異国趣味と既存芸術の破壊という点では、仏人画家ゴーギャンなどは最も過激な道を歩いた人ではなかったか。
ゴーギャン、自画像、1893年
(出所)WebMuseum
画家の背景に鎮座している南太平洋的でポリネシア的な偶像(Idol)の方により存在感を感じる―ゴーギャンはビジネスマンをやめて、苦労の多いプロの画家となり、<非常識な>作品を描いては酷評、嘲笑され続け、最後はタヒチで死ぬという自爆型人生を送った人なのだが、そんな人物がいかにも好みそうな代物ではないか。タヒチ島か…小生も欲しいねえ……、こんな感じの置き物。ま、ジャポニズムと言っても、要するに「いいねえ、こんな感じ」。その程度の美意識から広まった流行だった、そんな側面もあるのだろうが、作家ピエール・ロティやポール・クローデルが日本に向ける眼差しには理解と共感がある。印象というのは、やっぱり大事であって、真面目な動機につながることもあるのだ。
人と人の関係だけではなく、国と国の関係においても、印象はとても大事だ。その印象を形成するのは<ありのままの真実>ではなく、手元にある<サンプル>である。サンプルは真実とは違う。一部の情報をどう受け取るかが大事になるのは、何も統計学を勉強している時だけではない。いくらビッグデータの時代になっても、情報すべてを一度に見ることはできない。見ているのは常にサンプルだ。印象が先入観や偏見になると修正したり除去するのは容易ではない。
10人程度の伝言ゲームでも情報エラー、意図せざる誤解が簡単に起こる。10人が社会という場に広がると、利己的な情報操作― 政府公報やCMもその一種には違いない ―完全匿名の流言飛語が生まれてくる。流言飛語は、物でも生物でもない単なる情報だ。情報はソーシャル・ネットワークを流れる血流であろう。その中に入る情報ウィルスが流言飛語などの<負の情報>なのだな。
データ解析では、情報全体をシグナルとノイズの二つに分ける。シグナルは情報の内容で、ノイズは情報価値ゼロの雑音である。しかし、S+Nの2分類では社会的な情報処理を記述できないのじゃあないか?ノイズ未満の<負の情報>が現実にはあるような気がするのだな。
いや、いや、またホラを吹いてしまった。情報価値を定義することなく、負の情報を語ってもしようがない。ゴーギャンから情報価値まで話しが漂流してしまった。この辺でやめておこう。
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