのである。だから、仮に一時、買う金がないという変調が見えたら、そのときは、一時、紙幣を出してやっておけばよいというのだ。その先はその先だ、というのだ。こうして彼によればインフレーションがくり返して政策の中心となる。 
いわば一種の国家金融資本主義である。しかし、これを目的の方からいえば完全雇用であるから、これを一種の国家社会政策であるといっても間違いではない。イギリス、アメリカでこのような政策が重要になったことがすなわち『ケインズ革命』である。ケインズの思想的表現に従えば、それは『レーセ・フェアの終焉』である。
(出所)大内兵衛『経済学五十年』、467‐468頁 
ことマクロ経済政策については、思想革命はあっても、技術進歩はない。そんな考察もありうるような気もするのだが、それでもバブル治療が体系化されてきたことは何よりではないか。

 

2013年7月7日日曜日

日曜日の話し(7/7)

七夕。子供達が幼い頃は、七夕の夜になると近隣の家から『ささの葉、さあらさらあ、軒端にゆれるう、お〜星さあまあキイラキラア、金銀すなごお』と歌う声が、窓を開けはなした小生の宅まで聞こえてきたものだ。そう歌った子供達も、もう大きくなって独立したようだ。近頃、歩いている姿をみたことはない。拙宅の愚息達も家から独立して一人暮らしをしている。ま、近所の子供たちが同じだけ歳をとったのも当たり前のことだ。

汚くいるよりは綺麗でありたいという感情はいつ頃から芽生えるのだろうか。芸術は人間共通のこんな根源的欲求から始まったのだと思う。悪く言われるよりは善くいわれたい、嘘を言うよりは真実を話したい。暮らしの在り方や技術水準はすぐに変わって、Generation Gapとか、相互理解不能とか、そんな状態になってしまうのだが、ある面をみると時代や民族をこえて、人が求めること、喜ぶことはずっと同じである。だから、古代エジプトで使われた古楽器の演奏を聴きたくもあるし、モーツアルトの楽曲を現代アフリカの内陸部で部族的伝統のままに生活している人たちに聴いてもらいたくもなるのだろう。『クレオパトラの鼻がもう少し低ければ、世界の歴史は変わっていたであろう』などと誰かが話せば、その話しが以後ずっと伝えられるということにもなるのだ。

幼い頃にどんな美術作品がはじめて「好き」になったかと言えば、それはロダンの「考える人」である。多くの人も、ひょっとすると同じであったかもしれない。

ロダン、1880年

小学校の授業で何か先生から質問されて、考えているフリをするとき、上の姿勢を真似したりしたものだ。美という観点からロダンの作品を味わっていたわけではないが、「好きだ」という初めの感情は、案外、あと一歩で「わかる」という状態に至るのかもしれない。

その頃、クラスメートが集めていたのはマッチ箱に描かれていた歌川(安藤)広重の東海道五十三次である。朝、学校に登校して、教師が来るまでの短い時間、友人が机に並べる多くの浮世絵をみて、小生はソ奴の<高尚な趣味>に感嘆したものだった。


その友人は、場所柄もあって<三島>や<箱根>が好きであった ― 小生はその頃は三島の上岩崎という場所で暮らしていた。現在は「上岩崎公園」が整備されていて、ずいぶんパリッとしたが、渓流の両側にキャベツ畑が広がっていて、春になるとその畑で紋白蝶の幼虫である青虫をとっては育てていた、そんな昔ののどかな面影はまったく消え失せた。これを<都市化>と呼んでいることは言うまでもない。

都市化される前の原風景が美しかったのか、都市化されたあとの現代の景観がより美しいのか、それは主観によるもので正解はないように思われるのだけれども、最終的にジグザグの経路をたどって、どんな状態になっていくのか、変化をもたらす原因は無数に考えられるが、仮に何十年か後に元々の自然のままの状態に戻るのであれば、その状態を私たちが本当は求めていた、と。そう結論づけてもいいように思う。本当によいものは、たとえ日本の国力が低下しても、人口が減少しても、どんなことがあっても、私たちは残したいと思うはずである。そうはしない、昔の人間の構築物であっても消え去るに任せようと決めるのであれば、それはなくてもよい、美しくはない、そういうことなのだろうと考えている。

