それほどウンザリしていることは、小生には今のところはないが、死後に何かの世界があるとして、そこでもやらないといけないとすれば、流石に「もう勘弁してくれよ」というのはある。
(1)カネ
カネのやりくりにもウンザリしているが、株価の上げ下げに一喜一憂するのもせいぜいこの世限りにしたい。そもそもこの世の悪の原因はほとんどがカネであると小生は思っている。聖書の世界にエデンの園を追われたアダムとイブが登場するが、それ以来、何かを得るには何かを犠牲にしなければならない、そんな収支バランスの制約に人間は置かれることになった。食っていくためには、まずカネをもらわないといけない。この世の原理・原則はここから来る。能力と運のある人間はカネを多くもち、能力も運もない人間にはカネがない。本当にもうウンザリだ。
(2)会議
「みんなで話し合って決めよう」というが、窮極のところ「少数は多数に従え」という手続きが会議である。道理や筋道を探るために会議があるのではない。異論をこれ以上述べることは反組織的であるというケジメとして行うのが会議という行為である。小生はそう観察している。やはりウンザリである。
(3)選挙
言わずもがなであろう。彼岸の世界に神がいるとして、そこでも神々の首座を誰にするか、下々の人間の精霊が選挙を行うとしたら、これ以上ウンザリすることはない。神は永遠の生命をもつ。最高の愛と知性をもつ主神が決まっていれば、永遠に主神は主神であるべきであり、選挙は必要ではない。選挙による民主主義は、人間には寿命があり、どんな聖君も老化するからだ。子は親の才能を受け継ぐとは限らず、臣下たちの権力闘争によって、王朝政治は必ず堕落し、腐敗する。選挙は、それ故に必要であり、民主主義が人間社会では望ましいが、肉体を脱した魂が来世でも選挙をするとなると、これはもってのほかであり、ウンザリする。
キリストのイコン、ビザンチン帝国1100年前後
800年代から1200年頃までコンスタンティノープル(現イスタンブール)を都にして広大なギリシア語文化圏の最盛期を築いたビザンチン帝国であれ、どこであれ、時代を問わず、国を問わず、人間なら喜んでする話しが三つある、というのは小生がまだ学部学生を主な対象として授業をしていた時に好んでとりあげた話題だ。
イ.食べ物の話し
何がうまいか、何が名物か。どんなものを食べているか、どんな料理の仕方をしているのか。この話題は、どんな人間も必ず興味を持つ。
ロ.愛憎の話し
お家騒動、跡目相続争い、正妻と愛人の争い等々は、どんな国のどんな時代であっても、その人の貧富を問わずして、人間社会には必ず存在する。聞いていると、身につまされたり、勉強をさせてもらうことも多いのが、この話題である。
ハ.財産の話し
カネの話しである。どんな人がどの位のカネをもっていて、家の大きさ、領地の大きさ、支配している人間の数はどうか。その財産をどのようにして築いたのか。うまい方法はあるのか。戦争をした時にはどんな戦略で勝ったのか。人間は必ずこの種の話題に興味を持つ。明治維新のときの指導理念となった富国強兵は、財産の話しが国家戦略へと昇華してできたものである。上の(イ)は無害であるが、(ロ)と(ハ)は一国の盛衰にもつながる大事である。特に国の財産は「国富」とも言うほど重要な話題だ。人が興味をもつのは当然である。その財産は、多分に運による。人間が神を信仰するのは、これだけが唯一の理由ではないが、財産のためである。小生はそう思っている。
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