最近、(日本でも)仏教が話題になることが段々と増えている。それは、多分、アメリカ・ヨーロッパで仏教への関心がトレンドとして上がってきている。これを日本でも(何となく)感じているせいなのかな、と。つまりは、欧米の流行をこれも追っかけているということか、と。何だか冷めた思いで観る気持ちでもあります。
それはともかく・・・
どの宗派でも、仏教で最も理解がしづらいのは《空》という観念ではなかろうか?
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言葉で言うのは簡単だ。分かったような事を語るのも簡単だ。しかし、《空》という観念を真に理解している人がいれば、言葉の定義に従えば、その人は菩薩の中でも最高位にあることになるという理屈だ。
小生も(当然ながら)よく分からない。
ただ、いま『無量寿経』の好きな部分である往覲偈を滞りなく読誦できるように勉強しているところなのだが、岩波文庫『浄土三部経』の註にこんな下りを見つけた。原文の『浄慧知本空』の中の「本空」に対する註である:
(本空とは)本性は空であるということ。一切の現象は本来空のものであり、因縁によって生じたものであるという道理。
最後の「道理」は、むしろ「世界観」、「宇宙観」という方が今流の表現だろう。それと「因縁」というのは、仏理上の用語で「因+縁」によって全ての現象の生起が決定されるということだ。「因」は、思い切ってシンプルに意訳すれば、永遠に遡った「ベクトル自己回帰過程」、それも和分されていて非定常な過程における過去の全ての実現値を指すと、勝手にイメージしている。「縁」は、現時点において作用するランダムな外的要因だと、これまた勝手に理解している。言い換えると、繰り返し転生する輪廻の中の「過去の生」から決まっていた「業」が、まったくの偶然的要因をきっかけにして、そもそもその人が持っていた「業」が現実の結果となって帰結する、と。
マ、ギリシア悲劇の名作である『オイディプス王』を連想させるような世界観であるわけだ。
このページの欄外に手書きのメモが書かれている:
空。一切は(過去の)因と(現在の)縁による。これは徹底的な因果論。因果論を徹底すれば、意志は無意味になる。意志が無意味になるから、善を求める目的論的行為も無意味になる。というより、我という実在も実はなく、我だと自覚している意識は幻のような実体のない感覚にすぎない。無我が真理である。
「空」から「無我」が当然の理屈として出てくる。ロジックとしてはこんなロジックになるのか、と。
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こう書くと、とても突飛なようであるが、極端な原子論に立って、しかもすべての現象は素粒子の運動によって決まると考える還元主義に立てば、上のような思考になる。科学的な唯物論と仏教的な空の思想は、案外、似ているのだと小生は勝手に理解している。
その科学主義が好きなのが今の世間というものだが、よく聞いていると因果論的予測よりは実現したい目的が先にある目的合理性を主張することが多い。そんな話の方を世間は好むのだと思うが、このような主観的願望は、まったく意味がない。すべては空である。仏教はこう考える(はずだ)から、現代日本、というより現代世界で仏教への関心が高まっているのは、とても不思議な気がする。
今日は、仏智とか、大悲とか、ここからが宗教であり、信仰だという境界は省略した。ただ、仏教の基本が<空>の観念であるのは事実だから、メモしておく次第。
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