2013年7月6日土曜日

今後の課題ービッグデータは統計分析かビジネスか

ビッグデータが時代をとくキーワードであるかのように盛り上がっている。

とはいえベストセラー『統計学が最強の学問である』(西内啓)でも、ビッグデータをみる統計専門家の目には深い疑念がまじっている。

巷にはこんな文章もある。
ビッグデータだhadoopだ関係なく、パネル使ってサンプル調査するだけで分かる話でしょう。
裏側にはいっぱい仕掛けはあるんだろうけど、そのぐらいのことは小売ならどこでもやっている話ですね…。これをCOOがドヤ顔で発表してしまうのはマズいんじゃないでしょうか。(出所)ビッグデータという、99%の事業者には効果の無い話(山本一郎)、2,013年3月28日
他方、"Roundup: TDWI conference 2013 and more Big Data with R"という名称で大きなコンファレンスが開催されていて、これは確かにデータ解析の一分野であるとも言えるような気がする。

この5月に応用統計学会が福島市で開催した集会でもビッグデータが特別テーマだった。

確かに「ビッグデータ」という言葉は英誌The Economistが世界に広めたものだが、100パーセント利益を追求するビジネスであるとも思われず、そこには技術進歩が可能にしたある種の新しい科学がある、そんな風にも感じられるのだな。

本格的に新分野で生きて行くエネルギーは小生にはもう残っていないが、当分の間はビッグデータとは統計分析なのか、単なる誇大広告なのか、吟味してみようかと思う。

2013年7月4日木曜日

「左派」と「右派」の定義?

「右傾化」という言葉は、要するに保守化を意味するわけで、保守=右翼という言葉が背景にある。反対語は、左翼。これは革新勢力のことである。

左翼も右翼も、語源は議場における場所からきている。といっても日本の国会ではなく、フランス革命期の国民議会である。

たとえばWikepediaを検索すると次のように書いてある。
フランス革命直後の国民議会では、王党派に対して共和派が「左翼」と呼ばれた。フランス革命第二期では右翼のフイヤン派が没落し、今まで左翼だった共和派が支配的となる。しかし、政策を巡って再び左右で割れ、新しい軸が生まれる。そして右側には穏健派のジロンド派が座り、左側には過激派のジャコバン派が座ることとなった。
国王に忠誠を誓う政治勢力から見ると、いかに道理をわきまえているにしても市民勢力が権力を握ろうとする共和派は<危険>である。その市民勢力が、更に二つに割れて、平等社会を目指す急進派が議場の左に、主に成功した企業経営者から構成される穏健派が議場の右に着座した。それが右翼と左翼の語源だ。経営者からみれば、ラディカルな平等主義者は<危険>である。右翼にすわる社会の成功者(=エスタブリッシュメント)からみると、<左翼>は体制変革を目指すが故に、常に危険な存在なのである。

よく全ての政治勢力は左から社会に現れて、次第に右に移動して、右の袖から消えていくと言われる。最初は革命的であった政治勢力も、権力を手にして成功すると、にわかに体制維持を目指すようになり保守的になるという意味だ。

だから、小生は<保守革命>とか、<右傾化で新たな未来を開く>とか、そういう言葉は意味をなしていないと考えている。江戸期において「大胆だが危険な政策」を展開した政治家は田沼意次であろうし、幕府の伝統とは相いれない商工業重視路線を否定することから出発した松平定信の「寛政の改革」は、改革ではなく<保守反動>である。幕府政治は、以後ずっと、中堅幕臣層が門閥保守勢力に抑えられ、すべての改革に失敗し続けて、幕末に至った。体制内・右翼が体制内・左翼を最終的に制圧したのが幕府政治史だと思っている。ま、脱線気味になっているが、江戸幕府は統治組織として実に強固であったわけで、国際環境面のショックがなければ、なおも維持・持続が可能だったと見ているのだな。旧幕時代というのは日本の国内政治史の中で驚くべき時代だと思う。

× × ×

さて産経新聞が解せない文章を載せている。
左派は、毛沢東時代をすばらしい社会主義時代とみなし、改革開放時代は格差と腐敗でよごれ、社会主義の道からはずれているとして否定している。一方、右派は、4000万にものぼる餓死者を出した大躍進や2000万人にもおよぶ異常な死をもたらした文化大革命に象徴される毛沢東時代こそが否定されるべきであり、市場経済化の徹底、そして大胆な政治改革を推進すべきだと主張している。(出所)msn産経ニュース、2013年7月3日
中国では、中国共産党が政権をとっているのだから、社会主義体制の維持を目指すのが保守的であるに決まっている。体制変革を目指すのが革新であり、したがって市場経済派は中国では革新派、つまり左翼である。

大体、『右派は大胆な政治改革を推進するべきだと主張している』という文章表現自体が、そもそも奇異ではあるまいか。『ちょっと、この言葉づかいは、おれのとは違うなあ……』。

