左翼も右翼も、語源は議場における場所からきている。といっても日本の国会ではなく、フランス革命期の国民議会である。
たとえばWikepediaを検索すると次のように書いてある。
フランス革命直後の国民議会では、王党派に対して共和派が「左翼」と呼ばれた。フランス革命第二期では右翼のフイヤン派が没落し、今まで左翼だった共和派が支配的となる。しかし、政策を巡って再び左右で割れ、新しい軸が生まれる。そして右側には穏健派のジロンド派が座り、左側には過激派のジャコバン派が座ることとなった。国王に忠誠を誓う政治勢力から見ると、いかに道理をわきまえているにしても市民勢力が権力を握ろうとする共和派は<危険>である。その市民勢力が、更に二つに割れて、平等社会を目指す急進派が議場の左に、主に成功した企業経営者から構成される穏健派が議場の右に着座した。それが右翼と左翼の語源だ。経営者からみれば、ラディカルな平等主義者は<危険>である。右翼にすわる社会の成功者(=エスタブリッシュメント)からみると、<左翼>は体制変革を目指すが故に、常に危険な存在なのである。
よく全ての政治勢力は左から社会に現れて、次第に右に移動して、右の袖から消えていくと言われる。最初は革命的であった政治勢力も、権力を手にして成功すると、にわかに体制維持を目指すようになり保守的になるという意味だ。
だから、小生は<保守革命>とか、<右傾化で新たな未来を開く>とか、そういう言葉は意味をなしていないと考えている。江戸期において「大胆だが危険な政策」を展開した政治家は田沼意次であろうし、幕府の伝統とは相いれない商工業重視路線を否定することから出発した松平定信の「寛政の改革」は、改革ではなく<保守反動>である。幕府政治は、以後ずっと、中堅幕臣層が門閥保守勢力に抑えられ、すべての改革に失敗し続けて、幕末に至った。体制内・右翼が体制内・左翼を最終的に制圧したのが幕府政治史だと思っている。ま、脱線気味になっているが、江戸幕府は統治組織として実に強固であったわけで、国際環境面のショックがなければ、なおも維持・持続が可能だったと見ているのだな。旧幕時代というのは日本の国内政治史の中で驚くべき時代だと思う。
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さて産経新聞が解せない文章を載せている。
左派は、毛沢東時代をすばらしい社会主義時代とみなし、改革開放時代は格差と腐敗でよごれ、社会主義の道からはずれているとして否定している。一方、右派は、4000万にものぼる餓死者を出した大躍進や2000万人にもおよぶ異常な死をもたらした文化大革命に象徴される毛沢東時代こそが否定されるべきであり、市場経済化の徹底、そして大胆な政治改革を推進すべきだと主張している。(出所)msn産経ニュース、2013年7月3日中国では、中国共産党が政権をとっているのだから、社会主義体制の維持を目指すのが保守的であるに決まっている。体制変革を目指すのが革新であり、したがって市場経済派は中国では革新派、つまり左翼である。
大体、『右派は大胆な政治改革を推進するべきだと主張している』という文章表現自体が、そもそも奇異ではあるまいか。『ちょっと、この言葉づかいは、おれのとは違うなあ……』。
確かに毛沢東主義者は、日本人からみれば最左翼だが、現代中国においては最も原理に忠実な厳格・保守主義者である。中国の政治地図に、日本の、というか「西側の」という表現はカビが生えそうだが、自由経済圏の物差しをそのまま当てはめるのは、どうも違和感を感じる。右翼と左翼は、そのままオリジナルの意味をこめて使う方がわかりやすい。
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