伊吹文明衆院議長は「われわれが電力の恩恵を享受する一方で、福島の人々にコストを負わせているように感じられる」という意味のことを述べた。同議長は国立劇場で行われた式典での追悼の辞で述べたものだ。……伊吹議長は花で飾られた祭壇を前に、日本の科学技術の進歩への称賛が「人間が自然を支配できるというおごり」を生じさせたことを嘆いた。そして「将来の脱原発を見据えて」エネルギー政策を議論していくと述べ、短い式辞を締めくくった。(出所)Wall Street Journal Japan, 2014-3-12
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しかし、この種の意見に似ているような状況というか、例え話はいくつもある。
ある家庭は零細企業を経営することで生計をたてていた。その企業は化学工業であり、公害防止設備のメンテナンスが必要である。しかし、既設の公害防止設備は老朽化しており、だましだまし運転している状況である。そんな時に家族の父親であり、経営者でもあった社長が引退して息子に代替わりした。息子は、公害防止設備を最新機械に更新しようと考えて、必要な資金の融資について金融機関と相談を始めた。と同時に、自己資金を捻出することも大事なので、外食や家族旅行などレジャー関係費を切り詰めようとした。
そんな息子に対して引退した父親は、「そんな無理をする必要はない。この事業もそろそろ限界だ。いまある機械が運転できる間は運転して、限界がきたら廃業すればいい。そうしたら機械をまるごと入れ替える資金はいらないし、無理に資金をつくる必要もない」。
公害防止に手を抜くことはタブーである。事業継続に公害防止設備は要る。しかし、事業継続にこれ以上無理をすることはないと、父親はそう言いはじめた。父親は、廃業をしても手元の資金で余生を送れる。しかし、これから生きていく息子は事業の継続を必要としている。そもそもそんな風に育てられてきたのだ。
公害防止機械の入れ替えを怠ってきたのは父親である。怠ってきたことを事業をついだ息子が実行しようとしている。そのためのコストは、ずっと前に払っておくべきだったのだ。父親は、むしろ止めてしまったらどうだという。廃業して楽隠居をするのは父である。父が亡くなってから苦労をするのは息子である。これは父親の<世代エゴ>とはいえないか。
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安価な原子力発電で日本経済は成長してきた。しかし、それには問題があったという。止めていこうという。止めたほうがよいことを、では何故推し進めてきたのか。ここにもやはり<世代エゴ>の感性が臭ってくると感じるのは小生だけか。
将来のことは老人が決めるべきではないと感じるのは小生だけか。もちろん若い現役世代が、ほかでもない自分の将来を考えてそうするというなら、言うことはない。
経済に打ち出の小槌はない。福島第一は確かに永年のツケを払ったのかもしれない。しかし、東日本大震災で事故を起こしたのは福島第一だけなのだ。あとは設計通りに停止している。その福島第一は廃炉にしてもおかしくなかったほどの老朽原発であった。電源プラグがGE仕様で他とは異なる形をしていた。危なかったのだ。なぜそんな施設を動かし続けていたのか。その経営判断になぜもっと目を向けないのだろうか。
小生も交通事故で廃車にしたことがある。自分を信じられない期間はもちろんあった。しかし、地方で仕事をするなら車の運転を止めてしまうわけにはいかない。運転を諦めれば、他に運転してくれる人にカネを払うか、同じ距離を歩いて吹雪の中で遭難することも、より高い確率でありうるのだ。
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