その前日は学生時代からの旧い友人二人と銀座「ハゲ天」で会食。店がリニューアルされたというが、どうも細部は記憶しておらず、そうかねえという感覚だ。北海道は食材はあれど、天麩羅にそれほど良い店がないと思う。改めて東京の天麩羅を食べると、ネタよりも揚げ具合なのかと気がつく。
友人たちと話をする話題は、実は無粋というか、若い時分に口角泡を飛ばして議論をしたような事ばかりであった。「ウクライナはどうなるのかなあ?」、「クリミアを超えて支配下に置こうとしている、そこが問題なんだ」、「中国が第二列島線をこえて進出し、太平洋をアメリカと東西分割すると、日米安保も韓米安保もどうなるんだ?」、「意味をなさなくなるんだよ」。ウクライナねえ…、この齢になって話すことなのか。そうも思われるのだが、永井荷風の「十九の秋」にあるこんな下りをふと思い出した。
梨花淡白柳深青蘇軾の詩である。
柳絮飛時花満城
惆悵東欄一株雪
人生看得幾清明
梨花は淡白にして、柳は深青荷風は確か第3句「一株の雪」を「一樹の雪」と書いていたのではなかったか、調べればすぐに分かるが、いま定かではない。確かに自分の年齢を忘れて、若いときと同じように、思ったことを言いあってみても、自分とはほとんど縁のない外国の政情を日本の天ぷら屋であれこれ議論してみても、得ることはほとんどなく、まあ時間のムダと言ってもよいのである。
柳絮の飛ぶ時 花は城に満つ
惆悵す、東欄一株の雪
人生看るを得るは幾清明ぞ
それでは人間50になれば50にふさわしい話をする、60になれば60の話しをするべきなのか?では100歳を過ぎればどんな話をすればいいのか……、そんな風にも言えるのだ、な。
ムダに議論をしているようであっても、若い時分と変わらず語りあう、こんな時間が人生であと何回訪れてくれるのか。いま語り合っているその事が、実は最も有難く、愛おしむべきなのだ、と。そう思い至った次第なのだ。
× × ×
昔と変わらずやっている。そうかと思えば、授業のスタイル、読書のスタイル、生活のスタイルは、どんどん変わっている。
今日は会議の後、海辺のカフェまで走って同僚とカレーを食べたのだが、そんな話題になった。
小生: 本は買わなくなりましたよ。私はKindleを買ってまだ一年ですけどね、もう200冊以上の本がこのくらいの小さな端末に入っているんですよ。たとえばね、Schumpeterの"Capitalism, Socialism and Democracy"があるでしょう。あれは200円で買いましたね。
同僚: 200円!古書で買うと1500円くらいはしますよ、それが200円ですか。
小生: 著作権が切れているんでしょ。そんなことをいえば、夏目漱石全集があるでしょ?あれ全部を110円くらいで買いましたよ。持って運べないですよね、本だと。
同僚: いやあ絶句しますね。△△先生、ITでは私よりはるかに先を行ってますよ。私はどうも初版本とか、表紙のデザインとか、そんなところに目が行ってしまいます。
小生: こないだあった私の友人はネ、授業ではパワーポイントを使わないんですよ。黒板に書いた板書を書き写しているときに、大事なことは理解できるんだという信念があるんですよね。その代り、好きなクラシック・ジャズはアマゾンのMP3で聴いているんですよ。自分はどこでこだわるか。それは自分で選んでいけばいいんじゃないですか。
× × ×
いくら技術が進歩しても、料理はやっぱり板前が包丁とまな板でやっている。変えられないものは確かにある。
しかし、最先端のやり方をどんどん取り入れるほうが便利なこともある。買う本の大半をKindle本にして一番有難いことは、本をしまう場所がいらなくなったことだ。読み終わって手元におく必要がなくなれば、いつでも端末から消去できる。本は一度手放すと他人のものになるが、一度消したKindle本をまた読みたくなれば、クラウドからダウンロードすればよい。本はなくならないのだ。確かに小生が好きな紙の香り、インクの匂いはしないのだが、本の嵩張りと重さから解放された点は、誰もが認める最先端技術の有難さであろう。
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