再検証とは言っても、最初から内容に踏み込むことは予定せず、まずは手続きを検証すると幹事長は話しているが、手続きが不十分であったという判断を出せば、日本政府としては河野談話は正確な事実認識に基づいたものではなかったという結論にせざるを得ないので、内容に踏み込んで新しく談話を出すという道筋になってしまうのではないか。
パターンとしては、すでに判決の出ている裁判をやり直すことに似ている。確かに「誤判」はないのにこしたことはないが、数学の問題ではないのだから、「正しいと思われる結論」が何よりも最優先されるものでもあるまい。綸言汗の如しというが、もし談話の出し直しをする羽目になれば、その新たな談話はもちろん、以後公表するすべての談話は二度と信頼されなくなるだろう。そちらのほうが心配である。なんだか親の誤りに不平を言い募る若旦那を連想してしまう…、ちょっと危ない。
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韓国のことではなく、中国のことだが、案外、共通の糸口になるかもしれないと感じたのが、今日読んだ本だ。加藤陽子『NHKさかのぼり日本史-②昭和 止められなかった戦争』である。
日米開戦の主因は、第一次世界大戦後の20年にわたって潜在的に在ったものであり、それは第一に巨大市場・中国をめぐって日米間の利害対立があったため、更にその背景として第一次大戦後のイギリスの凋落、中国における影響力の衰退があったため等々、全体として非常に知的刺激を感じる著作であった。
面白い箇所は数多くあるのだが、結局、次の下りが全てのまとめになっているのではなかろうか。
なぜこんなことになってしまったのでしょうか。日本が中国と真摯に向き合っていなかったことが最大の原因だと私は考えています。この指摘に尽きると思うのだ、な。
アメリカとの開戦は多くの日本人がありうることと想定はしていたが、誰も望んでは居なかった。その対米戦争が起こってしまったのは、1937年に唐突に始まった日中戦争の早期終結に日本政府が失敗したからだ。中国の戦略が効を奏して、戦域拡大を止められず、持久戦に持ち込まれ、日本の方が窮した挙げ句に選んでしまった戦争である。では、なぜ中国との戦争早期終結に失敗したのか。それは第一に中国側の抗日意思の強さを正しく認識できなかった、第二に中国側の対日戦争準備の周到さを正確に把握していなかった。この二点に尽きる。それでは、なぜ中国は抗日意思をそれほど激しく持つに至ったか。日清戦争もあるが、根本的には日本が大陸進出への野心をもっていた、領土拡大への究極的な野望をもっていたからである。内なる意図は外に表れる行動から分かるものだ。日本は「侵略」をしようと企てたことはなかったかもしれないが、「持てる国」たらんとする野心、領土拡大を喜ぶ国民的心情を持っていたことは否めないのではないか。そして、この心理こそいわゆる『帝国主義』を支える心情であって、特に第一次大戦後は否定・非難・抑止しなければならない理念とされていた。これも新興国アメリカの国是であり、American Philosophyであったわけだ。ま、持てる国・アメリカが「現状維持」を主張するのも、当時の日本人が聞けば腹立たしかったろうとは想像できるが、ともかくあらましこんな点が、いま現時点までに専門家の間で合意されている事柄ではあるまいか。
「太平洋戦争」は、アメリカ側の呼称である。実際に、しかし、日本がずっと戦争をした相手は中国である。150万人の兵を中国に投入して、満州事変を起こした1931年から45年までの15年間、戦争をしたのは中国とである-宣戦布告をせず国際法でいう「戦争」に敢えてしなかったのは、アメリカが中立法を適用して貿易制限、金融規制の対象となる事態を日中ともに避けたためである。要するに、ドイツにとってはロシアが、日本にとっては中国が避けるべき鬼門であったのであり、現実の歴史には無数の誤りが隠されている。そう見るのがロジックだろう。
そこで上の疑問に戻るわけだ。
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相手が韓国になっても相手と真摯に向き合うことが大事であることは変わらない。何を認め、何を認めないかは色々な議論がある。議論は異なっても仕方がない。しかし、顔を向ける方向は同じでなければ議論すらできない。外交は外から見える行動で決まるが、議論の積み重ねがなければ相手が理解できず、理解できなければ信頼が生まれず、不信が生まれる。真剣な議論は碁や将棋と同じで「待った」や「やり直し」はきかないものである。
小生のカミさんの従姉の旦那さんの叔父さん…とまるで吾輩は猫であるの吾輩が恋をした雌猫のようであるが、アメリカ西海岸の某ロースクールを出て弁護士の資格をとろうとしたところ、ちょうど戦争がはじまって合格を取り消されたそうである。その人物は、法律に関係する仕事にはついたらしいが、永い時間がたって(とはいえ随分以前のことになるそうだが)正式にアメリカ政府から連絡があり、合格判定の確認と永年の不利益に対する謝罪をうけたそうである。卒業したロースクールには、そんな事実があったことを記憶するため、記念文庫が設けられているそうだ。
たった一人に対する迫害ですらも、確認をして必要なら謝罪をする。国家と国家の取り決めで全て済んだことにする。確かに手っ取り早い方法ではあるが、アメリカがそんな風な行動をとっていれば、上の話しをきいてアメリカという国家が醸し出すフェアネス(Fairness)に感心することもなかったわけである。少なくとも加害者の側は「それは済んだことですよね」とは言う資格がない。その心情こそ、むしろ万国共通のものである。そのことを小生ひそかに心配しているのだ。
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