確かに毛沢東主義者は、日本人からみれば最左翼だが、現代中国においては最も原理に忠実な厳格・保守主義者である。中国の政治地図に、日本の、というか「西側の」という表現はカビが生えそうだが、自由経済圏の物差しをそのまま当てはめるのは、どうも違和感を感じる。右翼と左翼は、そのままオリジナルの意味をこめて使う方がわかりやすい。

2013年7月2日火曜日

Amazon.com ー 画廊は書店と同じ道をたどるのか

定期購読しているメールマガジンから、以下の報道にたどりついた。
AMAZON.com is expected to launch an online art gallery later this year. The online retailer of books, electronics and apparel aims to offer over 1,000 art objects from at least 125 galleries, according to dealers who have been approached by the website’s business development group. Amazon executives told one dealer that 109 galleries have already agreed to participate. 
The retail giant’s interest in launching an art gallery first came to light in May, when it organised an information session for New York dealers. Since then, the Seattle-based company has approached dozens, if not hundreds, of galleries from across the US about participating in the programme. A representative for Amazon declined to comment on its plans, saying, “We have not made any announcements about art”. 
At least one dealer was told his gallery could offer art under a pseudonym until the website became successful. Amazon representatives told dealers the site would resemble Amazon Wine, which launched last fall and works directly with 450 different vineyards and winemakers across the country. 
The art platform will take a commission from all sales conducted through the site rather than charge galleries a monthly fee to present their wares, according to dealers familiar with the venture. Commissions will range from 5% to 15% based on the work’s sale price, dealers say. (For comparison, the online sales site Artspace charges commissions ranging from 10% to 20%.)
Source: The Art Newspaper, 27 June 2013 
大手書籍店には、多くの本が並んでいるが、それでもわざわざ足を運んで買おうとしても、偶々在庫がなかったりすることは日常茶飯事だ。この事情は、専門書ばかりではなく、文庫本、古本にも当てはまる。なので、本好きで書店回り、古本屋回りを趣味としていた小生も、最近は「買うため」に本屋に行くのではなく、ただ「寄るだけ」のことが多い。

要するに、小売店は<売れ筋>を置くことを欲しているのであって、そこに行けば買えるという信頼感を顧客に与えることには失敗している。そう思うのだ、な。本屋から足が遠のきつつあるのは、何も行くのが嫌になったからではない。行っても、ないかもしれないから、探すのが面倒だから、だ。

この事情は、書店だけではなく、家電販売店、アパレルなど、全ての商品について当てはまる。アマゾンのビジネスモデルが成功した理由は、正にここにある。もはやアマゾンは、書籍ネット販売ではなく、「何でもそこにあるサイト」になりつつある。検索は瞬時に行われ、広告・宣伝も対個人で表示されるようになった。楽である。面白い。送料もかからない ― ただ欧州では地元業者を保護するため送料タダ商法は規制されるという記事を目にしたことがある(最終確認できていないのだが)。

流通は、「何でもそこにある」、「すぐに手に入る」、この二点で勝ち負けが決まる。要するに「市場(マーケット・バザール)」であれば、売る方は買い手が見つかるし、買い手は売り手をみつけることができる。その意味で、顧客を細分化して、ターゲットをしぼる商法は、利益率には有利だが、成長を目指す上ではヴァルネラブル(Vulnerable)だ、というのが小生の印象だ。つまり、大は小よりも圧倒的な競争優位を持ってしまう。日本の中古専門書売買では第一人者であった「赤い靴(Akaikutsu)」が姿を消した主因には、アマゾンが中古書籍売買に参入したことが挙げられる。顧客を浸食されたのは、なにも丸善やナウカだけではないのだ。

だから、今度は美術品市場に参入すると報じられても、やっぱりなと思うだけだ。書店の次は画廊が同じ道をたどるのだろう。ただ、美術界には文筆界とは異なる事情もある。文筆業は、作家+出版社+販売店の三本立てだが、美術界は作家+画廊の二本立てである。作家を育てる出版社が生き残っているのと同じ理由で、画家を育てる画廊はアマゾンが成長・拡大しても生き残る可能性は高い。

なくなるのは、画廊という店舗だけなのかもしれない。無論、真品を目で確かめたいというニーズはなくならないので、完全なネット販売は美術品には適しないが、常時店を開く必要はない。画廊連盟共有の面談室があれば、商談成立には事足りる。そんな風に美術品取引も変わって行くのではあるまいか。

とはいえ、アマゾンが作家と直取引を始める時がやがて来るだろう。作家は、どこかの団体に属し、仲間がいて刺激を受けてさえいれば、あとは創った作品を高額で買ってくれる買い手をみつけることだけが望みなのだから。